櫻井節子夫人のラジオ放送、「今、祝福家庭に伝えたいこと」シリーズの第2弾になります。

ここでは、過去の父母様の姿や先輩家庭とのやり取り等、祝福家庭の多くが知らない、様々な事実が語られています。全身全霊を込めて語られる櫻井夫人のメッセージを、今一度、文書で起こしましたので、是非、ご一読ください。

【櫻井節子夫人のラジオ】(今伝えたいこと②)

アボジにつながるのか、オモニにつながるのか(12月19日配信)

(以下、本文) ※小見出しや下線部分等は別途、編集したものです

皆様、こんにちわ、櫻井節子です。早いもので、今年も残すところ、わずかとなりました。悔いのないよう、残りの期間を過ごして行きたいですね。

私自身、こうしたお話が、年内にあと一回できるかどうか、と思いますが、とにかく力を尽くして、皆様にお伝えしたいと思います。

さて、前回、私は、「今のお母様に従うことが本当にお母様のためなのか」といったお話をしました。今回はさらに踏み込んで、「お父様につながるのか、お母様につながるのか」といった質問を皆様に投げかけてみたいと思います。

父母様を心から慕ってきた者として、こうしたことを語ること自体、とても心苦しいことです。しかし、この点を曖昧にしては、今、この運動の中で起こっている深刻な問題に気付けないと思うのです。

もし父母様が一つであったなら

教会の責任者たちは、繰り返し、「お父様とお母様が一つだ」と強調してきました。もし、本当にそうであったなら、この運動が今のような“分裂状態”に至るはずがなかったでしょう

お父様は「お母様がご自分と一つになること」を切実に願われました。晩年のお父様がお母様を叱責され、何度も条件を立てられては、「真の父母の完全一体」を宣布されたのは、「完全に一つになっているから」ではなく、それを「切実に願われたから」でしょう

そもそも、もしお母様が今、お父様と同じことを語り、お父様の歩みを証し、お父様と同じ摂理の内容を進めておられるのだとしたら、責任者たちが躍起になって、「お父様とお母様は一つである、そのように信じよ」と、必死に教える必要もなかったことでしょう。

夫婦が一つになっているかどうかは、わざわざ口にしなくても、肌で感じられるからです。

私たちは過去、「お父様とお母様が一つである」などという説明を聞く必要はありませんでした。なぜなら、目の前のお父様とお母様のお姿を見れば、お二人が一体となって歩んでおられることが自然に感じられたからです。

お父様を慕われていたお母様

かつてのお母様のお姿は常に、お父様をお支えし、涙でお父様を証しされ、食口たちを「ご自分」ではなく、「お父様」につなげようという思いで溢れていました。私たちがお父様をどのように慕い、どのように侍るべきかを教えてくださったのがお母様だったのです。

私がお母様に最初にお目にかかったのは、1967年、16名の御一行として、ご父母様が3名のご子女様方をお連れして、初めてご来日された時でした。

韓国では、当時お一人で過ごされることの多かったお母様にとって、お父様が毎日どんなに遅くても必ずお帰りになられた日本での滞在期間は、「新婚生活」のように幸福なひと時であった、といいます。

お父様の帰りを、今か今かと待ち続けられる、そんなお母様の当時のご様子を、直接、侍られた松本ママから、事細かに伺っていました。

当時のお母様は、まだ乙女の香りを残し、お父様をまるで父親か、恋人のように慕う、初々しいお姿に見えました。

人々をメシヤにつなぐ聖霊

その後、1974年にご来日された時のお母様の印象は、今でも忘れられません。各界名士たちを集めた「希望の日講演会」の席上、司会者の紹介を受け、美しく髪を結い上げ、うぐいす色のお洋服を召されて立ち上がられたお母様を見た瞬間、場内にどよめきが起こりました。

それは、この世的な美しさとは違い、汚れのない天的な気品に満ち溢れておられたからです。お父様の傍らに寄り添って立たれ、つつましやかな、何というか、志操の正しい、操の正しいお姿。こうした雰囲気をもつ女性はそうはいません。集まった人々は、「文先生はこういう奥様をお持ちなのか」と、きっとそんな、とてもいい印象を持ったに違いありません。

お母様はお父様を心から敬い、傍らにあって、常にお父様を高め、引き立てるようなお方でした。

原理が教える“聖霊”の役割とは何でしょうか? それは子女たちを一つに束ね、メシヤにつなぐ存在です。当時のお母様は正に、“聖霊”の実体でした。

「父母」をもったことの喜び

さらに77年5月、第17回のご聖婚記念日で、お母様は初めて、自らの証しをなさいました。皆様もおそらく、文面などご覧になったことがおありでしょう。

その中で、お母様はこう語っておられます。「先生と私の間には、尽きない話題と限りない理解があり、無限に満たされた会話がありました。二人はそんなに多くを語らずとも、深く互いの事情を理解し合うことができました。なぜなら、先生の通過してこられた事情と、私の歩んできた道が、厳密なまでに、あまりにも似ていたからです。…先生と私が、互いに見つめ合う時、互いに感ずる勝利感に、私は限りなく慰さめられ、平安を与えられます。」 そう語られたお母様でした。

私はこの時の証しに衝撃を受けました。古い私たちは皆、お母様を知る前からお父様を知り、お父様によって育てられてきました。言わば、“お父さん子”であって、言い変えるなら、母を知らず、父だけ慕って育ってきた“庶子”のような立場だったのかもしれません。

しかし、お母様の抱かれる、お父様への深い心情世界に触れながら、私はこの時初めて、この方こそ私たちの母なのだ!と実感すると共に、この方を通してお父様を見つめなければならないこの方がお父様を敬い、慕い侍るように、私たちもまた、お父様の前にそのような子女になってゆかねばならないと強く感じたのです。

「私たちは父親だけでなく、母親をもっている、“父母”をもっている!」という事実が、どれほど大きな感謝であり、喜びであったかしれません。

真の女性、生ける聖霊

お母様の深い心情世界は、83年にご来日された時にも強く感じました。翌84年はお父様がダンベリーに行かれた受難の年となりましたが、その前年の83年、お母様は松濤本部で、食口たちを前に、「今のお父様の姿を見る時、ただならぬものを感ずるのです」と涙ながらに語られました。

ご自分のお話など一言もありません。最初から最後まで、お父様のことを思い、お父様のご苦労と貴さと、その御心情を証しされるお母様でした。

私たちはお母様を通じて子女としてどうお父様に侍るかを教えられ、同時に、真の娘、真の妻、真の母という“真の女性”としての在り方を教えられたのです。私たちにとって、お母様は正に、“生ける聖霊”のようなお方でした。

しかし、今のオモニから、何故かあの頃の心霊的香りを感ずることはできません。今のオモニから「お父様を敬い慕う心情姿勢」を見出すことができません。それは何故なのでしょうか。これは私だけの思いではなく、韓国の元老たちや先輩家庭を始め、多くの祝福家庭が感じていることではないでしょうか。

ありのままを直視してください! 

ある責任者は私についてこう語っていたそうです。「櫻井夫人はただ、“自分が見たいお母様”を見ようとしているだけだ。“ありのままのお母様”を受け止めるべきじゃないか」と。

その言葉を、そっくりそのまま、お返しします。自分が見たいように、信じたいように、お母様を見つめるのではなく、“ありのままのお母様”をしっかり見て頂きたいのです。

「お父様とお母様は完全に一つだ」…。それは“自分たちが見たいお母様”であり、“自分たちが信じたいお母様”でしょう。私も同じです。お父様とお母様が一つであることを、どれほど信じたかったかしれません

しかし、今のオモニの実際の姿は、お父様の偉大さを証しし、そこに食口たちをつなげようとしている姿ではありません。オモニが語っておられるのは、「お父様につながりなさい」ではなく、「ご自分につながりなさい!」ということなのです

お母様につながることでお父様につながるのであれば、私から真っ先にお母様につながろうとするでしょう。でも、今のオモニにつながることは、お父様に背を向けることと一緒なのです

お父様が可哀想です…

サンクチュアリに行かれた姜賢実先生と私とは、長いお付き合いでした。かつて、私は先生とペアになって、日本を巡回したことがありましたが、それ以来、先生は私のことを「信仰の友」と呼んでくださいました。

2015年、16年頃、私は韓国に行く度に、清平のシルバータウンにおられた姜先生を訪ねました。が、その頃、先生はお母様のことで、深刻に悩んでおられました。

先生はもともと謙虚な方です。お母様を心から支え、またお母様も先生のことを「韓国の宝」と言われ、とても大切にされていました。いたずらにお母様を批判なさるような方ではありません。

しかし、先生曰く、オモニは「摂理歴史は私を迎えるためにあった」「私でなければならなかった」「私によってお父様はメシヤになられたのだ」と、あたかもご自分が“摂理の中心”であり、お父様が使命を果たせなかったように言われる、ということで、先生はしきりに、「お父様が可哀想だ、お父様が気の毒だ」と繰り返し語っていらっしゃいました。

かつてあんなにお父様を慕っておられたお母様が、どこでどう変わってしまわれたのか。姜先生は古い歴史をご存知だからこそ、苦しまれたのでしょう。父母様を慕っておられたからこそ、目の前の現実を受け止め難かったのだと思います。

当時、私はまだ、顯進様について、よく分かっていませんでした。当時、もし私が今くらい、真実の顯進様のことを知っていたなら、あの頃、顯進様のお話ができていたなら、姜先生はご自分がオモニに取って代わって、「真の母の位置」に立つなどという、大それたことなど、決してされなかったに違いありません。

霊的生命を賭けて

教会の責任者たちは、これからもずっと、同じことを言い続けることでしょう。「お父様とお母様は一つ」であり、「お母様につながることがお父様につながることなのだ」と。しかし、本当にそうでしょうか?

これは「霊的生命」にかかっている重大な問題です! 責任者たちが皆様の霊的生命を保証してくれる訳ではありません。本当にそれが真実なのか、自らがもう一度、真剣に祈ってみて頂きたいのです。

私は2017年の真の神の日、教会の責任者たちの猛反対を押し切って、韓国での顯進様の集会に参加しました。自分が直接、この目で見て、肌で触れ、心霊で感じてみない限り、お父様の心情と伝統がどこに残されているのか、知る術はないと思ったからです

私が顯進様に触れたのは、たったの3日間でした。個別に出会えた訳でもありません。ただ、集会に参加しただけです。しかし、私はその時、顯進様のみ言と実体、語られる内容と涙の祈り、また、そこから発せられる霊的な波動と雰囲気を通して、お父様と同じ香りを感じ取りました

かつてお父様と触れた時に感じ、また昔のお母様の中にあった、あの懐かしい天的な波長と香りに、懐かしさがこみ上げ、涙が溢れてなりませんでした。

皆様、もう一度、神様の御旨がどこにあるのか、お父様の本当の伝統がどこに生き続けているのか、自らがどこに霊的生命の根っこを見出さなければならないのか、真剣に祈ってみてください。

皆様方の祈りが天に届き、真理と心霊によって正しい道に導かれますように、心からお祈りしながら、今日はこの辺で終わりたいと思います。ありがとうございました。


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