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顕進様の真実〜希望の未来へ
真実を求めて
(祝福家庭の皆様へ送るメッセージ)
櫻井正上氏ブログのまとめ

【信仰の考察4】歴史のイエスと信仰のキリスト

かつてまだ二世が少なかった頃、「二世神話」なるものが存在していました。「神の子にはフツーでない、特別な能力があるに違いない」―、そんな期待やら信仰のようなものがあったのでしょう。幼い頃、教会のお姉さんに、「ねぇ、神様、感じる?」と聞かれ、「全~然」と答えたところ、ショックを覚えておられました^^;  仮に二世に特別な資質があったとしても、多分、そうした能力ではないでしょう(汗) かつて教会の方々の多くが、二世を見る度に言われた「希望ですね~」という言葉…。二世が成長し、教会の身近なところに「出没」するようになってからは、あまり聞かれなくなったように思います。「希望ですね~」とだけ言い切れない、様々な「実体」に触れたからでしょう(汗)神話が神話でなくなくなった訳です ^^;  ただ、ある教育担当者はこう話しておられました。「二世たちの良い面・悪い面、ありのままを見れるようになって初めて、彼らの本当の良さに気付くんですよね」と。 私は大人になるまで、親を「神話化」(理想化)していたところがありました。幼少期は親が教会活動で留守にしていたことが多く、私も中高大と、韓国で寮生活や自炊生活を送っていたため、親子で「日常生活」を共にした経験が乏しかったのです。私が親と「ガチ」の同居生活をしたのは、大学卒業後のことでした。「立派な両親・立派な息子」と、互いを理想化していただけに、ありのままを受け入れられず、当初は衝突したものです。しかし、本当の意味で、親子が互いを理解し合えるようになったのは、そうした衝突を通して、「神話」から抜け出てからだったように思います。 かつてある神学者が「聖書の神話化」ということを語りました。聖書は「史実」(歴史的事実)の記録というよりも、当時の人々の「信仰」の記録であって、イエス様の復活から数々の奇跡物語に至るまで、聖書には、人々の信仰が生んだ数々の「神話」が織り込まれていると言えます。そのため、現代人が聖書を読み解くには、「神話」の部分を切り離し、そこから聖書の「普遍的メッセージ」を抜き取らないといけない、と考えた訳です。 また、聖書に記されたイエス・キリストも、当時の人々の「信仰」を通して見つめた「信仰のキリスト」であって、そこから、「歴史」を生きた生身の人間としての「歴史のイエス」を抽出、探求しようとする流れも生じました。 確かに、現代に生きる私たちは、誰一人、イエス様の真の姿を知りません。現存するイエス様の肖像画は皆、後世の人々が自らの信仰を通して思い描いたイエス像であり、彼らはその中に自らの思う、最も聖らかで、美しい姿を重ね合わせたのでしょう。 実際、夢路に現れ、困難な時に思いを馳せるのは「信仰のキリスト」であって、それがクリスチャンたちの祈りと信仰を支え続けたに違いありません。そうした意味では、それも「真実のイエス像」だと言えるでしょう。ただ、その一方で、人々はまた、奇跡物語に見られる超人的なイエス様ではなく、現実を生き、歴史を生きた、日常的で、身近なイエス様の生涯にこそ、神の最も普遍的なメッセージがある、とも考えたのです。 私たちもお父様を巡る、数々の奇跡物語に触れてきました。それら一つ一つが生きた証しであり、お父様に触れた人々の実感であったに違いありません。しかし、そうした逸話にも、私たちの「信仰」が多分に反映されているのに違いありません。「父母様は全知全能である」「私たちの全てを見透かしている」「過去も未来も分かる」「父母様の言うことに間違いはない」…。私たちが幼い時などは、それこそ、アボジは「病も癒せるんじゃないか」「嵐も沈められるはず」「水の上を歩くこともできるかも」(汗) みたいな思いまでありました。人格面でも、「理想化」して見つめる傾向があったように思います。 私は何も、父母様を信仰的に見つめることを軽視し、人間的に見つめましょう、と言いたいのではありません。中高生期、私は何度も、お父様の早朝礼拝に参加し、まぶたにタイガーバームを塗りたくって眠気と闘いながら、お父様の語られる姿を見続けました。最初はびっくりしたものです。まずはとにかく、悪口というか、ドぎつい言葉が多かったからです。自分が勝手に思い込んでいたお父様像とはだいぶ違いました。それが信仰なく見つめた時のアボジ像です。 しかし、自らが御言を知り、父母様の生涯を学び、人生の中で苦悩し、信仰に目覚めた後に父母様の御言に触れた時、その姿に、語られる言葉に、涙が溢れてなりませんでした…。私たちの「信仰」が、本当の意味で、「父母様を見る」ことを可能にするのです。 ただ、一方で、人はどこまでも、見たいように見、聞きたいように聞き、信じたいように信じるものです。自分の信仰や理想を投影し過ぎることで、現実のお父様、お母様を見れなくしてしまうこともあるでしょう。「お父様は絶対だ」…。そう言われる方であるほど、案外、お父様との接点がない場合が多いのかもしれません。 実際、近くで触れてみると、お父様は真の愛とは程遠い話をされることもあれば、ちょっとしたことで勘違いされ、癇癪を起こすこともあります。フツーに考えたら、お父様は極めてコミュニケーションの難しい方かもしれません。頑固一徹で、外から見れば、傲慢な方だと見る人もいるでしょう。それが、「現実のアボジ」の姿です。ただ、あらゆる神話を取っ払って見つめた時、本当の心情世界もまた見えてくるように思うのです。 お父様御自身、「よくも神様は先生のような人間をメシヤに選んだや…」と言われます。御自身を気が短く、激情家だと語られたこともありました。そんなお父様が何年も何年も延長に延長を重ね、忍耐に忍耐を重ね、生涯にわたって御旨をなし、許し難き者を許し、愛し難き者を愛して来られたのです。その全ては、親なる神様を知ったからに他なりません。自らが癇癪を起したくなるような現実を前に、それでもまず神様を慰労しようとされ、希望が見えない状況にあっても、神様にまず「希望をお持ちください」と祈られた―、それがお父様だったと思うのです。 かつて顯進様は、「多くが自分の見つめたいように父母様を見つめているが、あなた方は父母様を、実の親として見つめる真の子女の心情世界をもって見つめないといけない」と語られたことがありました。 顯進様はお父様を「全知全能」だとも、「完全無欠」だとも思っておられませんでした。子どもは親をよく見ています。普通、子どもが実の親を「メシヤ」と信じることなどできないでしょう。欠点もあるし、課題もある。しかし、何をもって顯進様がお父様を「メシヤ」と信じ、父母様を「真の父母」として信じ、愛されたのか―。 それは、誰よりも神様を愛し、人類を愛し、世界を愛して生涯を生きた、そのようなお父様の生き様を、父母様の姿を見て来られたからです。奇跡物語ゆえではありません。聖人君子のような人格ゆえでもありません。自分たちをただ愛して、大事にしてくれたからでもありません。神の子女として、人類の親として、生涯を歩まれたがゆえに、父母様を信じ、愛されるです。 「顯進様は父母様をよく分かっておられない」―。そう言われる方々がいますが、それを語る私たちよりも、顯進様はよっぽど父母様という方をよく知っておられ、私たちよりもよっぽど深く、父母様を見つめ、愛し、信じているのだ、と、私は思います。
2018-01-30 10:48:01
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