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顕進様の真実〜希望の未来へ
真実を求めて
(祝福家庭の皆様へ送るメッセージ)
櫻井正上氏ブログのまとめ

【信仰の考察5】カトリックとプロテスタント

前編

大学3年の頃、鮮文大学神学部・創設以来、初となる「学生デモ」が起こりました。その記録すべき事件で学生たちが訴えた内容とは…なんと…世界平和でも、社会正義でもない、「食堂のメニューを改善せよ!」でした。(汗) 一般学生の在籍する新キャンパスが日に日に整備され、充実していく一方で、99%信徒のみの神学部の施設整備だけが取り残されていました。市街地に出るにもバスで30分。キャンパス内には喫茶店も、娯楽施設もなく、唯一、栄養を摂取できる学生食堂の食事の中身は「ああ、無情」でした。(涙) 信仰はあっても「食欲」は別。学生たちは授業をボイコットしてチャペル室に集合。掲げられたプラカードの中には、「我々に信仰があると思って舐めるな」(!?)という訳の分からない文言もありました。^^; この時、我らが「日本人留学生会」は、一応、方法論に異を唱えたものの、多勢に無勢…。結局、総長が駆けつけ、学生たちとの交渉に応じる形で事なきを得ました。何とも恥ずかしい話ですが、実際、このデモを切っ掛けに、神学部の学生食堂が改善されるのです!「雨降って地固まる」とは、このことでしょう。^^; 方法論はさておき、下から「改善・改革」の声が上がるというのは、現状に何かしらの課題があるからに違いありません。問題のないところに「革命の狼煙」が挙がるはずもないからです。そして、その下からの声は、必ずしも、不満や怒り、恨みといった堕落性からのみ引き起こされるものではないでしょう。神の摂理や人の本性によって引き起こされる革命、善悪闘争というものもあるからです。 中世ヨーロッパ。かつてキリスト教会が絶大な力を誇り、人々の前に君臨していた時代がありました。「教会の外に救いはない」―。当時、ローマ教皇を頂点とするキリスト教会は「普遍的(=カトリック)」な救いを標榜し、人類に対する贖罪と救いの全ての権利をその足元に置きました。教会は言わば、神と人とを結ぶ「唯一の接点」だったのです。 一方で、カトリック教会のそうした権威に反旗を翻し、個々の自由な信仰を求める「新たな流れ」が興ってきます。これが「プロテスタント」(=抗議する者)に他なりません。 カトリックが「教会の権威や儀式」を重視し、教皇―枢機卿―司教―司祭(神父)等からなる明確な位階制度をもった「中央集権型の組織体制」を有するのに対し、プロテスタントは「個々の信仰」を重視し、自由な聖書解釈を良しとしたため、そこから無数の教派が生まれました。また、プロテスタントでは「万人祭司」を説いているため、信徒を教え導く「牧師」はいるものの、彼らは「聖職者」とは呼ばれません。神の前にあっては皆、信徒と「同じ立場」だと考えたからです。 私たちの教会の現体制は、間違いなく、カトリックに近いでしょう。ローマ教皇をキリストの代身と信じ、中心に据えるように、私たちも真の父母様、或いはその代身者(責任者)を中心に、一つのピラミッド型の指示系統や組織体制を有するからです。無論、氏族メシヤや家庭教会など、今後の方向性からみれば、プロテスタント型(全食口=氏族メシヤ)を目指さざるを得ないはずですが、その転換は容易でないでしょう。組織としての達成目標が大き過ぎるからです。 2000年代に入り、お父様は「天一国主人」、顯進様は「オーナーシップ」(主人意識)と言われながら、信徒の「主体的信仰」を強調されますが、それを危惧する声もありました。個々の自主性が強調されればされる程、教会が信徒を「主管」しにくくなる側面もあるからです。

後編

確かに、一つの摂理目的を果たそうとする場合、個々が自由な発想をし、主体的に動く体制よりも、上意下達の組織体制のほうが早いに違いありません。復帰摂理歴史を見ても、まず「民主社会」の前に「君主社会」にメシヤを迎えて摂理を進め、宗教的にも、カトリックの画一的な教会組織を通して、一気に御旨を進めることが最初の展開でした。 しかし、中世教会が腐敗した時 ―教皇庁が腐敗し、聖職者の汚職がはびこり、信仰が形骸化した時 ― 神は新しい摂理を展開せざるを得なくなるのです! 16世紀、庶民の生活をよそに、教会は「聖ペテロ大聖堂」構築の資金調達のため、「免罪符」(=罪を軽減させる御札)の販売に乗り出しますが、これに、ヴィッテンベルク大学の教授が反駁文を発表するに至りました。これが即ち、マルティン・ルターの「95ヶ条の論題」に他なりません。 ここから「宗教改革」が興っていきますが、それは「改革」というより、「革命」と言うべきでしょう。プロテスタントは言わば、「教会の権威」を否定し、「神と人とを媒介する権力は必要ない」と主張したのです。キリストと自分たちを結ぶものは、「信仰のみ」であり(Sola Fide)「聖書(神の言葉)のみ」であり(Sola Scriptura)「神の恩寵のみ」である(Sola Gratia)―。彼らは「教会のあるところに救いがある」のではなく、「救いを得た信徒たちの集うところに教会がある」と考えたのです。 当時のカトリック教会から見れば、プロテスタントは言わば「分派」でした。教会の権威に盾突く者たちであり、「不信仰者」に他なりません。教会は「一体化せよ」「分裂してはいけない」と説いたに違いありません。しかし、そこには「神の摂理」があったのです。 無論、最初の神の願いは、カトリック自体内の刷新運動であったに違いありません。しかし、教会の問題が決定的になった時、神は「新たなキリスト教」を興さざるを得なくなったのです。 私は以前から思ってきました。顯進様の思想はあたかもプロテスタンティズムのようだ、と。教会が真の父母様を「教会組織の中心」とし、その「指示」に絶対服従することを強調してきたのに対して、顯進様は真の父母様を「神の夢の主人」とし、私たち一人一人がその伝統を受け継いで生きることを教えられました。天一国時代に最も必要な姿勢として、顯進様は神の御旨に対する個々の「オーナーシップ」を強調されたのです。 冒頭で述べたように、問題がないところに「地の声」は上がりません。今、教会にこれだけの分裂が生じているのは、内部に何か「根本的な課題」が生じているからではないでしょうか? もし、その「地の声」が単なる人間の不満や堕落性から生じたものなら、そこに神はおられないでしょう。しかし、それが何によって起こされているのかを、私たちはよくよく見極める必要があると思うのです。 中世教会が腐敗した時、神はこれをカイン・アベルに分立されました。簡単に言えば、「教会中心主義」の体制から、「人間中心主義」「神中心主義」の二つの流れが興ってくるのです。それが即ち、「文芸復興」(カイン型)であり、上記の「宗教改革」(アベル型)でした。
【補足】原理の解説では、前者は人間個々の「理性と自由」を求め、カイン型の革命(市民革命)を経て、人道主義的な人権思想をベースとする「カイン型民主主主義」、最終的には「共産主義」に至ります。一方で、後者は人間個々の「信仰の自由」を求め、アベル型の革命(清教徒革命・米独立宣言)を経て、キリスト教信仰をベースとする欧米型の「アベル型民主主義」に至るのです。
今、教会では、あらゆる分派を「共産主義」になぞらえて話していますが、それらが果たして「共産主義」的な流れを汲むもの(=サタン側) なのか、はたまた、「宗教改革」的な流れを汲むもの(=神側)なのか―。単なる不満や怒り、恨みの感情から発せられた声なのか、神の願いと摂理、本性的「心情」から発せられた声なのか―。全てを「異端・分派」と切り捨てる前に、しっかり見極める必要があると思のです! 無論、宗教改革を経ても、カトリック教会そのものが滅びることはありませんでした。むしろ人口的に言えば、カトリックはいまだに多数派を占めています。しかし、神の摂理の主流は、宗教改革以降、カトリックからプロテスタントへと移り変わって行ったのです。今、「神の声」はどこにあるのでしょうか? 私たちの運動は神の願いから始まりました。私たちが身を投じ、思いを投じ、心情を投じるべきは、「神の御旨」のあるところではないでしょうか?
「初代教会の愛が消え、資本主義の財欲の嵐が、全ヨーロッパのキリスト教社会を吹き荒らし、飢餓に苦しむ数多くの庶民たちが貧民窟から泣き叫ぶとき、彼らに対する救いの喊声は、天からではなく地から聞こえてきたのであった。これがすなわち共産主義である。」(総序より)
「ローマ人たちをして、十字架につけられたイエスの死の前にひざまずかせた、あのキリストの精神は、その後どうなったのであろうか。悲しいかな、中世封建社会は、キリスト教を生きながらにして埋葬してしまったのである。この墓場の中から、新しい命を絶叫する宗教改革ののろしは空高く輝きはじめたのであった…(中略)」(総序より)
統一教会が統一教会自体の利益と幸福のために存在しているとするならば、それは必ず滅びるでありましょう。 私は、世界の救いの前進のために、私の命と、私の心と、私の魂を与えるために 統一教会を設立したのです。 ここの聴衆の中にも、統一教会のメンバーがたくさんおります。 彼らの大きな願い、彼らの唯一の動機は、ただ他に仕えること、この国と世界を救うことなのであります。『人間に対する神の希望』より
若い頃の真のお父様(文鮮明先生)
前編:2018-02-07 18:43:23
後編:2018-02-07 18:46:41
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