石像除幕式からはや1ヶ月が過ぎました。
天の父母様聖会でも、独生女中心の二つの石像に当惑を隠せない食口もいます。
一方で長年訓練された「アベル的発想転換」によって、「全然ありじゃん!」と瞬時に切り替えをした食口もいます。
食口共同体で「模範的な捉え方」を奨励される中で、「カイン的な私が悪いのかも・・・」と適応しようとしてはいないでしょうか。
私はこれまで教団に残る食口が、「霊界のお父様と地上のお母様が一体」であることを心の支えにしていると考えていました。
しかし独生女石像によって「そうではなかった」と示されたにも関わらず、食口共同体に大きな混乱はありませんでした。
「遂に教団崩壊か?」という外野の期待を尻目に、大規模人事異動で新体制を構築しているようです。
信出様と信興様という直系子女の擁立に成功したことで、「顯進様、國進様、亨進様の排除」を完璧にやり遂げたのです。
この状況で私が何を叫んでも、「お母様の素晴らしさを理解できない残念な人たち」という色眼鏡でしか見られないことが良く分かりました。
既に独生女は、「霊界のお父様と一体」という権威付けを必要とはしていません。
「再臨主の妻」という権威付けが不要になったということは、遺言である八大教材教本も存在意義がないのです。
膨大なアボジのみ言葉など訓読することなく、父母経や平和の母、単純明快な独生女のメッセージを訓読すれば良いのですから。
教理研究院の懸念を他所に、食口はみ言葉との整合性に無頓着でした。
「お父様が原罪あり、お母様が原罪なし、別にそれで良いんじゃない?」「お母様はお父様とは『違ったかたち』で、神の栄光を示しておられるのだ!」というアベル的な発想転換ができるからこそ、数十年この道に残ることができたのでしょう。
そもそも独生女は、はじめからアボジの威光に頼る気持ちなどありませんでした。
幹部が忖度して「お父様の奥様」扱いすることに、苛立ちを隠さなかったのではないでしょうか。
キリスト教が待ち望んだ独生女の方がずっと価値があるのに、いつまで「お父様のオマケ」扱いされないといけないのか、と。
ユンヨンホのように生前のアボジへの未練を断ち切った幹部だけが、用いられたのです。
「お父様とお母様の、お前はどちらを選ぶのだ?」と問い詰められて、「もちろんお母様です!」と即答できる者だけが。
そこで「お父様と一体になられたお母様です!」などと逃げ道を探した瞬間に、下心を見抜かれて地雷を踏むのです。
「独りで生きていく女」をメシアと信じる方に、問い掛けたいことがあります。
そもそもあなたはどのような経緯で信仰を持ち、なぜ祝福を受けたのでしょうか。
アボジの教えでは天国とは夫婦二人で入るところであり、子どもと孫の三世代が一緒にいることも条件でした。
独生女がそれほど素晴らしいとしても、夫の遺言を軽視すれば息子の怒りを買うのは当然ではないでしょうか。
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