真のお父様はイエス様をアダム型人物として規定されている。「コリント前書15章45節にはイエス様を指して後のアダムまたは第2アダムとする内容が記録されている。[1]」そして、ご自身自らについて「第1アダムと第2アダムが失敗した全てを蕩減復帰して完成しなければならない第3アダム」として、アダム型人物として規定されている。 

このようにメシヤをアダム型人物に規定することは2つの意味がある。第1は神様が神様の息子として創造したアダムのように、メシヤはサタンが所有権を主張できない神様の種を持った息子(長子)として誕生した方だという意味だ。それゆえイエス様は自分を神様とは称さなかった。神様は父、自分は神様の息子、即ち人間だと言った。したがってメシヤをアダム型人物として規定することは、2番目にメシヤはアダム家庭が失敗したことを蕩減復帰して完成しなければならない5%の人間の責任分担がある方だということを意味する。

メシヤの使命

   メシヤは摂理を経綸される神様のみ旨に絶対的に整列し復帰されたアダム、即ち新しい人類祖先の立場でアダム家庭の失敗を勝利的に復帰し真の家庭を立てることによって神様の創造目的である神様を中心とした理想家庭を実現すべき使命を持っている。そして全ての人類を真の家庭に連結することによって彼らを救援しなければならない。このことについての真のお父様のみ言葉である。

“来られたメシヤは完成したアダムの資格で来られるので、先ず神様が絶対的基準で愛することができる真なる花嫁を迎え真の夫婦の位置まで進まなければなりません。…しかしメシヤの使命はそこで終わるのではありません。真の父母の位置まで、さらには絶対的真の家庭を探し立てなければなりません。この真の家庭を中心として神様の創造理想を完成した地上天国と天上天国を創建することができるのです。この目的の為に堕落の後裔である60億人類は誰もが例外なしにメシヤの真の家庭に接ぎ木されなければなりません。絶対的要件です。接ぎ木されなければなりません。そのままではだめなのです。心情的な接ぎ木は勿論、血統的な接ぎ木を受けなければなりません.”[2]

ところで今日の統一教会の食口たちはメシヤ的使命を持って来られた真のお父様を人間の責任分担の領域を超越した全知全能の神的存在だと信じ、こういう真のお父様のみ言葉と指示に無条件に従うことこそ真のお父様をメシヤとして信じる信仰人の真の姿勢だと考えている。統一教会の食口たちが明確に知るべき事実は、本人たちのこのような理解は決して真のお父様の教えでも原理的見解でもないという事実だ。それはイエス様を神格化し、その神格化されたイエス様を無条件に信じることによって天国へ行くというキリスト教信仰のフレームを借用し、イエス様の位置に真のお父様を置き換えた統一教会の指導者たちの作品である。

キリスト教初代教会のイエス様に対する理解に関する葛藤

キリスト教の初代教会ではメシヤであるイエス様についての理解に葛藤があった。先ず、人間や万物に対する神格化が普遍的だった当時、これを神聖の冒涜と見なして本来のユダヤ教の伝統に従ってイエス様を理解した人々がいた。即ちヤコブやマタイ・マルコ・ルカ福音の著者たちだ。彼らはイエス様をユダヤの王・神様の息子・人の息子と理解した。

しかしパウロと第4福音書(ヨハネ福音書)の著者は古代ギリシアの二分法的宇宙論に依拠して三位一体の神様を語り、地上にいる罪ある人間を救援する為に聖子が受肉化して地上に下りてきたので、それが正にイエス様だとして、イエス様を一般の人間とは違う次元の存在として神格化した。さらには処女懐胎されたイエス様、 彼の超人間的生活と肉体復活などを説破した。

イエス様に対するこのような相反する観点が対立する中、イエス様を神格化したパウロの理解がキリスト教の正統教理として定着し、その神格化されたイエス様を無条件に信じることによって救われて天国に行くというキリスト教の信仰が形成された。

その後、教会はキリストの体、聖職者はキリストを代身する権威者とし、イエス様を代身する教会と聖職者に絶対的権威が賦与された。信徒たちはイエス様を無条件に信じなければならず、したがってそのイエス様を代身した教会と聖職者も無条件に信じることが信仰人の基本姿勢になった。神格化されたイエス様に対する理解が教会と聖職者には絶対的権威を賦与し、従う信徒たちには無条件的信仰を要求する結果をもたらすようになったのである。

キリストのイエス様にする理解と信仰を正す為に努力し真のお父様

このようなキリスト教の教理と信仰について真のお父様はどのように語られたのか。『原理講論』の4章と7章に記述されているように、真のお父様はイエス様は神様自身ではなく[3]、神様の独生子(長子)であり、アダムの失敗を代身して神様の創造目的を実現しなければならない後のアダムであると教えられた[4]。したがってイエス様は十字架で殺される為に来たのではなく[5]、真の家庭を立て神様の創造目的を実現する為に来られて、そういう人生を送られたと語られた。しかし、イエス様がその使命を成すことができずに逝かれたので、再臨メシヤが来られて真の家庭を立て神様の創造目的を実現しなければならないと教えられた。そうすることによってイエス様に対するキリスト教の誤った理解を正し、彼らが正しく信仰できるように尽力してこられたのだ。

“イエス様は第2アダムとして神様を中心とした理想家庭のモデルを成就し、全ての人類を接ぎ木してあげなければならなかったのです.”[6]

“知ってみると、イエス様もこの地に降臨した目的が他にあったのではありませんでした。第2アダムとして来られたイエス様が十字架で命を失いさえしなかったなら、イエス様も堕落とは関係がない本然の天の血統を持って最初のアダムの失敗を復帰し人類の救世主として真の家庭を立てて、人類の故郷である平和理想世界王国、即ち地上天国をこの地上に創建していたはずです。…再臨の約束のみを残したまま忽然と影も形もなく去られたイエス様、その方の肉身は既に土になり消え去って久しいですが、天がイエス様を通じて成そうとされたそのみ旨は、今や歴史の終末期を迎え天の認可を受けて顕現された真の父母様を通じて完成されつつあるのです.”[7]

真のお父様はこのようなイエス様に対する正しい理解を土台に、イエス様を信じることによって救われるのではなく、イエス様の直系子女に接ぎ木されて真の家庭に連結されることによって救われるのだと教えられた。

“主イエスにはアダム家庭における3天使長と堕落した3人の息子のような位置にいる3人の息子がいなければなりません。そういう位置に立った人々がペテロとヤコブとヨハネでした。彼らは直接的な血統関係を持っていたのではありません。彼らは養子の立場にいました。養子である人々が主イエスの真の子女になる為には、イエスの真の子女に接ぎ木されなければなりません。彼らは主の子女たちを愛することによって、それらを通じて救いを受けることができるのです.”[8]

“救い主とはメシヤを言います。メシヤ思想に救い主という言葉がありますね。皆さん、キリスト教を信じる人々を見て誰を信じるのかと問うなら『イエスを信じる』と答えるのであって、『イエス様の家庭を信じる』と言いますか。…しかしこれからはそういう宗教が出てこなければなりません.”[9]

そしてイエス様を信じることによって「天国に行くこと」が信仰の目的ではなく、真の家庭が立てた先例に従い神様を中心とした理想家庭を実現することによって「天国を創ること」が信仰の目的だと教えてこられた。

“皆さんが天国に勝手気ままに行こうとして『信じる!』というのかも知れませんが、それはデタラメ中のデタラメです。信じれば救われるって…過去はそのように信じましたが、しかし信じれば救われるわけではありません.”[10]

“信仰の根本目的は自分が信じて天国に行くという信仰ではなく、家庭を救済しようという信仰をしなければなりません。民族を救済し、世界を救済して神様を解放させるという信仰、これが伝統的な信仰だと私は思います.”[11]

キリスト教教理を借用して真の父母様を神格化した統一教会の指導者たち

ところで逆説的にも統一教会の指導者たちは真のお父様がそのように正そうとしたキリスト教信仰のフレームをそのまま持ち込み、神格化されたイエス様の位置に真のお父様を立てて真のお父様を神格化した。

“お父様が夜の神様と昼の神様についての教えを通じてご自身の存在論的な啓示を下さることによって今や私たち統一教会とキリスト教の間に存在してきた教理的な遠い距離が確実に狭められました。…真のお父様は私たち人間たちのように昼の神様から出てこられた方ではなく、夜の神様・超越的な神様・時空間を超越する神様の本質から出てこられた方です.”[12]

そして、今やお母様までも神格化している。

“真のお母様は責任を完遂され、実体の神様の位置に上られた。真のお母様の完成の結果は正分合作用の完成を意味する。人類歴史以来初めて実体的三位一体が完成されたことを意味する。…神様と真のお父様と真のお母様は真のお母様の子宮で一つになる。三位一体を成した真の父母様は第1に『無所不在』(おられないところがない)であられる。米国におられる真の父母様は、同時に中央修練院に来られて教育を主管なさることができる。地上におられながら同時に霊界で役事なさることができる。2番目に全知全能であられる。真の父母様は願えば何でも知ることができる.”[13]

そして、真の父母様は神様という脈絡から真の父母様が摂理の中心であると祝福家庭たちに語ってきた。

“真の父母様は神様の実体でありながら摂理の中心です。摂理を語る時、その中心根源を真の父母様から探さなければならず、その基盤の上に食口たちに正しい摂理の意味を伝えなければなりません.”[14]

また彼らはメシヤの使命である真の家庭の形成を通じた創造目的の実現を否定し、メシヤの直系子女に接ぎ木されて真の家庭に連結されることによって救われるという原理的観点も無視したまま、真の父母様だけ信じて絶対服従すればよいという歪曲された信仰観を祝福家庭たちに教育してきた。

“皆さん、私たちの教会でこういう言葉を聞いたことでしょう。神様の創造目的は世界平和、理想世界を建設する為のものである。そうでなければ神様の創造目的は理想家庭を立てる為になさることだ。それは原理的な話ではありません。神様の創造目的は神様の愛の対象として完成されたアダムとエバ即ち真の父母様です.”[15]

“真のお母様は神様と真のお父様と三位一体となった。したがって真のお母様の指示・命令・決定・み言葉は神様と真のお父様の指示・命令・決定・み言葉だ。それゆえ全ての統一教会の祝福家庭は真のお母様の指示・命令・決定・み言葉に絶対服従しなければならない.”[16]

このように統一教会の指導者たちはメシヤの使命に対する原理的観点に正面から違反する視角を持って真の父母様を展望している。真のお父様がそれほどに正したいと願ってこられたキリスト教のイエス様に対する神格化を踏襲しているのだ。

真の父母様にする神格化がもたらした問題とその結果

真の父母様を神格化することがなぜ問題になるのか。真の父母様に対する神格化は真の父母様を高めるのではなく、寧ろ引き下す行為だ。堕落により神様と人間の間に存在すべき最も重要で根本的な関係が断絶された人類は、神様の前に立てるべき孝の道理に無知だった。堕落人類が犯した神様に対する親不孝の極致は自分たちの宗教指導者や王を神格化することによって神様と人間の根本関係に違反したことだった。

神様の息子として来られた真のお父様は神様に対する人類の親不孝を終結させ、神様と人間の根本関係に対する正しい先例を立てられた。神様を中心に侍る家庭を立て、その家庭を基盤に国を建て、人類皆が神様と真の愛・真の生命・真の血統の親密な父子関係を回復することができる道を開いた方だ。ところが統一教会の指導者たちは、こういう真の父母様を神格化することによって歴史の中で人類が神様の前に犯した驕慢をそのまま恣にしているのである。これは神様のみ旨ではなく、真のお父様が生涯を通じて残しておかれた遺業とは何の関係もない。

そうであるならば、なぜ統一教会の指導者たちは真のお父様がそれほどに解体しようとされたキリスト教信仰のフレームを盗用し真の父母様を神格化したのか。彼らの意図は真の父母様のみ言葉や指示自体を絶対化し、食口たちは彼に無条件に従わなければならないという前提を作って真の父母様が立てた指導者である自分たちにも食口たちが絶対的に服従し従わなければならないという意識を植え付けようとしたのだ。彼らはこのような邪悪な意図を持ったまま今やお母様を独生女として神格化し、お母様に全ての力と権限を集中させている。お母様が聖和されれば、いわゆる天一国最高委員会という機構を先頭に立てて、お母様に集中させたその力と権限を根こそぎ独占できるようにする為だ。自称「天一国憲法」体制が正にそれである。

現統一教団は数年間にわたり真の神の日を無視したまま真の父母様聖誕日を中心に派手な年初行事を進行している。これは神様に対する不敬を犯し、神様のみ旨の為に真なる親孝行の先例を立てられた真のお父様のメシヤ的使命を否定することに他ならない。

真のお父様に対する神格化と変質した絶対化によって別の被害者たちが続出しているが、これは「偽の2代王」に従う人々だ。亨進氏は統一教会に責任を持っていた時期に「真のお父様は人間ではなく生きた神様」と主張し、そういう真のお父様の前に祝福家庭は「奴隷になって無条件に従わなければならない」と説教した[17]。彼はそれ以後、統一教会の分派であるサンクチュアリ教会を作り、自分を真のお父様の代身者であり相続者だと語りながら祝福家庭を惑わすなど、まるで偽キリストのような立場を取っている。彼は食口たちが真のお父様に絶対的に従ったように、これからはその代身者・相続者である自分に絶対的に従わなければならないと主張する。亨進氏は、姜氏という新しい真のお母様の登場・武器を先頭立たせた鉄杖牧会・王冠と銃を購入して参加しなければならない祝福式など…これら全ての常識を逸脱した詐欺劇に、祝福家庭の信仰習慣の中で神格化され盲目的に絶対化された真のお父様を利用している。自分の意志と目的の為に神様の摂理と真のお父様のメシヤ的使命を否定する邪悪な行為を続けているのだ。一部の純粋な祝福家庭がそうした亨進氏に騙されて彼に従っている。

祝福家庭とは如何なる家庭か。祝福家庭は単に統一教会の信徒を称するのではない。真の父母様を絶対者・神的存在として崇拜する似非宗教の信徒を称するものでもない。祝福家庭とは神様を中心に侍る家庭である。そしてこれは窮極的に人類全てが持つべきアイデンティティである。祝福家庭は神様を家庭の中心として侍りながら全人類の前に実存する神様を証す生きた証人にならなければならない。これが正に真のお父様の生涯の教えである。 祝福家庭が統一教会の指導者が作った真の父母様神格化の足かせを脱ぎ捨て、真のお父様の真正な生涯、人間の責任分担を果たして神様を中心とした人生を送られたその生涯を正しく眺める時に初めて状況は変わり得る。真のお父様は第3次アダムとして神様のみ旨にアラインし、汗と涙と血を流して責任分担を完遂する為に生きてこられた方であることを明確に理解しなければならない。そして真のお父様が立てたその先例に従い、祝福家庭も各自の責任を果たして神様の摂理に貢献する神様の息子娘となるべきである。


[1] 『祝福と理想家庭』 p. 145.

[2] 『み言葉選集』 478巻 p. 285、2004年 12月 2日.

[3] 『原理講論』 pp. 229-231.

[4] 『祝福と理想家庭』 p. 125; 『み言葉選集』 9巻 p. 138、1960年 5月 1日.

[5] 『原理講論』 pp. 155-160.

[6] 『平和神経』 16章.

[7] 『平和神経』 3章.

[8] 『み言葉選集』 52巻 p. 129, 1971年 12月 26日.

[9] 『祝福と理想家庭』 p. 209.

[10] 『み言葉選集』 68巻 p. 146, 1973年 7月 29日.

[11] 『み言葉選集』 10巻 p. 167. 1960年 9月 25日.

[12] 文亨進, 天福宮説教, 2012年 1月 29日.

[13] 呉澤龍, 『統一世界』 2010年 6月号、 pp. 71-7; 2010年 6月 6日 天福宮説教の内容.

[14] 朱東文, 「顯進様に送る書信」、2011年 12月 3日.

[15] 文亨進, 天福宮説教、2011年 1月 9日.

[16] 呉澤龍, 天福宮説教、2010年 6月 6日.

[17] 文亨進,2011年 7月 31日 説教.

カテゴリー: 原理的観点

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