※ 現在古いブラウザからアクセスされており、ページが正常に表示されない可能性があります。

ページを正常に表示するためには、お使いのブラウザをIE11以上にアップデートしてください。

顕進様の真実〜希望の未来へ
真実を求めて
(祝福家庭の皆様へ送るメッセージ)
櫻井正上氏ブログのまとめ

17.カインの供え物 GPFは自分勝手な摂理か? (2010~2011年)

「やること、なすこと、うまく行かない!」そんな時ってありませんか?^^  仕事でも、家庭でも、物事がうまく運ばず、日常生活でも、階段でつまずいたり、乗ろうとする電車が遅れたり、自分が横断歩道にさしかかろうとする時に限って、なぜか信号が赤になったり…。「あー、今日は厄日だ、今月は厄月だ、今年は厄年だ~」等と思ってしまうこともあるでしょう。私たちの言葉で表現するなら、例の「導かれない~」という現象です。 うまく行かない時というのは、思考もネガティブになりがちでしょう。「どうしていつもこうなるの~」「頑張っても報われない!」「人生、不公平だ~」「絶対善霊、何やってんのよ!」(汗)  私は思います。うまく行かない時というのは、ただ、「うまく行かない」だけです(^^)。ただ、階段でつまずき、ただ、信号が赤になっただけ、でしょう。そこには恐らく「意味」などありません。私たちがそれをどう捉えるか、でしょう。物事がうまく行く時、思考がポジティブになるのは当たり前のこと。大切なことは、「うまく行かない時」にどんな心の持ち方ができるか、ではないでしょうか? 「楽な立場においては、誰もが歩むことができる。一番困難なときに、いかに歩むかという哲学が確立しているか」―。「御旨の道」の言葉です。うまく行っている時に「導かれている~」と思えるのは当たり前のことで、それを信仰とは呼べないでしょう。むしろ、うまく行っていない時にこそ、それでも、「導かれている!」「神様は私と共にある!」という「信仰」が求められるのではないでしょうか? カイン・アベルの物語は、普通に考えれば、極めて「不公平な人生の物語」でしかありません。同じように努力し、神様に供え物をしたのにもかかわらず、一方は神様から祝福され、他方は見向きもされなかった訳ですから。昔、幼稚園の娘にこの話を読んで聞かせた時の反応はこうでした。「えー、カイン、可哀想ー。神様、ひど~い。」(汗) 子どもにこうした感想をもたせないようにするために、恐らく、「子ども向けの聖書絵本」では、カインが「物凄~く悪い人相」で描かれているのでしょう(^^;) その「不条理な物語」は、原理を知って、初めて理解し得るに違いありません。要するに、アベルが神様に愛される一方で、カインが神様に直接対されず、「愛の減少感」を覚えざるを得ない立場に立たされた理由は、「アダムが天使長を愛で主管できず」「天使長が愛の減少感からアダムを殺害した」ことを元返すべく(=本然のアダム復帰)、各々がアダム・天使長の立場に立てられたためでした。即ち、「アベル(=アダム)がカインを愛で主管し、カイン(=天使長)が愛の減少感を越えてアベルを愛する」ことが求められたのです。 それゆえ、神様はカインに語りかけます。「正しい事をしているのなら、顔を上げなさい。…罪が門口に待ち伏せている。それはあなたを慕い求めるが、あなたはそれを治めなければならない」。神様はカインに、この「逆境」(天使長の立場)を越え、勝利して欲しかったのでしょう。 私たちは常に、アベルの立場に立たされたり、カインの立場に立たされたりします。無論、より大切なのは、アベルの姿勢ですが、カインの立場に立たされた時こそ、天に対する「変わらない心情」を持ち続けることが大切であるに違いありません。 神様がカインを顧みられなかったのは、「摂理的事情」ゆえでした。「私」の供え物が受け取られず、努力が報われない背景には、天の言うに言えない事情があるのでしょう。そのことで、「努力が報われない!」「こんなに頑張っているのに!」「私はなんて悲惨なんだ!」と、恨んだり、悔んだりするのは、原理的でないと同時に、人生のパワーの無駄使いであるに違いありません。 私の人生を本当に苦しめているのは、「逆境」そのものよりも、私自身の内に生じる、そうした不満や恨みの感情なのかもしれません。言葉で言うほど簡単ではありませんが、カインの立場にある時こそ、否定され、打たれるような時こそ、変わらない心情姿勢をもって、より一層、精誠を立てて行くことが大切なのではないでしょうか? 顯進様はかつて、「私が着手したことの中で、お父様に『反対されず』に始まったことは何一つなかった」と語っておられました。SFPも、STFも、GPFもそうです。それがお父様の指導方法であったのか、周囲の誤った情報によるお父様の誤解によるものだったのかは分かりませんが、いずれにせよ、長くて3年、「神の御旨」を中心に、「変わらない投入」を続けた時に、お父様は必ず「よくやった!お前がこれをやらなかったら大変なことになっていた!」と祝福されたといいます。 さて、2010年に始まった顯進様批判集会は、翌2011年になっても収まる気配がありませんでした。一方で、顯進様を支持する人々(→郭グループと呼ばれる)が立ち上がり、「両陣営」の対立構造は浮き彫りになっていきます。顯進様側の基盤(●●●財団)を根絶しようとする教会側と、「徹底抗戦」しようとする顯進様側との対立はその後、企業体にまで広がり、両陣営の狭間にあって、実質的な困難を余儀なくされる方々まで生じました。(この点については痛みを覚えます>_<) さらに5月には、「文顯進・郭グループは退陣せよ!」という主旨の「真の父母様宣布文」がお父様の名のもとに発表されると共に、●●●財団そのものに対する訴訟が始まって行くのです。 この時、顯進様自身が起こした行動とは、「退かない!」というものであって、「教会攻撃」とは無縁のものでした。教会側が全世界で顯進様批判集会を展開している間、顯進様が取り組んでおられたことは、GPC(グローバル・ピース・カンファレンス)の世界巡回(2010年2月~11月)だったのです。 そして、こうした結果の全てを、2012年の韓国大会に直結させ、南北統一に向けた運動を起こそうとしておられました。お父様の願いを果たし、実質的な基盤をもって基元節を迎えようと必死だったのです!こうした取り組みに対し、教会側はこれを「カインの供え物」だと言ってはばかりませんでした。 「顯進様の動機は弟たちに対する愛の減少感であって、お父様に認めてもらいたくて行動しているのだ」―。それが当時、顯進様に被せられてきた「ストーリー」でした。それは言わば、自らの供え物が顧みられないとして憤るカインの立場であり、「自分が与えられると思っていた祝福が弟に与えられた!」として激昂するエソウの立場でしょう。さらに「物語」は続きます。「顯進様がどんなに必死だろうと、アベルを通さない限り、天はカインの供え物を取ることができないのだ」…。 それは私たちにとっては、馴染みの深い、説得力のあるストーリーであったに違いありません。しかし、問題はそれが「事実」であったかどうか、です。少なくとも、顯進様に従って行った人々が、顯進様の中に見たものは、「天の願いを叶えようとする孝子の姿」であって、「愛の減少感」とは無縁のものでした。顯進様が強く憤っておられたのは、執拗なまでにGPCを妨害し、誤った情報を教会内外に流し、父母様の名を汚すことに対して、だったのです! そもそも、復帰原理におけるアベル・カイン(=善悪の表示体)とは、「堕落したアダム・エバ」(父母)を復帰するための「善悪分立の摂理」でした。その蕩減路程を「真の家庭」に適用することは妥当なのでしょうか? 或いは、仮にこれを適用するとすれば、アベル・カイン問題を解決する責任はまず「アベル」にあったはずです! 國進様・亨進様がアベルであったなら、或いは「父母様と共にある教会側」がアベルの立場だったとすれば、どうすべきだったのでしょうか? アベルも「カイン」を伴わなければ、天の前に進み出ることはできない―、それが「アベルの正道」としてお父様が教えられた原理であったはずです。まして、カインに「石を投げる」という原理など、どこにあるのでしょうか! 当時、GPCに対して行われた妨害活動も、いずれ明らかにならざるを得ないでしょう。そこまでして顯進様の歩みを反対し、是が非でも阻止しようとした理由は何だったのでしょうか?  一方で、もし顯進様がカインだというなら、カインにできることはたった一つです。「正しいことをしているなら顔を上げなさい」―、それがカインに対する神の言葉でした。恨みや嫉妬の思いに駆られ、アベルを手にかけるのではなく、顔を上げ、天を仰ぎ、変わらない心情姿勢を貫くことであるに違いありません。 本当のアベルとは、誰よりも「天の願い」に立つ者であり、同時に「天の願い」のためなら、いつでもカインになれる人間だと、私は思います。顯進様は当時、御自身と困難を共にしていた食口たちに、常にこう語っておられたといいます。「サタンは傲慢と自己憐憫を通して人の心に巣食う。絶対に『自己憐憫』に陥らず、困難を感謝で越えなさい」。 顯進様は迫害の真っ只中にあった2011年6月、自ら語り続けて来た講話集「神様の夢の実現」の出版記念会をソウルで開催されます。長らく顯進様のことを「父母様に背を向け、御旨の道から離れた」と聞いてきたある食口は、その集会に参加し、こう感想を述べたといいます。「顯進様は決して変わっておられなかった」…。 下記はその集会で語られた顯進様の言葉です。
「私は今のような困難な時期に、私と共にする多くの人々が迫害を受けていることを知っています。中には、信仰が動揺している人々がいることも知っています。しかし、私はこう言います。『安易な時に信仰を持つことは易しいが、困難な時こそ、本物の信仰を得るだろう』と。(中略)統一教会を見ると、数は少なくとも、希望がありました。その理由は摂理があったからです。重要なことは、お金や教会、食口がどれほどいるのかではありません。私たちの歩みが摂理と共にあるか、なのです。」(2011年6月)
もし本当に、当時の私たち、教会の立場が「アベル」だったとするなら、私たちは「道」を誤りました。そして、もし当時の顯進様が「カイン」だったとしたなら、もう十分、その歩みを越えて来られたに違いありません。私たちはいつまで、顯進様の歩みを「カインの供え物」だと言い続けるのでしょうか? 当時、顯進様を突き動かしていた思いは「愛の減少感」などではなく、基元節を迎えるための摂理的基盤を、天の前に、父母様の前にお捧げしたい、という一念でした。私たちはそんな顯進様を打ち続けたのです...。
2018-01-19 16:01:13
■ 免責事項
当サイトは 個人の主観をまとめたものであり、各種資料は自主的な調査により収集したものです。
当サイトのご利用によって生じたいかなる損害につきましても、当サイト管理者は一切の責任を負いません。
当サイト内の 動画、画像、テキスト、その他 につきまして、無断引用・無断転載は固くお断り致します。
しかし、顕進様を非難するのは間違っている!と思われた方は、どんどん引用・転載・シェア・拡散してください^^
© 2017 顯進様の真実 〜神様の夢の実現〜