6月に発信された櫻井節子夫人のラジオ放送、「今、祝福家庭に伝えたいこと」シリーズの第7弾を、遅ればせながら書き起こしましたので、紹介します。

【櫻井節子夫人のラジオ】(今伝えたいこと⑦)

顯進様は決してお父様を離れていない!(6月16日発信)

(以下、本文) ※小見出しや下線部分等は別途、編集したものです

皆さん、こんにちは。櫻井節子です。前回から随分、時間が経ってしまいました。少々、疲れやすい時期もあり、大事をとっていましたが、ようやく元気になり、最近では、近くのデイサービスにも通うようになりました。まだまだやるべきことが多いと感じています。いつまでも、健康でありたいものですね。

言葉と行動をもって判断せよ

さて、多くの方々とお話してみると、いまだに顯進様のことを「お父様から離れてしまった」と思っておられる方々が多いようです。教会がそう宣伝してきたからでしょう。

また、私が顯進様を支持したことで、「櫻井夫人もお父様から離れてしまったんだ」と思っておられる方々もかなりおられるようですが、事実はその逆です。

私が顯進様を支持しているのは、今、お父様の原理観、摂理観を受け継ぎ、その信仰と伝統とを守ろうとしている唯一の方が顯進様であられる、そう確信しているからです。

イエス様はかつてこう言われました。「わが語る言葉を聞き、わが行う業を見て信ぜよ」と。顯進様も同じことを言われます。「私の語る言葉と行動を通して、私が誰かを知って欲しい」と。

私はこれまでの信仰生涯において、たったの一度も、分派や霊的問題に引っかかったことなどありませんでした。何故なら、「言葉」や「行動」を見れば、真か偽りかは即判断できるからです。語っている内容が「原理」からズレていたり、行動の動機が「自分」にあるなら、それは全くの偽物と言わざるを得ないでしょう。

顯進様を批判するのであれば、「教会からどう聞かされたか」ではなく、顯進様ご自身がこれまで何を語り、どんなことをされてきたのか、その言葉と行動をまず知ろうとすべきではないでしょうか?

本当にお父様の原理観や摂理観、心情世界から離れているのか否か―。またもう一方で、今の教会、今のオモニが語る御言や信仰が、お父様の伝統と一致しているのかどうかを、自らの心霊と理性、良心をもって、よくよく見つめ直してみていただきたいと思うのです。

顯進様は決してお父様から離れておられない―。それが今の私の実感であり、私が顯進様を支持する理由です。

私が実際に触れた顯進様の姿

さて、私は2017年1月、責任者たちの反対を押しのけ、韓国で行われた顯進様の集会に参加しました。このことで私は、本部からそれまで支給されていた支援や援助の一切を断たれました。でも、それが問題ではありませんでした。

また、私への警戒が強化され、「櫻井夫人との会合は、規模の大小を問わず許可しない」とする公文が出され、「そうした会合を見聞きした者は直ちに本部に報告するように」といった連絡まで流れました。一体、いつの時代、どんな団体がそこまでするのでしょうか。

しかし、私にとっては、それも問題ではありませんでした。なぜなら、私は生ける神様の摂理と真実の一端に触れたからです。

韓国における顯進様との出会いは衝撃的でした。私は以前、祝福家庭に宛てた2度目の書簡で、この時の感動を詳細に記したことがあります。

私はそれまで、顯進様を活動的で外的な方だと思ってきました。が、韓国で見た顯進様は、御言の方であり、祈りの方であり、涙の多い心情的な方でした。天を思い、父母様を思い、祝福家庭を思いながら、その間、どれほど多くの涙を流して来られたのだろうか、と思わされました。

顯進様は決して私たちに聞こえのいいことを語ってくださった訳ではありません。失敗は失敗、過ちは過ちとして、強く叱責もされました。原理の基準は曖昧ではないからです。しかし、その言葉には、深い愛情がこめられていました。それは、祝福家庭をどこまでも信頼し、責任をもとうとされる、真の兄としての強い愛情であったように思います。

また、このとき、涙で祈られた顯進様の祈りが、どれほど心に染みわたったかしれません。お父様は人々を前にする時、常にメシヤの権威をもって堂々と語られますが、神様の前に祈られる時、その祈りはいつも謙虚で、心情的な祈りでした。

私たちの不足さを共に悔い改め、赦しを乞いながら、同時に天を称え、慰労される祈りでした。顯進様の祈りも同様でした。私は顯進様の祈られる姿に、懐かしいお父様の香りを覚えたのです。

今に至るまでの、常軌を逸した教会内の排斥運動さえ起きていなかったなら、食口たちはもっと自由に、顯進様の祈りや御言に触れることができていたことでしょう。

顯進様は私たちよりもお父様を知っている!

私が顯進様の御言を、進んで学ぶようになったのはその頃からでした。と同時に、韓国から戻った時、私は既に、同じ年の3月、フィリピンで行われる大会にも参加することを決めていました。韓国での内部集会とフィリピンでの外部大会、この二つの行事を見れば、「顯進様が何をして来られたかが分かる」と聞いていたからです。

会長からは当然、苦い顔をされましたが、もう反対もできないと思ったのでしょう、今度ばかりは止められもしませんでした。

3月、フィリピン大会で私の心に沸き起こった思い、それは一言で言えば、「希望」でした。「お父様が成そうとしていた願いが、今、ここに受け継がれ、結実しつつある!」と感じたのです。

このことについては、また別の機会にお話したいと思いますが、私は韓国、及びフィリピンでの体験を通して、「顯進様は決してお父様から離れておられない!」という確信をもつに至りました。

もし顯進様が「離れた」と言うなら、それは「お父様から離れた」のではなく、お父様の願いから逸脱していた「当時の教団グループから離れた」のです!

「いや、顯進様はお父様の心情を今一つ理解していなかったのだ」と言われる方々もいます。本気で自分たちが顯進様よりも、お父様を深く理解しているとでも思っておられるのでしょうか?

例えば、この私は、今の責任者たちよりもよっぽど長く、また近しくお父様と接し、個人的交流も持もたせていただいた立場にあったと自覚しています。しかし、顯進様がお父様を理解される世界、その大きさ、深さは、私などの比ではありませんでした

また、「顯進様より自分たちのほうがお母様のことをよく分かっている」と思い込んでいる指導者たちもいます。しかし、その方々の語るオモニとはただ、自分の見たい、信じたいオモニの姿であって、誰が顯進様やご子女様以上にオモニの「真の姿」を知っているなどと言えるでしょうか?

イエス様を批判した律法学者

また、中には、顯進様以上に原理が分かっている、摂理が分かっているかのように語られる人たちもいます。しかし、はっきり言わせていただきます。私の知る限り、如何なる講師の先生方、誰一人、顯進様の御言の把握、原理理解には遠く及ばないでしょう。

私は今更ながら、顯進様の御言に、大きな感動と驚きを覚えています。顯進様にとって、原理とは単なる「観念」などではなく、自らの「体験」によって受肉化された「生き方」そのものなのです。

私も原理の生活化に人一倍努め、過去、創造原理などを30時間もかけて講義してきた人間ですが、顯進様が原理を解き明かされるのを聞いた時、自らが悟り得ていなかった新しい発見を幾度もしました。

原理の核心を掴み、お父様の深い御言を、万民に通ずる、分かり易い、普遍的表現をもって説明できる方は、この方を置いておられないでしょう。私たちが原理の本質を理解し、その理想を実体化するには、この方の教育と指導に寄らねばならない! と、今更のように、強く実感するものです。

こうした原理理解から見る時、本部の教理研究院の批判などは、あたかも、自らの狭量な理解をもってイエス様を批判し、律法に反しているとして糾弾した「律法学者たち」のようです。

そもそも、お父様の原理観、摂理観に対する理解があったなら、今の独生女論を擁護し、正当化するようなことなど、決してできないことでしょう。

真相から目を背けないでください!

真実と偽りは「言葉と行動」を通して判断すべきです。皆さんは今、オモニが何を語っておられるのか、本当にすべて分かっておられるのでしょうか。オモニが今、どんな信仰を掲げておられるのか、理解しておられるのでしょうか? 真実を伝えようとしない教会の責任も重大ですが、知ろうと努めることは皆さん自身の5%なのです。

中には、「オモニが何を語っているか、とか、難しいことはいいんです」、そう言われる方もおられますが、それなら、皆さん方は一体、何を信じ、どんな信仰を広げるために、自らの生涯を賭けているのでしょうか?

一方で、「顯進様が正しいのは分かる。でも、それでも、お父様のもとに残っていただきたかった」と語る人々もいます。その気持ち、分からなくありません。私も長い間、そう思ってきたからです。でも、誰よりもそうしたかったのは顯進様ではないでしょうか?

顯進様は当時、オモニや他の指導者たちが結託し、お父様の願いとは別の方向に進もうとしていることに気付いていたと言います。それに同調することを断固拒否した顯進様が、逆に父母様に背き、組織を掌握しようとした謀反者のように、濡れ衣を着せられ、すべての立場を追われました。

顯進様はその時、教会が宣伝していたように、自らの組織的立場や位置を失いたくないとして、それにしがみ付こうとしておられたのでしょうか? それとも逆に、お父様の基盤が別の信仰と意図によって奪われていくのを、必死で守ろうとしておられたのでしょうか? 今や数々の事実が明るみになって来ています。もうこれ以上、真相から目を背けようとなさっていただきたくありません

お父様の伝統を守ろうとしたのはどちらか?

それでも尚、全ての基盤がどうなろうとも、ただ、顯進様がお父様の傍らにさえ残っていてくださったなら、違った展開があったはずだ、と言われる人々もいます。それを期待したい思いも分からなくありません。

でも、もういい加減、「過去」を見るのではなく、「今の結果」をよくよく見てください。もし顯進様がお父様の信仰や伝統から離れ、自分なりの道を歩んで来られたのだとしたら、私も顯進様を「お父様から離れた」と見なしたことでしょう。

また、顯進様が恨みや不満から行動を起こし、自分を動機として活動して来られたのであれば、私は決して顯進様を支持することも、付いて行くこともしなかったでしょう。

私たちが勝手な誤解をし、さんざん批判し、糾弾する間、顯進様は何を語り、どんな言葉を発し、何を成して来られたのでしょうか。そして今、どんな原理観、摂理観をもって、運動を進めておられるのでしょうか。それをしっかり見ていただきたいのです!

言葉と行動を通して顯進様を見た時、私は決して「顯進様がお父様から離れた」とは思えませんでした。顯進様の語る言葉と歩んできた道のりが、まさしく、お父様の御言と生き方とに合致していたからです。

もう一度、皆さんにお尋ねします。オモニを中心とする今の教団と、顯進様の運動と、どちらがお父様の信仰と伝統を守り、貶められたお父様の名を高め、証しようとしているでしょうか? そして一体、どちらがお父様の信仰や伝統から離れ、またそれを別の信仰や伝統に塗り替えようとしているのでしょうか?

皆さん方お一人一人が、心霊と真理をもって真偽を見抜き、正しい道に導かれますことを願いながら、今日はここまでで終わろうと思います。ありがとうございました。


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