山は自分で登らないといけない

読者の皆さんは、「もしもお父様が『後継者はこの人だ』と、はっきりと発表してくれていたなら良かったのに」と思うことはないでしょうか?あるいは、文鮮明師が「この人が後継者だ」と言っている言葉を探すことはないでしょうか?または、見つけたと思ったら、ただ盲信してしまうことはないでしょうか?

あるいは、父と母は同格であるという人間的な考え方から、韓鶴子夫人が後継者であると信じ込んで疑わなかったり、または、戴冠式か何かの儀式から文亨進氏を後継者であると信じたり、文鮮明師が夫人を賛美して持ち上げた言葉から、韓鶴子夫人が後継者であると信じて疑わないことはないでしょうか?

申し訳ないですが、信仰の道がそんなに簡単であるとは思いません。なぜなら、人間の責任分担という原理があるからです。例えて言えば、山は自分で登らないといけなくて、ロープウエイのようなもので登ることはできません

アダム的人物が現れる時は人間が責任分担を果たす時

以前から書いている通り、この統一運動の混乱は、第4アダムというアダム的人物に関して、文鮮明師が語り始めた時から始まりました。文鮮明師の教えを学んだ人なら、イエス様もアダム的人物であり、その時にも混乱があったのを知っているはずです。それは人間の責任分担という原理があったからです。

当時、アダム的人物であるイエス様と洗礼ヨハネはアベルとカインの関係にありました。しかし、原理講論のアダム家庭の教訓にあるように、アベルとカインがどのように献祭すべきかに関しては、神様は教えることができません。なぜなら、カインがアベルを通して献祭するというのは、彼らの責任分担に当たるものだからです。

ユダヤ教の中心的位置にいて、カインである洗礼ヨハネは、神様の御霊が鳩のように下り、「これは私の愛する子、私の心にかなうものである」と言う天の声を聞きました。

当時のユダヤ社会において、「愛する子」とは、神様から愛された人という意味になり、文鮮明師の教えを学んだ人たちのように、血統的な子の意味には解釈されなかったはずです。洗礼ヨハネは、「この人がメシアだ」と言われたのではなかったけれども、自分で悟るべき立場にいたことになります。しかし、一度は信じても疑った、つまり責任分担を果たせなかったのです。

文鮮明師は、イエス様は第2アダムで、御自身が第3アダムであると教えました。文鮮明師が1945年に宣教を始めた時に、カインの立場にいたキリスト教のリーダーがどのような啓示を受けたのか、それは本人に聞かなければわからないことですが、アベルとカインがどのように献祭すべきかに関しては、神様は教えることができない原理からして、その人自身が自分の責任で解明し信仰しなければならない立場にあったはずです。

同じように、文鮮明師が第4アダムという言葉を語るようになった当時、その第4アダムに対してカインの立場に立った人たちがいました。それが、旧統一教会の幹部です。その人たちが、第4アダムとは文顯進会長だと悟るに十分なお話を文鮮明師がしたかと言えば、しました。1998年の家庭連合副会長の時のお話は、第4アダムのお話でした。

しかし、文鮮明師は「顯進が第4アダムだ」という言い方はしなかったし、文顯進会長も「私が第4アダムだ」とは、当時言いませんでした。真のアベルとして立った文顯進会長に対する、カインの責任分担は、カインが果たさなければならない原理があるからです。

ごく最近になって文顯進会長が第4アダムとは自分のことだと言うようになったのは、カインが完全に失敗したので、新しい摂理を出発する時代に入っているからです。

後継者とは神様の御旨を引き継ぐ人

後継者とは教会という組織を相続する人ではありません。後継者は組織を相続する人だという理解は、この世の組織の相続者に対する考え方です。

神様の御旨の中における相続者とは、神様の御旨におけるアダム的人物の権威と責任を相続する人です。ゆえに、その人物に祝福の権威があり、他の人にはありませんし、その後継者はアダム的人物に課せられた責任を担って、御旨を成就するのです。

そして、そのアダム的人物にカイン的人物が対する時に、カインが自分で何をどうすべきか悟る責任分担があるのは繰り返されるはずです。

洗礼ヨハネが獄中からイエス様に質問して、「来るべき方はあなたなのですか」と尋ねました。

でもイエス様が「私だ」と答えたとは聖書にありません。イエス様は、盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである。」と答えました。

つまり、「私のしていることを見て悟れ」ということです。

同じ意味のことを、文顯進会長を語ることがあります。「You shall know me by my work (私のしている事を通して、あなた達は知るであろう)」という言葉です。

前回書いた文章の中で、「儀式か中身か」と尋ねました。同じことです。中身、つまり、実践、業績、人格、です。文顯進会長の業績、人格、実践などがどれほど素晴らしいかを知るには、自分で努力する必要があります。つまり、そこには、カインの責任分担があります。

罠から出るためのハシゴ

旧統一教会の幹部達は、教会員が「この人が後継者だ」という言葉とか、戴冠式とかに頼って信仰するのを知っているので、文鮮明師がそのようにしてくれるように様々な策動をしました。また、都合が悪い相手、例えば文顯進会長に対して、文鮮明師が叱責する場面を演出しました。

例えば、前回書いたように、多くの教会員は、文亨進氏を家庭連合会長にしたのは、文鮮明師であり、2009年1月の戴冠式は文亨進氏の戴冠式だと思ったのに、韓鶴子夫人は、自分が会長に任じたのであり、文亨進氏の戴冠式ではなかったと法廷で語ったというのは、この例です。

なぜこのようなことになったのかと言えば、戴冠式の時には、文顯進会長を追い落とすために、文亨進氏の戴冠式として演出する必要があったのに、後になってその演出が独生女信仰を広めるために邪魔になったからです。ゆえに、文亨進氏は怒り狂うようなこととなりました。

演出と真実は違うということです。多分、儀式に頼ったり、文鮮明師が「この人が後継者だ」と言った言葉を探すことに頼って、自分の道を決めようとするのなら、半永久的に罠のようなものに掛かったままになるかもしれません。

文顯進会長が4つの質問、つまり、「摂理の中心は誰か?」、「メシアの使命は何か?」、「真の父母と真の家庭の顕現は何を意味するか?」、「祝福家庭の責任は何か?」という質問を繰り返してするのも、罠から出るためには、罠から出るためのハシゴのような骨組みが必要だからでしょう

そのハシゴを登ろうとするのなら、摂理とは何か、御旨とは何かを、神様の観点から理解することから始めなければなりません。それは、堕落性を脱ぐための蕩減条件の1番目として、原理講論に書かれている道です。それは自分で努力して登る道です

旧統一教会は、先祖解怨式とか、献金をすれば救われるとか、強調するのも、信仰の近道への誘いのようなものと見ることができます。V I Pをお金で誘って参加してもらうのも、実績への近道です。また、「この人が後継者だ」と、中身も考えずに信じさせようとするのも、信仰への近道です。しかし、そうした近道は罠のようなもの、そうではないでしょうか?


より深く真実を知りたい方は、以下の動画を御覧ください。(概要欄の目次のリンクをクリックすると途中から見ることもできます)

統一運動の分裂の真相と神の摂理に生きる道 Part1

▶ 統一運動の分裂の真相と神の摂理に生きる道 Part2


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