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顕進様の真実〜希望の未来へ
真実を求めて
(祝福家庭の皆様へ送るメッセージ)
櫻井正上氏ブログのまとめ

【信仰の考察3】道徳的人間と非道徳的社会

韓国留学時代、中学生の頃の話です。エイプリルフールとは「嘘をついてもいい日」のはずですが、なぜか韓国では「イタズラをしてもいい日」(!?)。 その日に行われたテスト時間、クラスの男子全員で「プロジェクトX」を実行しました。簡単に言うと、頭のいいクラスメートが問題を解いた後、シャーペンのカチカチ音で全員に回答を伝えるというもの(^^;)。まずは全員で時計の針を合わせ、回答する開始時間を設定。それから5秒ごとに、例えば、秒針が00~05秒を指す間に第一問、06~10秒で第二問…と進みながら、その5秒間のうち最初の1秒目(2,3,4秒目)でカチっと鳴らしたら、四択中の1番(2,3,4番)が回答、という具合です(汗) この「無謀」な試みは、途中で見事に試験官の先生にバレました。理由は、みんなして時計を覗きこみ、一枚目の問題が終わった時点で、「一斉に」答案用紙を裏返したからです(!) エイプリルフールとはいえ、さすがに叱られました。こうなるだろうと予測し得たイタズラも、「みんなでやる」となると、やれてしまうのかもしれません。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」みたいな心理でしょう(汗)。 周知の通り、個人が集団になる時に生じる特有の心理のことを「集団心理」といいます。その特性の一つとして、集団になると、まずは「感情」が高ぶります。スポーツ観戦などが良い例でしょう。感情や興奮が倍増するのです。一方で、「思考」は単純化する、といいます。「あなた、どう思いますか」と聞かれた場合と、「皆さん、どう思いますか?」と全体に聞かれた場合とでは、頭の回転が変わるでしょう。優秀な社員でも、全員を一度に集めてできることなど、「Yes/No」の多数決をとる事くらいではないでしょうか? そして、何よりも、集団になると、「道徳心」(モラル)が低下するのです。 「道徳的人間と非道徳的社会」という本があります。著者はラインホールド・ニーバーというアメリカの神学者。実際は倫理学・政治学に多大な影響を及ぼした人物であり、オバマ前大統領が自らが影響を受けた思想家の一人として挙げた人物です。私は大学の卒論で二人の神学者の思想の比較考察を行いましたが、その一人がニーバーでした。 キリスト教神学が「現実の生」と関係のない「机上の空論」に陥ることを批判し、一方で、単にヒューマニズム的な観点(=人間や社会を楽観視)から理想主義(ユートピアニズム)を語ることをも批判した彼の思想は「キリスト教リアリズム(現実主義)」と呼ばれました。上記の本はそんな彼の代表作です。 内容を単純化すると、こんな感じです。「個人」としての人間は、他者を考慮し、時には自分よりも他者を優先することもできます。即ち「道徳的」であり得るのです。にもかかわらず、個人が集まって「集団」を成す時、それが会社であれ、組織であれ、そこには「非道徳的」な姿が現れる、という訳です。即ち、モラルは最低レベルにまで低下し、非合理的で、無責任で、衝動的な状態となります。「個人」としては道徳心あふれる同じ人間が、「社会」の非道徳については麻痺してしまうのです。 強いて、原理用語に置き変えるなら、本性であれ、堕落性であれ、集団となると、相乗効果(授受作用)によってそれらが倍増しますが、集団心理としては、本性よりも、堕落性の方が刺激され易い、ということでしょう。負の感情や欲求が膨らみ、理性や道徳心が麻痺し、「これは良いのか悪いのか」「どうすべきなのか」といった本質的なことに対する思考がストップしてしまうのです。 また、組織悪や構造悪というのは、青少年の「いじめ」の文化のように、「諸悪の根源」が分かりにくいものです。首謀者は誰か、誰が問題なのか、誰を正せば、いじめがなくなるのか…。当然、最初のボタンを押す扇動者はいるのでしょう。しかし、ある瞬間から首謀者は消え、得たいの知れない「集団悪」と向き合わなければならなくなるのです。親や教員からすれば、「みんないい子」。実際、一人一人を見れば、そうなのかもしれません。ところが、集団となると、違う現象が出現するのです。個々としては、ほんの小さな虚栄や欺瞞の思い、自己保身の思いが、集団としては大きな問題として現れ、もはや個々のモラルや良心では立ち向かえない強大な力となり得るのです。 私たちの教会を見た時、一人一人は善良な人が多いに違いありません。しかし、組織全体の在り方には大きな課題があって、そうであるにもかかわらず、誰の責任なのかを追及し続けても、諸悪の根源が見えて来ないのです。 実際、私は本部で共に仕事を成してきた人々に対し、誰一人、負の感情を抱いてはいません。しかし、「組織全体のあり方」については、大きな課題を覚えてきました。それは私だけの実感ではないでしょう。特に顯進様側に対してとってきた行動は、決して「正常」ではありませんでした。その「中断」を訴えようとしたのが、私が声を挙げた理由でもありました。 こうした声を挙げることに対し、ある方々は言います。「どちらが正しいかを言い続けても解決しない。『愛』で一つになるしかないじゃないか」と。それは、よく分かります。私もそう言い続けてきたからです。『正義』では解決しない、『愛』で解決するしかないのだ、と―。 「愛と正義」は大きな神学的テーマでもありました。正義は不正を「正すこと」を教え、愛はそれをも「赦すこと」を教えます。ただ、ニーバーの思想を借りて言うなら、こうです。個人の行動において目指すべき指標が「愛」なら、社会(集団)において目指すべき指標が「正義」です。個々人の関係においては、私は「正義」よりも「愛」を先立てたいと思います。しかし、集団や組織となった場合、「正義」(原理)を立てていかないと、全体の在り方として、それは人々が、社会が、天が認め得るものにはならないでしょう! 私たちの運動がもたらしている集団的な行動が「原理的行動」なのか「非原理的行動」なのか―。今一度、見つめ直してみる必要があると思います。個々の内にある恨みや憎悪は「愛」で打ち消すべきでしょう。しかし、組織悪や構造悪に対しては「正義」(原理)をもって判断し、正して行かなければならないのではないでしょうか? 顯進様に対して私たちの教会がとってきた行動は、少なくとも、「原理的」ではありませんでした。そして、それは、今なお、多くの食口の方々の知らないところで、続いています。個々のレベルで言えば、食口の一人一人が「石を投げた」訳ではありません。しかし、組織が「石を投げる」ことに対しては、「思考停止」になっていたのだと思います。無論、何の情報も伝わっていなかったのですから、食口の方々に責任を問うことなどできないでしょう。しかし、これからでも構いません、受け取れる情報に対しては、目を塞がず、耳を塞がず、受け止めて頂きたいのです。 私は食口の一人一人が愛情深く、道徳的な方々であることを知っています。同時に、社会や集団、組織の前に、個人の力は微々たるものであって、個人としては到底、太刀打ちできないものであることも知っています。ただ、自らが属している組織や集団の在り方に対し、「無感覚」になってはいけないと思うのです。 長くなりました。最後にニーバーの言葉(祈り)を紹介して終わります。
「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を われらに与えたまえ。 変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを 与えたまえ。 そして、変えることのできるものと 変えることのできないものとを 識別する知恵を与えたまえ。」
2018-01-17 00:14:19
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