(※編集者駐:パシセラ氏の特別寄稿をシリーズで掲載しています)


個人救援への逆戻り

前回の文章で、霊感商法の時代から清平の時代へと続く中で、統一運動は、理性を失うような霊的集団へと転換されて行った事、原理講論の中で「科学と宗教を統一された課題として解決」するという言葉に表現された精神を持って、もう一度御言を学ばなければならないということを書きました。また、霊感商法と清平、そして献金が強調されたことで、旧約以前の、御言を受ける前の「御言の基台摂理時代」、供物の時代のようになってしまったということを書きました。

このようにいきなり書くと旧統一教会を支援する方から反発されるかもしれませんが、真剣に信じていることでも、冷静に、客観的に判断して見るというのは必要なことがあります。敵のように思っている人が言う言葉が、天の言葉であることもあるはずです。

この逆戻りの問題を、別の形で述べようと思います。それは、家庭救援から個人救援の時代に逆戻りした、ということです。世の中では、統一運動が、神様の理想家庭を目指す運動だと主張したことが、嘲笑われています。社会では、子供を捨てて宗教に走った母親を生んだ宗教が、どうして、理想家庭など語ることができるのかということを始めとして、理想家庭を語ることそのものが詐欺に聞こえてしまうような状況となっています。

本来、理想家庭を目指す家庭救援の時代というのは旧約、新約、成約と時代が進む中で、成約時代の摂理です。しかし、日本の“旧統一教会”が献金に集中し、「御言の基台摂理時代」という供物の時代に戻るような状況になった時に、家庭救援の摂理から個人救援へと逆戻りしてしまうことが多かったのではないでしょうか?

神様の摂理歴史は、個人救援の摂理歴史が遥かに長いです。ですから、信仰心を持った人も、個人救援の信仰観に戻るのは簡単で、家庭救援の信仰観に至るのは、革命的です。

家庭救援の摂理になる前の、旧約、新約時代など時代は、神様を信じ従うのに熱心な人たちは、自分の家を出ました。アブラハム、モーセ、そして、イエスもそうです。イエス様は、ヨセフとマリアに理解されない中で、神様に従うために家を出ました。お釈迦様も家を出ました。宗教的求道者で真剣になった人たちは、荒野に出たり、修道院に入ったりしました。人間は男性女性しかおらず、誰もが独身でいることを選べば滅亡するのに、宗教に真剣になった人が独身を選ぶのは、不思議と見ることができます。

文鮮明師も、最初の妻とキリスト教を代表した一部の牧師が賛同してくれていたのなら、家を出て北朝鮮に行く必要はなかったはずですもし賛同されていたのなら、1945年から家庭救援の摂理でした。しかし受け入れられなかったので、そこから40年の期間が必要になりました。

40年荒野路程と呼ばれる期間は、「御言の基台摂理時代」、旧約時代、新約時代の基盤を取り戻すために必要であり、そのために世界基督教統一神霊協会、つまり、“旧統一教会”を作ったのですが、目的は、家庭救援の摂理に戻ることにありました。そして40年路程を過ぎて、家庭救援の摂理になったことを宣言したのが、1990年台の教会時代の終焉宣言と家庭連合時代への転換です。これは、ただの名称変更ではなくて、摂理的大転換でした。

家庭救援の摂理への転換

文鮮明師は、まず1994年5月1日、世界基督教統一神霊協会創設40周年を記念する行事で、「統一教会の時代が終わり、今日から家庭連合の時代です。個人救援時代から家庭救援時代に転換しました。」と宣布されました。そして、1997年、4月10日、世界平和統一家庭連合を公式的に発足させ、世界基督教統一神霊協会の看板を下ろしました。

それは、1945年から始まるはずだった摂理的時点に戻って再出発するということです。本来の成約時代の、家庭救援の摂理をするということです。荒野時代と定着時代は大きく違うのです。

ところが、実際の世界基督教統一神霊協会内部においては、ただの名称変更に聞こえていました。特に、日本においては、あい変わらず献金に追われ、米国にいた私のような人にも、如何に日本が献金で大変か、米国の教会員も献金しないといけない、という話が常にされていました。

この、神様の摂理に対応できなかったツケは、家庭救援時代の中心として、摂理的長子として1998年7月に文鮮明師から認定された文顯進会長を、リーダー達が受け入れず、世界基督教統一神霊協会の体制をそのまま続けて、自分達の権益を維持しようとし、結果として2009年からの統一運動の分裂となりました。

世界基督教統一神霊協会から世界平和統一家庭連合へと摂理的に転換できなかったのですから、世の中で言われているように、世界平和統一家庭連合名前は変わっても、まさに旧統一教会です。

日本の旧統一教会の現実

さて、荒野40年路程における日本の旧統一教会についてもっと考察したいと思います。日本にはキリスト教の人は多くありません。ところが、統一教会に入ると、神様の摂理は、旧約以前、旧約、新約、成約と段階が上がると教えられます。すると、キリスト教徒でなかった人には、キリスト教徒だった人とその信仰を、憧れを持って見られるようになります。旧統一教会に、キリスト教から改宗した人がエリートに見えるということです。

皮肉なことに、前回書いたように、文鮮明師自身は、原理講論を通して、キリスト教の信仰体系からの脱皮(脱構築)を目指していました。ギリシャ・ローマ文明の影響の中で登場した三位一体論とイエスの神格化などの、キリスト教の神学の論理的限界を乗り越えることを意図していました。それなのに、文鮮明師自身は脱構築しようとしていた信仰体系が、旧統一教会内部ではエリートの信仰姿勢のように見えるという矛盾が起きた、ということになります。

一口にキリスト教と言っても、文鮮明師が脱構築しようとしていたキリスト教の信仰体系とは、主に、キリスト教の主流的思想である、パウロ神学と呼ばれるもので、単純化すれば「信じれば救われる」とする信仰です。パウロは生きたイエス様は知らず、殺された後で霊的に現れた、光り輝くイエス様をメシアとして信じた人でした。信じれば救われると信じる、その信じるの主語は、個人です。家庭ではありません。一人ひとりの個人が信じて、信じた人が救われる、という信仰観です。

ところが、韓国で初期に旧統一教会に入教した人たちには、キリスト教の信仰観を持ち込んで、文鮮明師を、全てがわかっていて間違いをしないメシアであるとして、崇める信仰を持ち、その信仰観を広める人たちがいました。つまり、キリスト教の信仰体系からの脱皮を目指した文鮮明師を、キリスト教の信仰姿勢で信仰するようになったということです。これは、はっきり言って間違いでした。しかし、間違いであると気が付かず、長い年月が流れました。

さらに、日本の旧統一教会のようにキリスト教だった人を羨む風潮の出るところでは、文鮮明師をキリスト教の信仰姿勢を持ち込ん崇めて神格化することがモデルのようになり、文鮮明師と教会員の間をつなぐリーダーたちは、まるでカトリックでキリストと信徒をつなぐ聖職者のような存在となり、権威を持ちました。彼らは、文鮮明師を神格化していました。

そして、現実の教会運営が、霊感商法と清平を通して、献金に集中したものとなると、文鮮明師を神格化する信仰がますます尊ばれ、文鮮明師の元々の教えとは食い違っていることさえ気が付かなくなります。そのようになると、教会全体として、御言も良心も見失い、旧約以前の「御言の基台摂理時代」という供物の時代に戻ったことすら、違和感を感じなくなります。

家庭救援の時代に大転換されてもその時代のリーダーとして立った文顯進会長を敵視するようになり、個人が信仰を立てるために家庭を顧みないことが讃えられる教会となりました。つまりこれは、家庭救援の摂理時代になったとしても、荒野時代から転換できなかったことを意味しますし、組織的には、“旧統一教会”のままであったことを意味します

旧統一教会改革は難しかった

私が日本の旧統一教会を監査した2001年の頃、見たのは、教会員が献金として神様に捧げたお金が、教会のトップレベルのリーダー達の裁量で、献金からビジネスのお金へと自由に転換され、転換されればリーダーにお金が入る全国的なシステムでした。このようなシステムは、組織の価値観や、権威と権力の構造を変えます。出来上がっていたシステムは、文鮮明師が作ってはならないと言ったものでした。

教会のトップレベルのリーダーが韓国の普通の大理石の壺を仕入れて、清平の霊石として地方教会に卸して利益を得たのも確認しました。教会の部下には懲罰のような行をさせながらも、ゴルフをして楽しむトップリーダー達に逆らえば袋叩きにあって病院送りにされる、同じ韓国人への暴力も見ました

しかし、監査の結果を受けてこうした教会の姿とリーダー達は間違っている文顯進会長が正した時に文顯進会長間違っていることにされ、大変な苦労をしました。日本の劉正玉総会長は、問題を起こした人達と同郷で、韓国の地縁と歴史の問題も立ちはだかりました。

明らかな不正すらも間違いであるとわからなくなっていた旧統一教会が、文鮮明師の教えを間違って理解していること、献金の集め方も使い方も間違っているのを悟るのはとても難しいことで、改革恐ろしく困難でした。

旧統一教会のリーダーたちは、文鮮明師の「やりなさい」、「やってはならない」という指示に、従っていたのではありません。教会内の政治的動きは単純なものではありませんでした。それを正そうとした文顯進会長が、リーダーたちから悪く言われ、父から叱責されることが繰り返されました。文鮮明師は、自分の子供より、血のつながらない遠いものをより愛するという哲学を持っていたからです。それを理解する旧統一教会の人達はとても少なかったと思います。

今、社会では連日、旧統一教会に関する報道がなされ、政府も、与党も、野党も動いています。それを簡単に言えば、旧統一教会を終わらせることになる動きです。文鮮明師は、旧統一教会を終わらせようとしました。それは抵抗され、旧統一教会は継続しました。文顯進会長は改革を実行しようとしましたが、追い出されました。

原理講論の「南北王朝分立時代」の説明には、預言者を送られても内部からの刷新ができず、悔い改められない時には、神様は外的な粛清の摂理をするとあります。選民であるユダヤの民が、南北に分立され、悔い改めることがない時には、アッシリアやバビロニアなどの異邦人に引き渡して選民の資格を永遠にように摂理されたとあります。よく噛み締めて考えてみるべきことではないでしょうか?

昔のユダヤ人の物語ではなく、今、自分自身が外的粛清の摂理を受けて、選民の資格を失ようになる可能性があるということに気が付くことは、耳を塞ぐべきことではなくて、もう一度神様の下に戻るための導きのはずです。

統一運動は神様の理想家庭を目指すはずだった

前回の文章で、原理講論は、3つの部分から成り立っていて、一つ目は神様の創造原理、二つ目はキリスト教の非合理な信仰体系からの脱皮(脱構築)、三つ目は、神様の摂理歴史である、ということを書きました。この中で最も大切なのは1番目の神様の創造原理であり、その中でも最も重要なのは、神様の創造目的です。その創造目的とは、神様の理想家庭です。文鮮明師の教えていたことに論理性と一貫性があるのは、まず神様の創造目的を明らかにしたことから出発していることから生まれていることになります。

ですから、神様の摂理が進展し、神様の理想とした世界に近づこうとすればするほど、神様の理想家庭を目指す展開が明白になります。ですから、1945年からの本来の摂理は、家庭救援の摂理であり、40年が過ぎた後の教会時代の終焉時代の摂理は、神様を親として認識し侍る家庭を目指すようになりました

教会時代の終焉とは、単に世界基督教統一神霊協会という一つの宗教組織が終わるという意味ではなく、組織化された宗教を通して神様との関係を持つという時代が終わるということです。組織化された宗教を通して、個人が神様との関係を持つのではなくて、それぞれの家庭を通して神様との関係を自分のものとするということです。

自分のものとするということは、本物になるということで、自分が神様の御旨の主人になるということであり、神様の愛と知情意が、神様の真善義の実践を通して自分と連結するようになり、そのようにして成熟し神様の息子娘となった、男性と女性が結婚して子女を産んで養育して、神人愛一体と呼ばれる理想を実現することです。これはつまり、創世記の三大祝福の内容に相当し、祝福を受ければ自動的になされるのではなく、自分で努力して成し遂げる、人間の責任分担です。

神様には理想と目的があり、本能だけで生きる動物とは異なって、人間には霊的意識と責任分担があり、その責任分担を果たして、男性、女性として創造された目的を成就する、つまり、神様の理想家庭を成就するというのは、過去の様々な宗教や思想の教えと実践に限界を見出していた人たちが深く見れば、とても革命的な内容を意味するのです。

儒教や仏教の影響圏のように、人格神である唯一神を信仰しない文化の場合、このような内容は異質なものと感じられることでしょう。でも、例えば、善と悪、義と不義、道徳と不道徳という概念はほぼどこにでもあります。

文鮮明師の語った言葉に、神人合徳という言葉があります。それは、神様と人間が合わさるのが最高の徳である、という意味で、神人合徳の内容は神様の理想家庭のことです。徳とは何かを求めた人が、神様の存在のみならず、神様が知情意を持った人格神であることを悟り、神様の目的について悟った場合に、とても大きな意味を持つ言葉です。徳と神様の理想家庭が結びつくのです。文鮮明師のお話を20年ほど目の前で何度も聞いた中で、最も記憶に残っている説教の一つです。

旧統一教会の姿

神様の御言と御旨を理解して体現しようとする事は、メシアを神格化して、信じれば救われる、教会に属していれば救われるする信仰とは違います。献金という供物のために手段を選ばず、良心の声を無視するようになれば、実績は献金額になり、徳は献金実績に置き換えられますでも、本来の摂理は、神様の理想家庭を目指す摂理でした。

多くの旧統一教会員にとって、神様の理想家庭を目指しましょうというのは、ショックであったり、「今さら」であったり、旧統一教会の教えとは違うと感じられたり、受け入れ難いことかもしれません。私の会ったリーダーにも、家族に何十年も会っていないのを誇りのようにしている方もいました。でも、文鮮明師のお話は、明らかに教会時代から家庭の時代への転換を目指していたことを示しています。

少し神学的な内容が多い文章となりましたが、旧統一教会は文鮮明師の教えを歪曲し、今はほぼ捨て去っています。文鮮明師の教えていたことを、他宗教や哲学、思想などに照らして学べば、高度な内容です。息子である文顯進会長は、それをわかりやすくすることに精力を注がれているのを見ます。私たちはもう一度、御言を学び直す必要があるはずです

文鮮明師のお話から

2000年7月1日

統一教会の看板を下ろした後、何ですか?『世界平和統一家庭連合』です。家庭の連合をつくっているのです. . . 家庭の平和。家庭に関して何と先ほど言いましたか?幸福の基盤、そして何?統一の基盤。家庭はそれほど重要なのです。そのような家庭が集まるべきです。それ以外のことをいまする必要はありません。教会は必要ありません。教会の時代は過ぎ去るのです。」

2004年4月30日

「公的な組織として、統一運動に取り掛かってから50年が過ぎました。統一運動の最初の段階は、主に個人の救済を扱う宗教分野の時代でした。その次の段階は、真の家庭を天国の単位として探し打ち立てる運動です。


2件のコメント

· 2022年9月5日 9:32 PM

文鮮明氏が霊感商法に言及してる動画があるが、教会幹部のみが勝手に始めたとは言いがたい。また清平の摂理も始められたのは文鮮明氏です。その意味では今だに教会員が先祖解怨、先祖祝福の行為を信じてもおかしくはありません。文鮮明氏は再臨主でも間違いを犯さない完全な人であると思っていません。文顯進会長を追い出す文章も書きましたし、幹部が誤っている事を知りながら重用し続けました。そう言う点も述べて頂きたいです。
現在私は文鮮明氏が聖和されて以降、家庭連合に距離を置いています。日々、天聖経八大聖本を訓読するのみです。

    daichi · 2022年9月6日 4:54 AM

    >凛さん

    コメントありがとうございます。
    原理講論では、「個性完成」とか「完成人間」という言葉がありますが、これは必ずしも全く間違いを犯さないという意味ではないと思われます。
    お父様の御言葉のうち、摂理の方向性に対する指示は原理にそったもので間違いなかったと思います。
    たとえば個人を救済する時代から家庭を救済する時代への転換というようなことです。
    一方で経済的な事業であるとか、人事に関することであるとか、それはお父様も一人の人間として知恵を絞って考えて結論を出されたでしょうし、人間ですから学んだことしか分かりません。
    知識や情報が不足していたり、あるいは晩年のように間違った情報を伝えられれば、それによって判断を誤ることもあったのではないかと思います。

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