天宙史的葛藤を前に、「私ごときが判断できる問題ではない、お母様が解決されると信頼するしかない」と決断を保留する食口は多いです。
「私ごとき」は謙遜の美徳ですが、自分の名前で祈ることを許諾された祝福中心家庭が、この重大な局面で何もしなくて良いのでしょうか。
「下手に行動して後で間違いだと分かったら、天罰が恐ろしい」と身動き取れない食口が、知っておくべき内容があります。
アボジですら、はじめから全てを知って迷いなく行動されたのではなかったことを。

 先生も、神様が、「あなたはメシヤであり、救世主であり……。」と言われるのですが、それを信じることができるでしょうか、信じることができないでしょうか?……真の父母の資格を悟るためには、“真の父母は、かくかくしかじか、このような困難にも責任を持つことができなければならない”ということを知ることも必要ですが、その位置に行ってみて、自分だけでなく、神様が共になされるのを見るときに、「あ!」と、悟ることもあるのです。そうして、その峠を越えてから、「ああ、うん、そうだ。このようにして、初めてメシヤになるのだなあ。このようにして、初めて真の父母になるのだなあ。」と、自覚するのです。……「天一国」をすべて成してみると、“ああ、お父様が約束された約束を成すためには、多くの受難の道を経なければならず、その受難の峠の道や事件は、このわたしを自覚させるためであり、天の任を受けるための祝福の道であったのだ。アーメン”と思うようになるのです。(第43回『真の子女の日』記念礼拝のみ言葉, 2002.11.5)

生前のアボジはひたすら強気で攻めた印象が強いのですが、時折このようなみ言葉が見つかります。
元々イエス様から直々に召命された際も、その先に予想される責任の重さに一度は辞退されたのです。
ご自分が無原罪の誕生だということも、他人が疑う前に自分が真っ先に疑ったのだとか。

メシアの道とは、神様から教えられて行くものではありません。
全能の神から「あーせい、こーせい」と逐一指令を受けて、機械のように実行する人はただのロボットです。

本当の神の子であれば、責任分担から逃れる法はないのです。
先天的に授けられた能力で自ら学び、悟るべき内容があります。
アボジの代表的な偉業として、何も教えられない中で自ら悟って、膨大な原理を自力で解明した点があるのでしょう。

アボジ聖和後にオモニが変貌する様子を眺めながら、祝福家庭は成す術も無く立ち尽くしました。
「お父様とお母様は一体だから、お母様を通してお父様が語っておられるのだろう、だから違和感があったとしても、自分なりに判断せずに従おう」と。

小山田先生や周藤先生のような「原理の番人」ですら、「お母様だけを見つめましょう」と指導されるのだから呆れます。
原理では到底判断できないが、とりあえずそうしておけば後で叱られることはなさそうだ、とでもお考えなのでしょうか。

 

 

こうして原理を重視する食口は次々と分派に流れ、原理を放棄できる人はオモニを支持するという、皮肉な逆転現象が起きました。
いまや祝福家庭は、なぜ自らが「天一国主人・祝福中心家庭」の立場にあるのか、自分の名前で祈る権威がなぜ与えられているのか、「信仰」について説明することができなくなりました。
氏族メシヤとは名ばかりで、実際には永続的に献金させる隷属契約でしかなく、自分がメシアであるなど誰も信じていないのです。

多くの食口はこう語ります。
「・・・いまどうしたら良いかなんて、私なんかに判断できるはずがない、お母様が解決されることを信じて待つしかない」と。
模範的で謙虚な姿勢のように思えますが、「私はメシアではないので面倒とは関わりません」とサタンに白状してるようなものです。
「下手に口で罪を犯して、天罰が下るのが恐ろしい」と恐怖に怯える人に、メシアの資格があるでしょうか。

冒頭のみ言葉に戻れば、メシアという存在は召命された時点ではまるで実感が湧かず、アボジすら半信半疑だった事実がありました。
全て教えられたから確信を持って行くというのは順番が逆で、まず困難に飛び込んで神様と出会う中で、一つ一つ悟って行くのです。

自分の名前で祈ることを許諾された私たちも同様で、「私は一度も迷ったことなんてない」という人がいたら100%嘘でしょう。
半信半疑で歩みながらも日々神と出会うようであれば、現在進行形でメシアになろうとしているしるしです。

 わたしは、「正午定着」という言葉を言いました。影すらも共にいてくれず、完全なる独りの境地にいたとしても、“私は、このような使命的な主人であることに間違いないなあ“と考えるのです。そうして、天地に対して感謝し、万物に対して感謝し、自分のことをそのように信じてくれる環境に対して、“地上の万物から動物から人まで、すべての人生、すべての歴史において、自分を補助してくれることのできる協助者たちは、すべてが、私を助けるための、私を覚醒させるための教材として生きていったのだなあ”ということを悟り、“このようなものは、私のためのものではなく、同じ立場で、これらをすべて解放させる共同責任の下で生きなければならないのだなあ”と考えるのです。
 このように考えながら、“自分一人が豊かに暮らそうと考えることはできない”ということを発見して、世の中のいかなる困難にぶつかっても、自分が幸福な環境にいたとしても、それを超えて、“不幸な位置までも自分が開拓し、神様の代わりに王座に就こう”と考えることができてこそ、「天一国」を相続することができる相続者になるのです。分かりますか?(2002.11.5)

“自分一人が豊かに暮らそうと考えることはできない”、“不幸な位置までも自分が開拓し、神様の代わりに王座に就こう”とは、義務感使命感だけでできることではありません。
アボジですらはじめから自然にできたのではなく、「発見して悟った」というのです。

たとえ間違っても良い、神様のために何とかしたいという一心で飛び込めば、氏族メシアとしての成長がはじまります。
「祝福中心家庭」の名誉を挽回すべく、悟りと感動を求める日々でありたいものです。

カテゴリー: 原理的観点意見

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