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顕進様の真実〜希望の未来へ
真実を求めて
(祝福家庭の皆様へ送るメッセージ)
櫻井正上氏ブログのまとめ

20.栄光の王冠 お父様は全て分かっておられたか? (2012年)

前編

「幸福の王子」という物語があります。小さい頃、絵本で読んで、心に残った話です。当時の私は、テレビで放映されていた「戦う白馬の王子」にあこがれ、プラスチックの刀を腰につけ、風呂敷を身にまとい(←マントのつもりです ^^;)、公園に出かけて行っては、木を「敵」と見なして切りかかっていました(汗)悪者と闘うのがヒーローだと思っていた、そんな当時の私にとって、絵本の中の「王子様」は別物でした。 黄金に輝く王子の像―。街の人々はそれを称え、「幸福の王子」と呼びました。しかし、彼自身は決して幸福ではありませんでした。街を見下ろせば、不孝に悲しみ、苦しむ人々の姿があったからです。ある日、冬を越すため、南へ向かっていたつばめが、王子の涙に気付いて尋ねます。「王子様、どうされたのですか?」 王子は病の子どもを抱える母親のために、自らの剣に埋め込まれたルビーを、彼らに持って行ってくれるよう、つばめにお願いするのでした。 それから数日間、王子はつばめにお願いし、ある時はマッチ売りの少女に、またある時は貧しい作家の青年に、王子の身につけていた装飾品を与え、両目のサファイヤを与え、自らを飾る金箔を1枚1枚 剥がして人々に届けました。最後、王子は街で最もみすぼらしい姿となり、つばめはそんな王子のもとを離れることを拒んで、冬の寒さの中、王子に寄り添うようにして死んでいきました。王子は人々からも忘れ去られ、捨てられるのですが、天のみ使いが「地上で最も美しいもの」として天に持ち帰ったものは、瓦礫の中に埋もれていた、王子とつばめだったのです…。 天から見る時、本当の「栄光」の姿とは、私たちが思うものとは違っているのかもしれません。父母様の生涯路程に思いを馳せる時、人類のため、世界のため、と、ボロボロになりながら歩まれてきた姿は、この「王子像」とつながるように思います。また、そんな「王子」に出会い、歩みを共にした「つばめ」の姿に、食口の姿が重なって思えるのです。 一方で、私たちの中には、ややもすると、「裸の王様」の物語のように、王様を「見えない衣服」で着飾り、「素敵です、立派です」とはやし立て、周囲に向かって、「賢い人には分かります。どうです?素晴らしいでしょう!」と促す、そんな姿もあるに違いありません。しかし、その「衣服」が仮に本物だったとしても、本当の意味で、父母様が欲したのは、不孝や痛みに喘ぐ人々の現実をよそに、「豪華な衣服」で身を飾ることなどではなかったことでしょう。「つばめ」は王子を黄金で着飾ったのではなく、逆に、王子の黄金をもって、人々を生かしました。それが「王子の願い」だったからです。 父母様の生涯は「幸福の王子」のように、黄金色に輝き、装飾されたものなのではなく、砂埃でよごれ、無数の涙の痕が染みついたものでした。しかし、王子と共にした「つばめ」にとっては、それこそが何よりも貴く、美しいものであったに違いありません。 私は自らの人生の中で、一度だけ、お父様に対して、強い「恨」(ハン)のような感情を抱いたことがありました。公職を始めたばかりの頃です。教会内の矛盾や課題に直面し、特に二世たちの苦悩に触れる中で、まずこう思いました。「彼らの人生をこんなふうにしたのは一世の親たちだ…」と。しかし、親たちの苦労や心情に触れる中で、こう思わされました。「親のせいなんかじゃない。これは教会のせいだ!」。 しかしまた、教会を担う公職者家庭のやるせない事情に触れた時―、私の中のやり場のない憤りと恨の感情は「お父様」に向かうようになるのです。ここで私は「原因不明の大病」を患いました。それは、1年半もの間、続きます。全身に激痛が走り、歩くこと、立つこと、座ることにも困難が伴い、最後は起き上がることもままならなくなりました。精密検査をしても原因が分からず、1日5回、ひたすら鎮痛剤を服用し、痛みに耐えました。 そんな中、私は清平40修の参加を決めます。何がどうしてそうなったのか、詳細は割愛しますが、治る見込みも希望もない中で、私がそこに求めたものは「奇跡」ではありませんでした。「魂の叫び」に対する「答え」だったのです。何日も何日も、自らの思いをぶつけて祈る中、ある日、強い衝撃の中で、私の心に刻まれた思いは、現実の不条理の中で、誰よりも「恨」を抱きたかったのは、ご父母様御自身だったのではないか!ということでした。 神様を愛したがゆえに、御旨を知ったがゆえに、十字架を負われ、己の救いにしか関心のない、弱く身勝手な人々を愛し、許し、何度裏切られても、また信じて、共に歩もうとされた―。そんな人生を歩んだ父母様が、恨を抱かず、全てを愛して、御旨の道を歩まれようとするならば、誰が何を恨むことができるのだろうか…、そう思った時、自分の中にある恨の塊のようなものが、音を立てて崩れて行くのを感じたのです。 そうして40修が明ける頃、清平修練所に父母様が来られ、私たち修練生は皆、「愛の木」の周りに集められました。当時の副院長が「今、山の中腹に父母様の別荘を作っています」と言われるのを受け、お父様は静かに答えられました。「私がそこに住んだとして、あと何年、生きられるや…」。お父様はこの時、特別な御言もなく、「園の歌を歌おう」と言われました。お父様を囲んで、園の歌を歌いながら、また、お父様のその皺(しわ)がれた表情を見つめながら、私は「自分はこのアボジに恨の感情を抱いたのか…」と、涙が止めどなく流れ、歌が終わるまで、ただただ嗚咽し続けたことを覚えています。 お父様の生涯は、決して「思い通りの生涯」ではありませんでした。いえ、思い通りでないことばかりだったに違いありません。しかし、信じ難き者を信じ、愛し難き者を愛して、最後まで神の御旨のために歩まれた、それがお父様の生涯だったと思うのです。 お父様が少年時代に書かれた詩、「栄光の王冠」にこんな節があります。
「たとえ騙されたとしても信じなければなりません。 たとえ裏切られたとしても赦さなければなりません。 (中略) おお主よ! 愛するという痛みよ! 私のこの苦痛を御覧ください! 熱きこの胸に主のみ手を当ててください! 私の心臓は深き苦悩ゆえに張り裂けんばかりです。 しかし、裏切った者たちを愛した時、私は勝利を勝ち取りました。 もしあなたも私のように愛するならば、 私はあなたに『栄光の王冠』をお捧げします。」(1935年 お父様)

後編

2012年9月、真のお父様「聖和」の報に接するまで、私たちの多くはこう信じていたに違いありません。「数年間にわたる真の家庭の混乱は、必ずお父様が解決してくださるはずだ」と。或いは、「お父様がおられながら、なぜこの問題が収拾されないのだろうか」と疑問を抱いた方も多かったことでしょう。しかし、全ては、私たち「子女」自身に与えられた、父母様も干渉し得ない「5%の責任分担」ゆえであったに違いありません。 「お父様は全てのことを分かっておられた」―。多くの方々がそう言いますが、私はそうは思いません。もし晩年のお父様が、全ての状況を把握しておられたなら、例えば、韓国で教団を挙げての選挙運動に惨敗した際(2008年4月)、あれ程の大きなショックは覚えられなかったことでしょう。それは多くの人々にとって、「見えていた結果」であり、私は当初、お父様はそうした現状を承知で、敢えて「挑戦」させたのだと思っていました。しかし、お父様がこの結果に、言葉にならない程のショックを覚えられたと知った時、逆に驚かざるを得ませんでした。 顯進様に対する人事(2009年3月~)についても、多くが「お父様は全てをご存知で、そう判断されたのだ」と言われますが、私にはそう思えませんでした。もし、状況を把握されていたなら、あそこまで感情的に御言を語られたり、教会を挙げての批判集会を容認されることはなかったでしょう。「いや、カインの讒訴を鎮めるために、敢えてお父様は顯進様を打たせたのだ」という人々もいます。しかし、本当に冷静に判断されたなら、法的手段に訴えたり、教団内の問題のために国益を損なわせるような判断はされなかったはずです。 或いは、「お父様はただ、騙されたフリをしていただけだ」と言われる方々もいます。私もそう信じたい思いです。お父様が本当に「息子に裏切られた」と思っておられるとしたら、それはあまりに「心痛いこと」だと思うからです。しかし、訓読会で悲痛な表情をされながら、「先生が最も信頼した息子がサタンに奪われた」と語られる姿を見た時、また、晩年、何度も嘆かれるお父様の姿を伝え聞いた時、ただ、「お父様が騙されたフリをしている」とも思えませんでした。 当時(既に記したように)「お父様の下にいる子女様」とされていた亨進様・國進様の2009年以降の歩みは、私たちが見ても、本来のお父様の伝統とは「異なる方向」へ向かっているのが分かりました。 2011年2月、お父様はヨスの研修所で、幾度かにわたり、H会長を亨進様、國進様の上に「総会長」として立てることを指示されました。しかし、殆どの食口はこのことを知らないでしょう。公表されなかったからです。逆に、H会長の問題を讒訴するようなメールが韓国教会内で流され、5月には(とても本人が進んで書いたようには思えない)H会長の「謝罪」の文章が公開され、結局、この人事が実現することはなかったのです。 当時、水面下で何が起こっていたのか―。私たちに知る術はありません。2009年9月以降、御言選集は発刊中断。天正宮でのお父様の御言は一切、表に出なくなったからです。しかし一方で、この時期、お父様が現状に苦悩し、嘆かれる姿を、多くの方々が目撃していました。
「2011年11月28日、真の御父様は済州島を一周されて、その夜に寝ることができず、29日の午前3時頃、済州島の責任者たちを呼ばれて、結果が出ていないことに対して叱られました。訓読会では泣かれながら、話すこともできない状態となり、食堂に向かうときには号泣しておられました。そして巨文島に向かうヘリ機の中で「統一教会をもう一度やり直したい」と言われ、泣き続けられたのです。2012年に入り、真の御父様は、訓読会で泣かれることが多くなりました。」(現代摂理史講義資料より)
「ですから、最近の御父様を見てください。今まで個人的に涙を流すのを見たことがありません。祈祷する時には、本当に溢れる涙を流すことはありましたが、御言を語りながら涙を流すことは殆どありませんでした。しかし最近は御言を語りながら、喉がつまって御言を語れない時が多く、その姿を見せまいとしている姿、そうやって生きておられる父母様です。(中略) 一生、苦労して勝利の栄光の日を迎えようとしたにもかかわらず、私たちが勝利して侍れないために、その日を迎えられない。そのための涙を子に見せまいと苦悶しながらも泣かれてしまうのです。」(2012年、本体論講義 Y会長講話)
「ああ、エルサレム、エルサレム…」。当時のイエス様の言動を見れば、人々が信じていた内容とは違い、「十字架は当初の予定ではなかった」ことが分かります。お父様の晩年の言動に触れる時、私たちの運動も「本来、あるべき方向に進んでいなかった」ことが分かるのではないでしょうか? 無論、私はお父様が最後の最後まで、神様を愛され、世界・人類を愛し抜かれたと信じています。しかし、その心情は「栄光の王冠」に見られるような、悲痛な心情であったに違いありません。「おお主よ! 愛するという痛みよ!私のこの苦痛を御覧ください!熱きこの胸に主のみ手を当ててください!私の心臓は深き苦悩ゆえに張り裂けんばかりです。」 以前、「顯進について行くな」と言われ、いったん顯進様のもとを離れ、ヨスの研修所を主管していた神山先生が、晩年、再び顯進様のもとに戻り、証しをされるようになったのは何故でしょうか? それは神山先生がヨスの研修所で、お父様の姿の一部始終を ―お父様御自身の意向が通らず、天の願いが果たされないとして嘆かれる姿を― 見て来られたからです。また、本当の意味で、お父様の伝統を守り、お父様に正しく侍ろうとしていたのは、やはり顯進様であった!と、改めて気付かされたからだといいます。 2012年8月、その間の様々な批判や妨害を越えて来られた顯進様が、いよいよ韓国GPF大会に合わせて、韓国に入られます。それは基元節に向けた平和運動の基盤を築くためでした。が、何よりも、顯進様が望んでいたのは、「お父様との出会い」だったのです! もしこの時、苦悩の中におられたお父様が顯進様と出会い、その間、築いてこられた内容と、そこに至るまでの変わらない心情を知られたなら、どれほど大きな希望を抱かれ、慰められたでしょうか? 下記は当時の集会における顯進様の言葉です。
「 私はどんな息子だと思いますか? 私が年老いたお父様の前で、『この問題をお父様が解決してください』と言うと思いますか? それとも、解決してからお父様を訪ね、『これを受け取ってください』と言うと思いますか? 孝とはどのような道ですか? お父様は、孝子が行くべき道を教えて下さいました。孝子は、父の夢を自分のものとし、父が果たせなかった夢を自らの力で成し遂げ、そうして父母様のもとに帰るのです。皆さんがよく知っておくべきことは、この問題は、お父様によるものではありません。父母様が不憫です…。子女たちが問題を作ったなら、子女が責任を持って、家庭を生かす道を見つけていくのです。」(2012年8月)
お父様の聖和まで、残すところ一ヶ月。この時、お父様と顯進様との「出会い」をかけた、最後の時を迎えようとしていたのです。
前編:2018-02-01 22:13:03
後編:2018-02-01 22:14:39
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