劉正玉氏の見せた間違った見本

前回は、2001年の日本統一教会に対する監査とカナダ21日修練会の頃までを書きました。前回書いたように、私は急いでカナダから日本に戻ることにしました。なぜなら劉正玉氏が、文顯進会長に反発しているのを聞いていたからです。ただ心の中の問題ですから、証拠のように見せるのは難しいことでした

そして、文顯進会長が日本に到着した日に、ホテルに会いに行きました。目的はただ一つ、劉正玉氏は危険だということを伝えるためでした。しかし、文顯進会長は本当に、劉正玉氏を信頼していました。文顯進会長の心は動きませんでした。

翌朝だったと思いますが、文顯進会長は劉正玉氏と会って、私に監査の結果内容を報告させました。なかなか納得しない劉正玉氏に証拠を見せ、文顯進会長自身も、何度も似たような内容を繰り返しながら、忍耐強く説明されました。最後には、劉正玉氏は「わかりました」と言いました。

数日後、文顯進会長は、三の日本在住の日本人リーダーに劉正玉氏を補佐する役に命じ、劉正玉氏に新たな出発をするように命じました。それは、劉正玉氏を本当に信頼していることを示していました。

また、劉正玉氏は、統一教会の松濤本部で指導者会議を開き、その場には文顯進会長はおられませんでしたが、劉正玉氏は「綺麗にしてくださってありがとうございます」と、文顯進会長に感謝の意を表明しました。

問題はこの後に表面化しました。文顯進会長は文鮮明師を気遣い、「良くない人たちがいたので正しました」としか伝えなかったと聞きました。しかし、米国に行き、文鮮明師に叱られた劉正玉氏はガラッと変わり、文顯進会長が勝手に人事したと訴えました。前回、下の図を掲載しましたが、まさにこの哲学を文鮮明師は実践することとなりました。

劉正玉氏の言うことを信じた文鮮明師は、文顯進会長をとてもひどく叱咤しました。私はその場にはいなかったのですが、その場にいた人から様子を聞きました。あまりにひどいと感じたことなので、書かないでおきます。しかしそれだけで終わりませんでした。この事件があってからすぐに、文顯進会長のお子さんが他界されました。

劉正玉氏の行動は、文顯進会長を背中からナイフで刺したかのように、私には感じられました。日本にいた私の耳には、修練会から、暴力で知られたリーダーたちが戻ることにより、日本で血の雨が降るのではないかと言う心配が聞こえてきました。

実子の選択、弟子の選択

米国に戻る私は、まるで文顯進会長のお子さんの死の原因を作ったような気がしていました。自分が米国に戻った私は追加報告を文顯進会長にしましたが、文顯進会長はあまり多くを語りませんでした。私に対する指示は、「あなたが知っていることは誰にも言わずに自分の中に保管しておきなさい」というものでした。

劉正玉氏を含めて、問題となったリーダー達の行動は、信頼に対する裏切りの象徴でした。宗教団体において最も大事にされるべき信頼が裏切られたということです。

文顯進会長は、監査でわかっていた不正を公表して、自分を守ろうとすることもできました。しかし、そうしていたのなら、どうなったでしょうか?前回書いた不正内容を思って頂けば想像がつくかもしれませんが、暴露すれば、統一教会内の信頼は、リーダー達に対しても、霊的役事に対しても、文鮮明師に対しても、失われる結果となったことでしょう。自分を守ることより、人を守ることを優先しなければならないのは私も同じでした。

私はすぐに文鮮明師が実子より弟子を愛することを実践しておられるのがわかりましたが、他の人たちがそのように理解しているとは思えませんでした。以下の文鮮明師のお話のように、「怨讐」を愛するが故の、文鮮明師の行動でした。

「サタンを自然屈伏させる秘法とは何でし ょうか。怨讐を自分の子女よりもっと愛する真の愛の力によってのみ、初めて可能となるのです。(平和メッセージ1)

その哲学を文鮮明師が実践する時に、「怨讐」であり、カインの子女である弟子は、選択がありました。一つは、自分を犠牲にしてアベルである実子を愛することにより実子を守る立場に立つこと、もう一つは実子を犠牲にして自分が愛されようとすることですそれは本当の選択、つまりは干渉されないで失敗しても言い訳のできない責任分担なのです。これに関して書けば長くなりますのであまり書きませんが、統一教会員にとって真剣に考えるべき内容なのです。

文顯進会長を見て私が学んだこと

この事件は、一言で私の十字架となりました。文顯進会長自身が苦しいのがわかる中で、自分が苦しいのを相談するわけにはいきませんでした。相談できない、会えない年月が始まりましたでも、それは私にとっての学びの年月でした。

誰にも相談できずに自分で勝利しなければならないのは、難しい道です。最初は劉正玉氏に怒りも沸きましした。でも、敵のような人でも愛さなければならないのを知っていました。

劉正玉氏の裏切りの後、日本のリーダー達は、文顯進会長が予定していた日本訪問はもうないと思っていました。ところが、文顯進会長は訪問したのみならず、その頃から笑顔、教会員の前でプレスリーなどの歌を歌い、踊るようになりました。何があったのか知っていた私には驚きでした。

統一教会の人たちは、リーダー達から文顯進会長に対する悪いイメージを吹き込まれるか、もしくは、自分でそのイメージを作り上げました。しかし、背中からナイフで刺されるような裏切りと子供を失う悲しみを乗り越え、笑顔で歌い踊って教会員を愛した人が他にいたでしょうか?それは、教会員の皆さんが、自分でできることでしょうか?

そういう極限状態の中では、善と悪を見失いやすいものです。しかし、文顯進会長は全く道を見失うことはありませんでした。

劉正玉氏の見本から幹部が学んだこと

弟子の実子に対する攻撃と、実子より弟子を愛するという文鮮明師の哲学の実践は、劉正玉氏を愛し、文顯進会長を叱責するだけで終わりませんでした。米国での第二次21日修練会に継続されました。郭錠煥先生の本、「事必帰正」の152ページにある内容からです。

まず米国統一教会会長の梁昌植氏が、文顯進会長に反発して感情的に壇上で抗議し、そして、米国統一教会の教区長の一人だったク・ベクチュン氏が「顯進ニムの教えはお父様と違う」と文鮮明師に訴えに行きました。

梁昌植氏が反発したのは、文顯進会長が「家庭連合の指導者の中には政治的な人が多い」と言ったからだそうです。でも、正直、文顯進会長が評する通り、「その通り」だったと私は思います。読者の皆様はいかがでしょうか?

また、日本の献金が少なくなれば、「日本からの献金が急激に少なくなったのは、顯進様の無理な人事異動のせい」だという言いがかり的な報告がされ、文鮮明師は文顯進会長を激しく叱責しました。そうこうするうちに、40歳、あるいは48歳以下の人に対する人事権は、文顯進会長から取り上げられたという話が入ってきました。

つまり、劉正玉氏から始まって、梁昌植氏、ク・ベクチュン氏と続く中で、どうすれば文顯進会長から権威を失わせることができるか、ということを幹部達は学んだのです。もちろん、これは文鮮明師が意図してやったことではありませんが、結果的に幹部達が学んだのです。

そして、このパターンが2001年以降繰り返されました。それを図で示したのが、以前から掲載している下の図です。

信徒の役割

一般社会から見れば、ここに書いたことは権力争いでしょうし、一般信徒から見れば、上の方の争いに見えるかもしれません。しかし、信徒がしてはならないのは、「人間的に見ること」のはずです。信徒が信徒たる所以は、霊的世界の観点を知ることができる立場にいるからです。

文顯進会長が「あなたが知っていることは誰にも言わずに自分の中に保管しておきなさい」と私に対して指示した頃、霊的サタン善霊のふりをしてやって来たことがあります。そんな時には聖句が武器でした。堕落論を何度も講義すると、「サタンは善だ」と弁護し始めたことから正体を暴き追い出すことができたことがあります

信徒というのは、他の人が理解できないことに対処する立場にあります。繰り返して書いている、アベルとカインの関係というのも、同じです。より中心的な立場にいればいるほど、それが厳格に適応されますが、世界の人たちが神様との関係を持つことができるようになるために、特別な役割をするということはあります。

その時に大切なのは、信徒が清めら者達であることです。文顯進会長が「家庭連合の指導者の中には政治的な人が多い」と言ったことに対して、梁昌植氏は激しく反発したそうですが、本当に政治的ではない人というのは、そのように言われたとしても、その言葉は、引っかかりなく素通りするはずです。

水清ければ魚棲まず」という言葉を何度か引用して来ましたが、文顯進会長と幹部達との葛藤は、霊感商法党派主義、利己心とプライド、お金と権力の問題を始めとして、統一教会全体が汚れた姿となっていたことが原因となっていると思われます。

そうではないと否定できるでしょうか?確か2000年頃と記憶しますが、文顯進会長と幹部達との葛藤が表面化する少し前、入籍修練会の始まる頃だったでしょうか?文鮮明師が「誰も入籍できない」と泣かれたことが伝わってきて、「吸血鬼のような者達がいる」と叱り、「公金横領と人権侵害をしてはならない」と強く指示していたではないでしょうか?

原理講論の中で、イエス様が「雲に乗ってこられる」と黙示録に予言されているのは、物質的な雲の意味ではなく、地上から汚れた水が浄化されて天に登って雲になるように、水で象徴される汚れた世界から浄化され、天に心のある、信仰の篤い信徒達を意味する、と書かれています。これは統一教会の信徒達にも当てはまることであるはずです。

実子と弟子の関係の中において、弟子は、浄化された雲のように、実子を守るべき存在だったはずです。実子は、人類全体が神様との親子関係を取り戻すための架け橋となる存在です。弟子は、汚れた水となって、実子を押し流すようなことをしてはならなかったのです。


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