③第四次アダム圏時代の中心―父母様か?子女様か?
中心は未来永劫、父母様であって、子女様が次の時代の中心になるのではない―。教理研究院はそう主張する。「中心」という意味を一面的に捉えようとするからそうした理解になるのだろう。
同じことが「摂理の中心は神様ではなく父母様だ」とする家庭連合のおかしな主張からも見てとれる。一体「神を中心としない真の父母」など存在するのだろうか? 神は地上に中心を立てて摂理される。ゆえに中心民族があり、中心家庭があり、中心人物がいる。しかし、その中心人物にとっての中心は、他ならぬ神であろう。原理的に理解するなら、その時々の中心人物を越え、復帰摂理を導いてきた究極的中心は「神」であった。これは誰も否定し得ない原理の基本中の基本であろう。
即ち、全ての中心は神様であり、神様を中心とした父母様が地上の摂理の中心であり、神様・父母様を中心とした子女様を中心に一つになっていくべき立場が祝福家庭であろう。したがって、第四次アダム圏時代は「真の子女様が中心となって摂理的責任を担っていくべき時代」だと述べたからといって、神様や真の父母が中心であることを否定するものではない。本来、神―真の父母―真の子女(真の家庭)とは同じ一つの中心軸であり、その軸が立ったことをもって「三代圏確立」と言うのではないのか?
※家庭連合は子女様方が中心軸から外れたと言いたいのだろうが、我々は元より、顯進様が神―真の父母(お父様)という中心軸から外れたとは考えていない。ここではこの点の議論に踏み込もうとは思わないが、もし父母様(お母様)と子女様(顯進様)の方向性が一致し得ないとすれば、それは一方または双方が神という中心軸から外れてしまっているからであり、そのどちらが中心軸に立っているのかは、どこまでも、神の原理と摂理を基準に判断すべきことだと我々は考える。
教理研究院は「真の父母を中心とした第四次アダム圏時代は…」というみ言をもって「中心は父母様であって子女様ではない」と主張する。なんと平面的な見方であろう。ならば、祝福家庭に対し、お父様が再三にわたり、「真の子女を中心として一つになれ」と語られてきたことは、「真の父母が中心だ」というみ言と矛盾したみ言だったのだろうか?
「皆さんが第二イスラエルの立場に立って、第一イスラエルである先生の息子娘を中心として結束しなければなりません。それを、先生が国であれ何であれ、全て皆、連結してあげるのです。 」(2000年03月24日『訓読教育と祖国光復』)
「自分たちの一族を中心として一つになったといって先生と関係を結ぶことはできません。先生の息子娘を中心として父母様と連結させておかなければ、世界に越えていく道が開かれないのです。」 (2000年08月11日『祖国光復とUN摂理』)
「なぜ先生の直系の子女を中心として一つにならなければならないか?直系の子女は垂直です。伝統を受け継ぐのです。分かりますか?」(1992年02月09日『2世が立てるべき伝統』)
本来、「真の子女を中心とする」という話は、決して「真の父母の中心性」を否定する話にはならない。神を中心としてこそ真の父母であり、神・真の父母を中心としてこそ真の子女であり、神・真の父母・真の子女を中心として一つになってこそ祝福家庭であろう。それが原理的関係ではなかったか?いつから教会は真の子女や真の家庭を、その関係性の中から消し去ってしまったのだろうか?いつから我々はそのことに違和感を覚えなくなってしまったのだろうか?
特に新しい時代において、摂理的使命と責任を担う中心的立場は父母様ご自身ではない。父母様と共に勝利した子女様であり、子女様と一つとなって歩むべき祝福家庭であろう。子女たち―子女様を中心とする祝福家庭―が父母様に代わって摂理的使命を背負わなければならないという話は、それこそ、成約時代に入る時から学んできた話であった。今になってその当然の原理観を否定しているのは、今々の組織論でしかないだろう。
「先生の直系の家庭、孝進の家庭と皆さんが行かなければなりません。ここから一つにならなければなりません。一つにならなければ父母様が立つ場がありません(中略)今、皆さんがしなければならないことは建国です。“新しい国の統一”と言ったでしょう。それを皆さんがしなければなりません。先生は責任を果たしたのです。 アダム・エバとしての蕩減復帰路程は皆、越えたのです。」(1992年02月09日『2世が立てるべき伝統』)
「私が先頭に立たなければならないか、皆さんが先頭に立たなければならないか?それは地の自分たちが責任を負わなければならないというのです。—そのように新しい決心をし、今回の子女の日以降には、子女たちが本格的な責任を果たさなければならないのです。新しい子女の時代です。」(2002年11月03日『祖国光復のために行くべき正道』>
「第4次アダム圏内では、復帰の責任を父母様がするのではありません。越えて行って下の人々がしなければならないのです。」(2000年09月27日『4次アダム圏時代と私たちの行く道』)
「このような時代を迎えるために先生は今、青少年たちを先立たせているのです。これが4次アダム圏です。分かりますか?それで転換したなら二世、顯進を中心として収拾するのです。」(2000年5月16日『真の父母宣布と南米復帰』)
本来、復帰時代を越えて迎えた創造本然の時代、第四次アダム圏時代にあって、摂理の中心的使命を担うべき立場は、父母様の勝利圏を受け継いだ子女様であり、特に子女様を代表して立つ「真の家庭の長子」であった。このことは、真の父母を度外視することでも、否定することでもない。以前であれば、当然の摂理観として受け入れられてきた本来的観点であろう。
教理研究院がすべきことは、今々の組織事情に合わせて本来の原理観・摂理観を捻じ曲げることではない。 今、教会本体が掲げている独生女信仰と、突き進もうとしているその方向性とが、本来の原理観・摂理観と合致したものであるかを問うほうが先であろう。仮にも教理を司る立場なのであれば、単なる組織内の混乱と葛藤の中で「お父様がこう言われた、ああ言われた」といった部分に振り回されるのではなく、本質的な原理観・摂理観を明確な判断基準として据え、真っ当な議論を展開して頂きたい。
「神」という中心軸から外れているのはどちらか―。我々が神から離れ、真の父母を否定し、そこに真の子女を据えようとしているのか―。それとも、教会本体が神を見失い、お父様の思想から離れ、真の子女の立場を打ち消し、その位置に教会権力を据えようとしているのか―。最終的な判断は、読者各々が本来の原理観・摂理観に立ち返ってくだして頂きたいと思う。(つづく)
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