※このシリーズは、教理研究院の動画、「『特別祝福式』の誤り」に関する率直な講評である。ここでは、先日、教理研究院が発表した動画「『特別祝福式』の誤り」を視聴した有志の寄稿文をシリーズで紹介する。

 

第三に、教理研究院が主張するのは、「祝福の権限は真の父母様だけの特権であり、顯進様にその権限はない」というものである。祝福とは、「神の真の血統」を人類に接ぎ木する恩賜をいうが、「血統は父母が子女だけに与え得る特権中の特権である」というお父様の御言をもって、「だから父母様だけが祝福を与えることができる」という。子ども騙しも甚だしい。教理の方々は「三大王権」という言葉すら忘れてしまったのだろうか?

人は夫婦となり、父母となって子女に血統を受け継がせる。では、子女は永遠に子女のままなのだろうか? そんなおかしな話はない。神は永続する愛の理想を打ち立てられた。神の愛は父母(夫婦)一代で終わるのではなく、子女を通して「生命」となり「血統」となって、次の世代へと受け継がれていく。子女もまた成長して夫婦となり、次の世代に愛と生命と血統を受け継がせていく「父母」となる。即ち、神の愛と生命と血統は、家庭(祖父母-父母-子女、または父母-子女-孫の三代)を通して、過去から現在、そして未来へと永続していくのである。それが三大王権であり、真の家庭の三代圏が意味するところではなかっただろうか?

祝福は父母様しかできない―。であれば、統一運動において、祝福は一代で終わってしまうだろう。我々はもともと、どう考えてきただろうか。祝福の権限は「真の子女様」が受け継いでいくもの―。そう考えて来なかっただろうか。それが、「教団内」に祝福の権限を都合よく代行させ得る子女様がいないからと言って―実際は自分たちが追放してしまったのであるが―原理そのものを覆してしまうつもりなのだろうか。

父母様は神の真の愛と生命と血統を出発する最初の起点となられた。誰もそのことを否定してはいない。ただ、原理が正しいならば、「真の父母」の立場は「受け継がれて」いかなければならない。「誰によって」だろうか? 言うまでもなく、「真の子女」によってである。

教理研究院はさらに、原理講論やお父様の御言を引用しながら、人類が祝福を通して接ぎ木されるべき「生命の木」「真のオリーブの木」とは、どこまでも「再臨のメシヤ」(=お父様)を指し、「真の父母」を意味するものだとして反駁している。しかし、このシリーズの冒頭で紹介した御言を今一度、読み返して頂きたい。そこには同時に、「生命の木」が「真の家庭」であり、我々はその「真の家庭」に接ぎ木されなければならないと言われているのが分かる。

「私は今日、人類最初の真の家庭の完成を、皆様の前で宣布することができたことを無上の光栄と思います。…私たちは家庭的次元で、聖書で述べている生命の木の中心の根(祖父母)、中心の幹(父母)、そして中心の芽(子女)を確立しました。皆様も真の家庭の血統に象徴的に接ぎ木されて、共に理想国家と理想世界建設のために、先頭に立ちましょう。」(1993.9.14)

教育研究院ともあろう方々が、組織擁護を優先するあまり、祝福の意義と価値の骨子すら分からなくなってしまったのだろうか?

お父様は祝福式を「神の真の愛と生命と血統の相続式である」と語られた。メシヤがどんなに偉大であろうと、祝福はアダム一人では出発し得ない。「真の愛」には相対、エバが必要だからである。しかし、「真の生命と血統」とは「夫婦」だけでは出発し得ない。愛は「子女」を通して生命となり、血統となって結実するからである。即ち、神が再び地上に出発しようとされた真の愛と生命と血統とは、正確には「家庭」を通して始まるのである。

言い換えれば、祝福とは、「真の父母」に始まり、「真の家庭」に宿った神の愛と生命と血統とを人類に受け継がせる儀式である。即ち、そこには「真の夫婦の実体」が必要であり、「真の家庭の実体」が必要である。それは極めて基本的な原理観であり、祝福の意義と価値の骨子ではないだろうか。

こうした観点で見るなら、真の家庭の基台が決壊している現状にあって、お父様が聖和された今、お母様お一人で祝福式を挙行されていることのほうが「本来的状態でない」ことに気付かないのだろうか? 本当に原理を理解しているなら、家庭連合はその現状を危惧し、真の家庭の子女が立つことを切望すべきであって、その可能性をもつ存在を必死に掻き消し、食口の前から抹消させて、一体、次の時代、「誰」に祝福の権限を受け継がせたいと考えているのだろうか?  

祝福は「お母様の傍らで忠実に侍った者たちに与えられる特権」などではない。或いは、360軒の名簿を買って「勝利した」と公認された家庭に与えられる「教会組織からの報奨」などでもない。天が与えるべき祝福の権限とその任命権を、自分たちにのみ帰属すると言わんばかりの教団の言い様は、あたかも、イエス・キリストが託した天国の鍵を教会にのみ存在すると喧伝し、人々に忠誠を誓わせ、従属を促した中世カトリック教会のようである。祝福を教会の専売特許のようにし、その在り方に異を唱える者には、「天国の救いの門が閉ざされる」とでも言いたいのだろうか?

顯進様は言われる。「祝福は万民に開かれた天の恩賜であり、全ての人に与えられた神の真の息子・娘になる機会である」と。祝福とは神から与わる恩賜である。その権限を受け継ぐ存在がいるとすれば、それは、本当の意味で、神の御旨に生き、真の家庭の伝統に立った、真の子女以外にないと、我々は思う。

最後に、お父様が過去、興進様に祝福の権限委譲を宣布された時に語られた内容を紹介してこのシリーズを終えようと思う。教理研究院は執拗なまでに「お父様が顯進様に祝福を許した経緯はない」と主張するが、彼らが下記の御言を知らないはずもないだろう。

八十の老人が世界を回りながら祝福できる時代は過ぎ去るのです。…アボジが息子の前に祝福の権限を相続してあげるのだということを知らなければなりません。…二世が父母様に代わって祝福してあげることのできる時代に入るのですが、霊界は兄である興進君が行うなら、地上では弟が行うのです。同じ立場から見れば、興進君がお兄さんで、顕進君が弟なのですから、弟にあたる顕進君が地上世界の皆さんを祝福してあげることもできるのです」(2000年9月24日、祝福委譲宣布式)


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