こんにちはSnowWindと申します。私も縁ありまして「ONE TRUTH有志の会」の公式ブログで記事を書かせていただくことになりました。宜しくお願い致します。私は、文鮮明師は「聖」「俗」を超越した人物だと思っています。
「ゼロからわかる三大宗教の読み方」から引用 ここから
インド仏教は何故衰えたか
イエス・キリストは、日常生活を縛る律法を守らなくとも信仰によって人は救われると、と説いた。ムハンマドは、富める者は積極的に貧者に施しをせよ、と説いた。したがって、キリスト教もイスラム教も、最初の支持者は貧困層が多かった。しかし王族出身のブッダは、物質的な豊かさを極め尽くした上で人生の虚しさを知り、すべてを捨てて出家した。この世の虚しさにめざめ、一切の執着を捨てよ、というのが仏教の根本思想だ。
しかしこの思想は、貧困層にはなかなか理解できない。したがって仏教の支持者は王侯貴族や豊かな商人に多かった。これら上流階級によって保護された仏教は、多くの学派が生まれ哲学論争に入って行ったが、これらは国立仏教大学の教授間の哲学論争であって、庶民には関係なかった。
インドで庶民の心の支えになったのはヒンドゥー教
この間、日々の生活に追われる庶民の間に、分かりやすい宗教として広まったのがヒンドゥー教だ。古代アーリア人のバラモン教の神々に、各地の土地の神々を加え、神々にお供えをし、礼拝をすれば、家内安全、縁結び、立身出世など世俗の願いがかなうという教えだ。
ヒンドゥー教にも出家者はいるが、基本的には世俗の仕事を続けたまま、神々に救いを求める。世俗を捨てよと説く仏教とは真逆の教えだ。「ゼロからわかる三大宗教の読み方」ここまで
天の父母様聖会の「聖」と俗」
これを読んで感じたことは、インド仏教と天の父母様聖会が似ているということでした。
統一教会(家庭連合)の最初は、学生や青年を中心としたインド仏教的な「出家」の考え方が主流であった(「聖」として捉えられる)
この「聖」なる集団に「俗」なる物販活動が取り入れられた。
「聖」なる人たちは「俗」なる物販活動を「聖」なるものとして受け入れた。
しかし「俗」は「俗」であり、いつの間にか「俗」なる生活に埋没してしまった。
そこから誕生したものが天地正教であり、清平教であった。家内安全・縁結び・立身出世など「世俗の願い」を求める宗教になってしまった。
ヒンドゥー教の聖職者は「世俗」の生活をしたまま、神々に救いを求める「聖」なる仕事をしている。
旧家庭連合の聖職者は「世俗」から離れて「聖」なる仕事をしていると思っているが、やっていることは最も「俗」な仕事であった。
今、清平の石像が話題になっているが、その石像は果たして「聖」なのだろうか、それとも「俗」なのだろうか。それを考えているとモーセの十戒が脳裏に浮かんできた。
ウィキペディアから引用しました。
ウェストミンスターレーニングラード写本(欽定訳参考)によるモーセの十誡
基本的に、新約聖書の底本はレニングラード写本となる。レニングラード公立図書館所蔵の写本。旧約聖書の完本として残る写本では最古のもの。
上方にある天、下方にある地、地の下の水の中にあるいかなるものをも彫像にしたり画像にしないこと。それに敬意を示したり、世話しないこと。
ヘブライ語聖書(タナハ)におけるモーセの十戒
あなたは自分のために像を作ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にあるもののいかなる形も。あなたはそれにひれ伏しても、それらに仕えさせられてもならない。
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