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顕進様の真実〜希望の未来へ
真実を求めて
(祝福家庭の皆様へ送るメッセージ)
櫻井正上氏ブログのまとめ

24.ヨナタンの志 私たちのとるべき行動

前編

中高生時代。私が韓国で学んだ先輩・後輩というのは、体育会系ばりの徹底した上下関係にありました。廊下で先輩に会ったら「アンニョンハセヨ!」と90度(?)で挨拶。先輩が遠くにいたとしても視界に入った時点で挨拶。遠すぎて先輩だか後輩だかよく分からない場合も、取りあえず挨拶(^^;)。「礼」を欠くと、トイレに呼び出されるからです(汗)。今、思うと滑稽な話ですが、男たちというのは案外、自ら楽しんで、こうした関係を作っているのかも知れません。 一般論として、男性は「タテ社会」、女性は「ヨコ社会」に生きていると言われます。女性が「横のつながり」を大切にし、年齢や立場に関係なく、「友だち」のようなフラットな関係を築きたがるのに対し、男性は「上下関係」を大事にし、「上司・部下」「先輩・後輩」等の位置関係がはっきりしているほうが、気楽に付き合えると言われてます。目上の人への「忠義・忠誠」ということも、タテ社会に生きる男性ならではの美徳なのかもしれなせん。上司のため、先輩のため、上官のため、ボスのため―。特に自らが心から仕えたい、付いていきたい、忠義を尽くしたい思えるようなリーダーに出会えることは、男性にとって、極めて幸運なことであるに違いありません。 「王になった男」という映画があります。2012年にヒットした韓国映画で、朝鮮時代の実在の王「光海君」(クァンヘグン)をモチーフにした作品と言われます。奸臣たちが取り巻く王宮内で、身の危険を避け、ただ遊び呆けて、国政を考えようとしない王・光海が、ある時、病に倒れます。その影武者として王宮に連れて来られたのは、王と瓜二つの容姿をした一庶民でした。彼は最初、その立場にとまどい、周りの言いなりになっていただけでしたが、国と民の置かれた状況に精通する中で、彼自身の人格や考えが現れ、国全体に対する、庶民たちに対する熱い思いを語り始めるのです。 宮殿の幼いスラッカン(=厨房係)の事情を気にかけ、無実の罪で囚われた者を釈放し、自らを疑って切りかかった護衛艦に情けをかけました。ある時は、国の体裁を繕い、大国にへつらう一方で、自らのルールに縛られ、民を考えようとしない国政の在り方に、彼は王たる威厳をもって言葉を発するのです。「恥ずかしいと思え!私にとっては、民の命が百倍、万倍、貴いのだ!」 当初、彼を王宮に召し立て、あれこれ指示していた側近の臣下も、次第に彼に敬意を抱くようになります。そうして、終いには、彼と共に国を守っていきたい、と思うようになるのです。「もしお前が王になりたいなら―。私がその願いを果たそう」。また、最終的に実際の王が帰還し、彼が王宮を追われるようになった時、彼に仕えていた王の護衛官は、命を賭して、彼を逃がそうとするのです。「俺にとっては…、お前が王だった」。 「忠義」―。私はこの言葉が好きです。「赤穂浪士」(あこうろうし)ではありませんが、男たちにとっては、ある意味、世界のルールや善悪よりも、「自らの忠義心」を守り通すことのほうが大切なのかもしれません。罰せられる行動でも、負けが見えている戦争でも、君主や上官に忠義を尽くし、死力を尽くすことを選ぶものなのかもしれません。 聖書を見ると、上記の映画のように、本来、仕えるべき主(あるじ)と、自らが敬意を抱いた相手との、その狭間に立たされた人物がいました。ダビデの親友、ヨナタンです。かつてある先輩と話しながら、ヨナタンの話が上がった時、私はそこに「自分たちのあるべき姿」を見る思いがしました。 ヨナタンは時の王、サウルの息子であり、彼の忠実な臣下でした。言わば、次の王位後継に最も近い立場でもありました。しかし、ゴリアテを打ち倒したダビデの信仰と勇気に感服し、また彼の人柄に触れながら、ヨナタンは「次の王となるべきは彼だ!」と確信し、彼を心から敬い、慕うようになるのです。しかし、民衆がダビデを讃美するようになった時、サウルはこれを妬み、殺意を抱くようになるのでした。 ヨナタンは常にダビデを庇い、ある時には身を挺して、サウルに進言します。「なぜ罪なき者の血を流し、罪を犯そうとなさるのですか!」と。そして、自らの立場も顧みずにダビデに危険を知らせ、彼をサウルの元から逃がすのです。サウルはダビデの居場所を知って、荒野にまで追手を送りますが、そうした状況下で、ヨナタンは傷心のダビデを訪ね、こう言いました。「あなたこそイスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう」。そうして、彼らは泣いて抱き合い、最期の別れを告げるのです。 しかし、だからと言って、ヨナタンは決して父を裏切り、ダビデに付こうとはしませんでした。息子としての、臣下としての忠義を貫き通そうとしたのです。そうして最後、彼は「負ける」と分かっていたペリシテ人との闘いに父と共に参戦し、ギルボア山で討ち死にを遂げるのでした。遠隔の地でこの訃報を聞いたダビデは、友の死に涙を流し、ヨナタン故に、彼と彼の父サウルとを称えるのです。
「ヨナタンの弓は退いたことがなく、サウルの剣はむなしく帰ったことがなかった。サウルもヨナタンも、愛される、立派な人だった。…イスラエルの娘らよ。サウルのために泣け。…あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ」。
その後、ダビデは次の時代を導く王となって行くのです。

中編

私はこのブログで記してきたように、その間、顯進様の言動を見つめる中で、顯進様の「真実」に、いち早く気付いていました。また、次の時代、神の御旨を担う「ダビデ」は顯進様である、と信じてきた者の一人です。しかし、それでも、自分の立ち位置を「教会」に置いていたのは、何よりも「父母様」を信じ、侍る者として、「父母様」をお支えすることが自らの責任だと思ってきたからです。また、父母様のもとの「臣下」として、その自らの「立ち位置」から離れてはならないと思ってきたからです。しかし、相次いで起こる出来事を前に、何が本当に「父母様」をお守りし、侍ることになるのかを、本気で考えさせられました。 また、教会内には数々の課題がありました。だからこそ、心ある方々と共に、その改善に尽力することが、天の前に、父母様の前に、食口の方々の前に、自らが果たすべき責任だと思ってきました。特に基元節以降、本気で日本教会の現状を憂い、内部改革に力を尽くされる宋龍天総会長の取り組みを、共にお支えしたいと思ってきた者の一人です。しかし、どんなに日本国内の改革に取り組もうとも、どんなに現場の牧会者、教育者、食口の方々が多くの犠牲を払おうとも、教会内の根本問題 ―食口の生活問題や教会離れ、社会との信頼問題― が改善・解決し得ないのは、この運動全体の「方向性」の課題ゆえだと感じざるを得ませんでした。 繰り返しになるため、詳細は省きますが、①新たな神学の問題は、私たちの信仰の根幹を崩し、②法廷闘争は社会的信頼の失墜を招き、③さらなる経済摂理の推進は、日本教会と食口の生活を破綻させてしまう―、そう思いました。そして、それは何よりも、本来の統一運動 ―神の理想実現に向けた超宗教運動―の目指すところではない!と思えたのです。 また、私が教会に対するそうした危機感と共に、抱き続けてきた思いは、この運動の向かうべき方向性を正しく示し、その本来の伝統とレガシー(遺産)を守ろうとしてきた顯進様をこれ以上「異端視」し、「誤解」させ続けてはならない!という強い思いでした。 多くの方々がこれまで、顯進様を「誤解」してきたに違いありません。このブログで記してきたように、起こってきた事実を冷静に見つめるなら、「顯進様が教会の資産を奪って別の運動を起こした」のではなく、本来、その資産を管理し、この運動に責任をもっていた顯進様を、「教会」(指導部)がその立場から降ろした(降ろそうとした)と言わなければならないでしょう! そのことのために、教会は顯進様を経済破綻に追い込み、父母様の名をもって断罪し、法的手段にまで訴えてきたのです! あらゆる課題はその「過程」で生じてきたと言わざるを得ないでしょう。そして、そのことによって被害を被ったのは、他ならぬ、「教会」自体であり、「父母様」であり、「食口たち」だったのではないでしょうか? これは、教会の責任者の方に言うべきことなのかもしれません。今、顯進様の取り組みは「信仰」を知らない社会の人々にまで受け入れられようとしています。それはまた、「教会」に肯定的でなかった外部の人々が「お父様の生涯」を見つめ直す機会になっているとも言えるでしょう。 教会ではこうした顯進様の取り組みを否定しようと、また食口たちへの影響を遮断しようと、お父様の「極端な御言」や「一方的な言動」を公開し、「顯進様がお父様に従わなかった」という点を浮き彫りにしようとしていますが、そうしたことによって傷ついているのは、顯進様の名声や社会的信頼ではなく、お父様御自身の生涯であり、教会が誇ってきた真の愛の伝統であり、統一家族としての共同体であることに気付いてください! ヨイド訴訟から始まった法廷問題も、顯進様側が「それをすべきでない」という度に、教会は「自分たちが不利だからそう言っているのだ」として一蹴してきました。しかし、実際の結果として、それを推し進めてきたことで、教会そのものが「自壊」してきてしまっているのではないでしょうか? これ以上、同じことを繰り返すのでしょうか? 聖書に、キリストを明かそうとする弟子たちに対して、大祭司とその仲間たちがこれを迫害し、手にかけようとする場面が記されています。その時、一人の律法学者が立ち上がってこう言うのです。
「この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てやしわざが人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない。」(使徒行伝5章)

後編

私が全国の牧会者に宛てた書簡の内容は、大きく2点でした。一つは、この教会の方向性を正しましょう、ということ。もう一つは、顯進様に対する攻撃を中断しましょう、ということです。これまで多くの方々が、「顯進様が教会を攻撃してきた」と思ってきたかもしれませんが、実際はその逆だったのです。「教会が顯進様を攻撃してきた」のであり、今やその手段や方法は「常軌を逸して」きています。「ダビデ」を失っては、未来が失われてしまうでしょう。それは、統一運動にとっても、教会にとっても、食口にとっても、「正しい選択」ではありません! 教会を守りたい方々の想いを、私も分からなくありません。ただ、本気で「内部改革」をするなら、タブー視されている「根本問題」に対しても、本気で議論をし合ってください。少なくとも、教会指導部が仕掛けている顯進様攻撃に対して「中断」を呼び掛けて頂きたいのです。本当の問題は、多くの人々が「そこは自分たちにはどうしようもない」と思っているところで起こっているからです! 私は顯進様が完全無欠で、間違いのない方などと言いたいのではありません。課題だってあるでしょう。不足な点だってあるでしょう。しかし、それでも、私が顯進様を信じる理由は、顯進様の指し示す「方向性」(=統一運動本来の方向性)ゆえであり、顯進様のその間の言葉と行動の中に見てきた「一貫性」ゆえです。 また、「顯進様側も組織を築いた時点で教会と同じ課題が生じてくるだろう」という声も耳にしてきました。私もその可能性を否定しようとは思いません。しかし、少なくとも、顯進様が築こうとしているのは、信徒の生活を「主管」するための「中央集権型の組織」ではありません。信徒が御旨の「主人」となり、各々が家庭理想を果たしていくことサポートする「協会」(Association)であり、「連合体」(Federation)に過ぎません。そして、それは「家庭連合」が、本来、目指していた形でもあるでしょう。 昨年9月、私は韓国での祝福行事の全てを終えた後、一人、清平の聖地に赴き、祈りを捧げました。これまで抱き続けた思いをこめ、今後、自らがどうすべきかの決断を賭けて祈ったのです。そのうち、「忠誠の木」の下で誓った内容とは、「困難なことでも御心ならば応じよう」という決意であり、「神様・父母様に対する一片単心の心情」でした。 誰からどう言われ、どう思われようと、私が声を上げた動機は、御旨を愛する思いであり、父母様を愛する思いであり、教会を愛する思いからでした。その思いは今も変わりません。教会から見れば、教会改革に身を投じた「私」という人間は「ギルボア山」にて戦死を遂げたのかもしれません。が、その「志」は、顯進様と共に、本来の統一運動を再建するために全力を尽くすことを通して、果たしていきたいと思っています。 日本における顯進様側の基台は、韓国・米国に比べても、小規模であるに違いありません。しかし、私よりも先駆けて顯進様の呼びかけに応じ、あらゆる障害と苦難を越えてここへ集ってきたリーダーたちを見る時、皆、立派な心情と志をもった方々ばかりでした。統一運動はもともと牢獄から、或いは、ダンボール小屋から始まりました。そこにあったのは、高い「志」だけです。しかし、天の願いと導きがあるなら、また、最初の志を見失わずに歩み続けるなら、その志はいずれ、豊かな実を結ぶことができるに違いありません。 たとえ今は対立と混乱の真っ只中だとしても、「真実」を求め、「真実」に生きようとする歩みは、世の人々に父母様の伝統を正しく伝え、迷える祝福家庭や二世たちにとっての新しい受け皿となり、この運動をもう一度、原点に立ち返らせるための機会となるものと信じています。また、そうした努力が、顯進様の次の祈りを叶えるための一助となることを、心から願ってやみません。
「お父様、私たちがあなたの真の息子・娘になること以外の、価値のない諸々のこと全てを捨てさせてください。(中略) 私はあなたがこの地上で摂理を実現するために、自らの責任を全うしようとする、真の担い手たちの舞台を準備して来られたことをはっきり知っています。 (中略) お父様、あなたの種はまだ死んでいません。あなたの主権はまだ消えていません。そして、この身に一握りの力でもある限り、あなたの御旨… あなたの御旨… あなたの御旨は、必ず成し遂げられるでしょう。そしてあなたの霊と恵みは何千何億の生命を感動させるでしょう。(中略) そうしてこの子女たちは地上天国を建設する偉大な夢に鼓舞され、一家庭一家庭ずつ立っていくでしょう。 お父様、今日、この場を共にできない私たちの家族全員を心にとめてください。彼らにあなたの愛と恵みを感じさせてください。彼らの心情を開き、謙虚さを見出し、その門を通して、あなたと出会えるようにしてください。そして、お父様、もう一度、私たちの家庭が一つになるようにしてください。」(2016年1月:神の日零時の祈祷)
顯進様と全淑様 ― 真の神の日零時の祈り 【参照】
前編:2018-02-15 01:14:22
中編:2018-02-15 01:28:58
後編:2018-02-15 01:45:48
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