3)そもそも祝福とは何か ―神の家庭理想の相続か?救いの儀式か?

祝福―神の愛と生命と血統の伝授式

祝福は「真の父母」だけの権限であり、「真の父母」に接ぎ木されることを言うのだ―。一貫した主張を貫きたいのは分かる。しかし、前回と同じ御言を同じように引用しながら、変わらない主張を繰り返すだけなら、それを「議論」とは言わない。原理を信じる者であるなら、原理観をもって「議論」に応じて頂きたい。

祝福をただ「真の父母が与えるもの」としか見つめようとしない教理研究院の一面的な見解に対し、こちらが最初に提示したのは、他の項目同様、そもそも「祝福とは何か」という原理観からの反論であった。祝福とは、原理的に言えば、「神の愛と生命と血統とを人類に受け継がせていく伝授式」に他ならない。このことは、御言を引用するまでもないだろう。

「祝福式は愛の伝授式です」(2005年8月18日)

「祝福は血筋を転換することです。神の愛と神の生命と神の血統を受け継がせてあげることです」(1992年01月26日)『還故郷と新しい国の統一』

「だから、来たる主は何をもって来るのかというと、真の愛をもってくるのです。真の愛と真の生命と真の血統の種をもってくるのです。堕落前のアダムは真の愛と真の生命と子どもの種が一つとなって、神様の愛の結婚式を伝授しなければならないのですが、これが断たれてしまったのです。」(1992年4月13日)『完成時代の蕩減復帰』

真の父母が祝福を与えうる理由

原理的観点からみる時、そもそも「真の父母が祝福を行うことができる理由」とは、「神の愛と生命と血統を探し立てた」という点にあり、そう言える根拠は、どこまでも「神中心の家庭を打ち立てた」という一点にあった。「夫婦」とならない限り「神の愛」は出発できず、「子女」をもたない限り、その愛が「生命・血統」として結実することはないからである。即ち、神―父母(夫婦)―子女からなる「家庭」(=神から見て三代)が立って初めて、それが神の愛・生命・血統の定着点となり、全人類に広がり行く「根」となり「種」となる。この最初の家庭(三代)を失ったのが堕落であり、これを復帰しようというのが祝福の摂理だった。

「祝福とは何かというのです。3代圏を失ってしまいました、3代圏。これを知らなければなりません。」(2002年01月26日)『自主国勝利圏時代と再創造の道』

3代が一つになってこそ四位基台が完成するのですが、3代の基盤を失ってしまったのです。神様の真の愛、真の生命、真の血統を中心とした3代が堕落によってありません。(中略)神様には3代にあたり、アダムには2代にあたる、このような3代が連結されてこそ家庭が成り立つのです。(中略)アダムとエバの息子・娘から多くの息子・娘が出てくるため、ここから四方に広がっていくのです。それが種のようになるのです。」(2001年09月27日)『私たちと私の国』

「メシヤであるイエスを送り、血統的に汚れた全てを、神様の真の愛と真の生命と真の血統の定着した一つの家庭を立てて、その家庭が真のオリーブの木となり、野生のオリーブの木の畑であるこの世界、サタンが主管する世界を半分以上切って、天のオリーブの木に接木できる畑を作るために……天が苦労してきたことを、統一家の祝福を受けている子女たちははっきり知っています。」(2005年8月1日:4億双6次 国際合同祝福結婚式におけるお父様の祝祷)

家庭的基台の必要性

こうした原理観から見る時、祝福とは「真の父母だけ」(夫婦だけ)でなく「真の家庭」(家庭的基台)を備えて初めて与え得るものであることが分かる。神を中心とした家庭が神の愛と生命と血統の源泉となり、「種」となるからである。お父様が真の家庭を「生命の木」「真のオリーブの木」と表現され、「人類は真の家庭に接ぎ木されなければならない」と語られたのも、こうした理由であろう。

教理研究院はこの点に対し、あくまでこう反駁する、「ここでいう(接ぎ木されるべき)真の家庭とは真の父母様のことである」と。なぜ物事を一面的にしか捉えられないのだろうか?「真の家庭」という概念の中に(その核心に)「真の父母」が含まれるのは当然であろう。誰もそのことを否定してなどいない。ただ、祝福には「家庭的基台が必要だ」と言っているのである。

そもそも「真の父母」という概念が既に「子女」や「家庭」を前提としたものであることに気付かないのだろうか? 私はこれまで、家庭をもたず、子女をもたない立場で、「私は父母である」と語る人物に出会ったことなどない。「真の子女」なく、「真の家庭」の基台なくして、「真の父母」の立場など存在するのだろうか?「真の父母に接ぎ木されなければならない」という時点で、それは既に「子女や家庭の基台が前提となっている」のである。

「メシヤは完成したアダムの資格で来られたため、まず神様が絶対的な基準で愛することのできる真なる新婦を迎え、真なる夫婦の位置まで進まなければなりません。……しかし、メシヤの使命はそこで終わるのではありません真の父母の位置まで進み、絶対的真の家庭を探し立てなければなりません。この真の家庭を中心として、神の創造理想を完成した地上天国と天上天国を創建することができるのです。この目的のために、堕落の後裔である60億人類はその誰も例外なく、メシヤの真の家庭に接ぎ木されなければなりません。絶対的要件です。」

(2004年12月2日)『第2回モンゴル斑点同族世界平和連合世界大会晩餐会』

真の家庭なくして祝福はない

一度、論点を整理しよう。まずは誰も、父母様が勝利して来られたことを否定してなどいない。父母様なくして真の家庭はなく、父母様なくして真の愛・生命・血統は出発し得なかった。それを否定しているかのように言われる覚えはない。

前回、こちらが提起した反論は、極めてシンプルに、原理的観点(三代圏家庭理想の観点)から見る時、①真の父母の立場と使命(=祝福を含む)とは当然、真の子女によって受け継がれていかなければならないということであり、逆に、②真のお父様なく、真の家庭の基台が崩れている中、お母様お一人で祝福を行われていることのほうが本来的状態ではない、という指摘だった。

前者については、一つ前の「長子」の項目でも触れたため、ここでまた繰り返したいとは思わない。また、後者について、教理研究院は「真の家庭の基台が決壊している事実はない」と回答しているが、本気でそう述べているのであれば、もはやそれ以上、この点について議論することはないだろう。

ただ、一つだけ言わせて頂く。真の家庭の現状を見つめながら心を痛める信徒たちの思いが、あなた方には届いていないのだろうか?見たいように見、聞きたいように聞き、信じたいように信じることのほうがよっぽど楽であるに違いない。しかし、現状を見据えることをやめ、多くの信徒たちの苦悩や葛藤に寄り添おうともしないなら、「真実」は何も見えてこないだろう。現状から目を背けようと、尤もらしい理屈をこねようと、「真の家庭の基台なくして祝福は行えない」というのが原理から見た明白な基準なのである。

3代圏復帰、それが祝福です。一度言ってみてください。(3代圏復帰!)祝福は3代圏からです、3代。神様の家庭です、家庭。」(2001年11月23日)『天宙平和統一国と神様の3代圏』

「神様とイエス様と真の父母様にとって一番貴く大切なものが祝福家庭です。祝福家庭を作ることです。そのために真の父母がこの地に来て真の家庭を成しました。この真の家庭は創世以来、全人類とも代えることができない貴い価値をもちます。」(2001年8月30日)『祝福中心家庭が行く道』※「家庭連合時代の主要儀式と宣布式Ⅳ」の訓読より

祝福と霊的救いとの違い

また、祝福というのは「家庭」以前に「夫婦」で共に行うものであろう。お父様が地上におられない今、尚、お母様がお一人で祝福を続けていることの正当性について、教理研究院は「イエス様の霊的救い」になぞらえて説明している。曰く、イエス様が昇天され、霊界に行かれた後も、パンとぶどう酒による「聖餐式」をもって霊的救いが続いてきたように、お父様が霊界に行かれた後も、真の父母による祝福の恩恵は同じように続くのだ、と。原理の根本的な捉え違いをしているのではないだろうか?

まず「霊的救い」とは、そもそもイエス様が「霊界に行かれてから」与えられたものである。「聖霊降臨」として知られる「イエスと聖霊による霊的重生」とは、イエス様の昇天「後」に起こってきた事件であった。それと祝福とを比較すること自体が誤りであろう。原理的に見るなら、地上で神の愛・生命・血統を出発し得る「家庭」の実体を築くことができない中、イエス様は象徴的な形ででも、弟子たちを「血肉」のつながった兄弟・家族に立てようとされた―、それがパンとぶどう酒を分かち合った最後の晩餐での出来事であろう。

人々が地上に実体をもたないイエス様への「信仰」を通して、神につながっていったものが霊的救いなら、「地上」にあって真の父母と真の家庭の「実体」を通し、「愛と生命と血統」を通して、神に真の子女として直結していくものが祝福である。イエス・キリストが再臨されなければならなかった理由は即ち、地上に「家庭」という実体的基台を立てるためであり、その「家庭」を通して人々を神の愛・生命・血統につなぎ、神の理想世界を実体化せしめるためであった。それが「霊肉ともの救い」ではなかったか? 祝福が霊的救いと異なるのは、地上に「実体」があるということであり、お父様がイエス様と異なるのは、地上に真の愛と生命と血統の種を残したこと、神の創造理想世界の起点となる中心的基盤を築いたことであろう。

「堕落しなかったなら、アダム・エバが夫婦として完成し、神を中心として、真の愛を中心として、人類の真の父母となり真の生命と真の血統の種を植えなければならないに、それを植えることができなかったのです。それを蕩減復帰しようとすれば、イエスが独身生活をしてはならないのです。(1994年1月1日)『真の父母と成約時代定着』

「イエス様の願いは何でしたか。結婚することでした。この話を既成教会の人々が知れば驚きのあまりひっくり返ることでしょう。(中略)そのようにして、神様を中心とした直系の血統の家系をつくることが創造目的でした。」(祝福と理想家庭、第2章1節「2.イエス様と祝福」)

「イエス様自身が神様の真の愛を中心とした家庭の伝統を立てられなかったために、神様が喜び、全人類と万物が喜ぶことのできる中心的基盤を築くことができなかったのです。神様の愛を基礎とした一つの家庭が築けなかったために、神様の愛を基本とした真の氏族の基盤が築けなかったのであり、真の民族的基盤、国家的基盤が築けなかったのであり、真の一つの世界が築けなかったのです。」(同上、「3.本来のイエス様」)

祝福は単なる救いの儀式ではない

真の夫婦、真の父母、真の家庭という実体がなく、ただ「祝福を受ける」ことで罪から贖われると信じているだけなら、従来の「霊的救い」と何ら変わらないだろう。信仰の対象とサクラメント(宗教上の儀式)が変わっただけに過ぎない。真の家庭とは本来、神の愛と生命と血統が息づき、神の臨在が感じられる、実体的なモデル理想家庭を言うのではなかったのだろうか? 祝福とは、そうした神中心の家庭につながっていくことで高められ、感化され、真の息子(娘)、真の兄(姉)、真の父(母)のモデルを見出いし、我々自身がそうした家庭的伝統と文化とを受け継いだ「真の家庭」になるという、ダイナミックな神の摂理ではなかっただろうか?

この紙面で、顯進様が説かれる祝福観を代弁しようとは思わない。しかし、これまでの原理と御言をもってして十分に、そして明白に分かることは、祝福は真の家庭の実体に結実した神の愛と生命と血統とを相続し、我々自身が真の家庭理想を受け継いだ家庭(真の家庭の拡大家庭)になることを言うのであり、それは単なるセオリー(理論)でもコンセプト(概念)でもなく、神の実体的な摂理だということである。

地上にあって真の家庭の実体をもたない限り、お母様でもお一人で祝福を与える立場に立たれることはできない―。それが原理からみた結論であろう。本来、お父様が聖和された時点で、祝福権は次の世代に、子女様の夫婦・家庭に受け継がれるべきだった。もし真の家庭に今、神を中心として三代圏家庭を築き、父母様から祝福権を相続し得る子女様が立っていないのだとすれば、真の家庭はもはや、天の祝福を与え続ける立場には立ち得ないだろう。家庭連合が真の父母・真の家庭の「実体」をもたないまま、祝福式を行い続けると言うのであれば、それはもはや原理の語る祝福なのではなく、家庭連合という一宗教団体の新たなサクラメント(救いの儀式)でしかないと言わざるを得ない。

では、地上にお父様亡き今、誰が天の祝福権を相続し得るのだろうか?この点については、次回掘り下げて述べてみたいと思う。(つづく)

カテゴリー: 未分類

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。