当ブログの記事に入ったAさんのコメントを参考に、そこから見えてくる家庭連合の信仰観をシリーズで分析・指摘している。(Aさんのコメントはこちらの記事の下)
家庭連合では2009年のコンプライアンス宣言以降、物販での献金集めが難しくなり、ますます清平信仰へと傾いていった。そのせいか、Aさんのコメントからはしきりに霊界重視の表現が見受けられる。
また昨今の報道でも、母親が「清平を通して先祖供養をすることは家族のためにもなるのだ」と考え、家族の現実的な生活に必要な資金まで使い果たしてしまったという二世の証言が紹介されていた。母親にはまったく悪気はないようだが、家族には理解できないし、実際に生活が逼迫(破綻?)しているという。
しかしこのような霊界に対する認識は、本当に統一原理に則った信仰と言えるのだろうか。そのような献金行為によって本当に家族は救われるのだろうか。
清平での先祖解怨・祝福は2000年を過ぎた頃から活発化したが、当初から統一原理との整合性を疑問視する声があった。
統一原理では、たしかに霊界と地上界は互いに通じるようになっており、互いに関係し合っていると説明されている。霊界の現象が地上に現れるし、地上の現象が霊界に影響を与えるのである。
ところが霊感商法や清平役事においては、霊界と地上界の関係性がまるで一方通行のように認識されている。つまり「とにかく霊界を解放すれば、地上の問題が解決するのだ」という、統一原理とは異なる論法を使って、莫大な献金による利益を上げてきたのだが、それと引き換えに食口たちの地上(実生活)での努力の価値が矮小化されてきた。
具体的な事例として、食口が夫婦問題や子どもの問題で悩みを抱えていても、教会の指導者に相談すると、答えは必ず「清平に行きましょう」「先祖解怨しましょう」ということになる(心当たりのある食口は多い)。
しかし統一原理の教えではむしろ、地上に生きる私たちの具体的な生活を通して、家族や友人などの人間関係の中で善に生きること、奉仕して生きることを通してこそ、霊界の先祖など霊人たちがその恩恵を受けることを説明している(先祖供養に高額の献金をせよとは言っていない)。それは私たちの具体的な努力や「責任分担」を強調する教えであり、統一原理を学んだ人は、先祖供養もさることながら、実生活で人を愛する努力をするべきである。
例えば夫婦や親子、友人同士が難しい関係にある時、努力すべきはその人間関係に向き合い愛することである。怨讐をも愛することを通して人格的にも成長することができる。これが統一原理の教えであって、「献金をして霊界を解放することで、人間関係が良い方向に向かう」という教えはない。それは日本統一教会の中の食口間で受け継がれてきた教えではあったかも知れないが、実は統一原理の教えではないのだ。
こうした信仰のズレから、家庭連合の食口たちが霊界偏重になり、現実的な家庭内での努力を捨て去り、献金すれば解決するのだと献金にひた走る姿が、多くの「元二世信者」の声として聞かれるようになっている。すべての家庭がそうだったわけではないが、そのような家庭も多く生み出してしまった事実がある。
特に、ある時から完全に逸脱してしまった清平信仰の影響が大きいように思う。上述のコンプライアンス宣言以降、家庭連合では、献金全体に占める先祖解怨・祝福献金の割合が大きくなっているようだが、それに伴い、食口の思考も現実を離れ、霊界にばかり意識が向いている。
教会で20年近くそういう話ばかり聴いているのだから、自然とそうなってしまうのだろう。清平の話を何度も繰り返し聴く一方で、『原理講論』を繰り返し読む食口は、特に婦人たちにおいては少ない。
Aさんのコメントの中にも「私は、霊的にお母様はイエス様と全く同じような真っ白い光を感じます。」という書き出しに始まり、「霊界のわからない私たちがとやかく言える問題では無いと思うからです。」など、霊界重視(現実は無視)の信仰観が見て取れる。現実に起きている事柄を直視して自ら考えようとするところがない。『原理講論』では霊的な感覚に頼って信仰生活を送ることの危険性にも言及されている。
「反対する人々は霊界が分からないから反対するのだ」「霊界を分かっておられるお母様が指導されているのだから、私たちは黙ってついていけば良いのだ」。そんな風に韓鶴子女史を神格化したり、霊界のせいにばかりしていたら、現実問題を全く考えなくなってしまう。
霊界にいかなければ何もわからないのであれば、私たちは地上生活の間は何も分からないということになる。心霊的に未成熟であれば何も判断してはならないと言うのであれば、真理は無用のものになる。私たちは地上にいる間に善悪の判断ができるように、真理を学んだのではなかったか。
そして真理に基づき、私たちは正しい家庭を築いたのか、正しい組織を築いてきたのか、正しい運動を行ってきたのかを、省みる必要がある。世間からの評価を通してもまた、多くを知ることができる。そして不足があれば謙虚に反省をし、向上するように努める必要がある。つまりは自浄作用である。人間にも組織にも成長期間があるべきなのに、家庭連合は真の父母に従っているという一点で、最初からすべてが正しく完成しているかのような幻想を抱いている。
現実の祝福家庭、家庭連合組織、統一運動にはたくさんの問題がある。それらが良いものであれば、社会から感謝され評価されるはずだが、実際にはたくさんの非難と指摘を受けている。それなのに、「祝福を授かったから、お母様に従って生きたから、たぶん霊界ではハッピー」というのはあり得ないと思うが、いかがであろうか?むしろ地上生活でのすべての讒訴(個人として、組織として)を突きつけられ、そこで初めて現実を知るようになるのではないだろうか?
「霊界重視という名の現実無視」が、家庭連合を正統な統一原理の教えから大きく逸脱させ、自浄作用を失わせている。
0件のコメント