昨年6月から、脳梗塞により暫く入院生活をされておられた櫻井節子夫人が、先月から改めて、「祝福家庭に真実を伝えなければ…」と、ラジオ放送を再開されました。

これまで公けに語って来なかった内容についても、今後はっきり伝えていきたいとのこと。教会の草創期の歴史を誰よりも詳しく知り、初代原理講として長年祝福家庭の指導に当たり、お父様に近く侍って来られた立場からのメッセージに、是非、耳を傾けてください。

ここでは、「今、祝福家庭に伝えたいこと」というシリーズで語られている櫻井夫人のラジオ放送の内容を、文字で書き起こし、紹介していきます。

【櫻井節子夫人のラジオ】(今伝えたいこと①)

今のオモニに従うことが本当にオモニのためなのか

(12月7日配信)

(以下、本文)

※小見出しや下線部分等は別途、編集したものです

皆様、こんにちわ、櫻井節子です。この間、また少々時間が空いてしまいましたね。まだ病院からは読み書きを控えるように言われていますが、この大切な時期、今の深刻な状況を、食口の皆様がどうご覧になっておられるのか、気になって、やっぱりお話させて頂こうと思いました。

本来、このラジオは、ただ思うところを自由に語りながら、皆様と交流する場として始めましたが、今回からは改めて、今、私が皆様方と一番語り合いたいと思う内容を、幾つか取り上げて、順番にお話させて頂きたいと思います。

今回まずお話したいことは、「今のお母様に付き従うことが、本当にお母様のためになるのだろうか」という内容についてです。

もしお父様がおられたなら

私は生涯、父母様を慕って参りました。その思いは、今でも全く変わりありません。にもかかわらず、私が今のお母様、韓ハクジャ・オモニに付き従うことができない理由は何だとお思いになりますか? それは、今のオモニに従うことが、決してオモニを愛することでも、侍ることでも、守ることでもない、と、はっきりそう考えているからです。

原理をよく分かっている人であれば、今、オモニが語っておられることが原理的ではない、ということ、お父様が語って来られたこととは違う、ということを、「はっきり」分かっているはずです。原理講師であるなら、自らの信仰を捨て、矜持を捨て、「独生女論」を受け入れ、それを正当化しようとしていることを「恥ずかしく」考えるべきでしょう。本当の孝子なら、「お母様、それは原理と違います!」と申し上げるべきではないでしょうか?

また、「お母様を愛することがお父様を愛することなのだ」と言われる方々もおられます。しかし、お父様がもし今、地上におられたとしたら、今のオモニの語られている内容を聞かれて、「そうだ!」と頷かれると、本気でそうお思いになりますか? 「先生がいつこんなことを教えたか!!」と厳しく叱責されるのは、「火を見るよりも明らか」なことでしょう。お父様は御旨の方であり、原理のお方でいらっしゃるからです。

先生と別の道に行こうとしている!

実際、晩年のお父様がオモニを度々、叱責しておられたことは、神山先生のみならず、訓読会に参加された多くの人々が見聞きしてきたことでした。実は私、当時、訓読会に参加された方たちや、時には牧会者の方々、また、海洋修練会に参加した婦人たちから、何度か深刻な相談を受けたことがありました。

お父様がお母様を非常に問題視されながら、「お母様は先生と今、別の道に行こうとしている!」「オモニは勝手だ、勝手だ!」と、何度も激怒して語られた、というのです。それをどう解釈すればよいのか、といった相談をたくさん受けました。

私は当時、それでも、「様々な背景があるに違いないので、早急に、浅はかに判断するのは良くない」と伝えましたが、お父様の聖和後、オモニが直接、「独生女」の話をされるようになったのを知り、事の深刻さを感じざるを得ませんでした。

私を崇めて生きなさい

私が「独生女」のお話を、オモニから直にお聞きしたのは、2015年の暮れ、日本のリーダーたちと古い先輩家庭とを招かれた「クリスマス集会」の席でした。その日のオモニはとてもお綺麗で、赤いトゥーピースをお召しになり、「古い皆さん方がどうしているのか、いつも気にしていましたよ」と優しく語りかけながら、皆、温かい気持ちに包まれました。が、しかし、その語られる内容たるや、驚きを禁じ得ませんでした

2000年の歴史は独生女を迎えるためにあった。私は幼い頃から他の一般人とは違う存在であることに気付いていたけれど、誰にも言わなかった。元老たちや36家庭、誰も理解できるはずがないので黙って忍耐してきた。しかし、今や時が来たのでこうした話をしている。私は御言についても、誰に教えられなくとも自ら分かり、悟って成長した。独り子が独り娘を教育したなどという事実はない―。

静かな口調ながら、はっきりとお話されました。かつてのお母様は、口を開けば、涙ながらにお父様の証しをなさいました。しかし、その日のお母様は、イエス様のお話はなさいましたが、お父様についてのお話は一言もありませんでした。そして最後の一言が「6000年目にして生まれた独り娘と、同世代に生きている皆さん方は最高に幸福な人々だ。なら、独り娘である私を崇めて生きなさい」という御言だったのです。

私はびっくりしてしまいました。私たちはこれまで、一度たりとも、お父様の口から、「自分を崇めよ」などという言葉を聞いたことがなかったからです。「天宙復帰が終わったら、先生は野原で裸で大の字になって寝てみたいよ」と、素朴に語っておられたお父様でした。

お父様のお話すら聞かれないのに…

私はそれ以前から、韓国の36家庭の先生方などと親しく交流しながら、オモニのことで心を痛めている、といったお話を聞いていました。しかし、それは単に「お父様を懐かしむ思い」からであって、「お父様がおられない今、私たちがオモニの支えにならなくてはいけないじゃないか」とそう思ってきました。しかし、オモニの姿に触れ、そのお話を直接、聞くようになってから、初めて、その深刻さに気付かされたのです。

教会の指導者たちは言います。「今、特に韓国の先輩家庭がオモニに付き従えない理由は、お父様ばかり見つめてきたからである」と。しかし、そうではありません。韓国の先輩家庭が今のオモニに違和感を覚えるのは、お父様の御言に、より多く触れてきたからであり、同時に、かつてのオモニの本来のお姿をよくよく知っておられるからです。

難しい原理の話をするまでもなく、かつてのオモニの姿を熟知している人であればあるほど、今、韓ハクジャ・オモニが本来のお母様の姿ではない! ということに、霊的・直感的に気付いておられるでしょう。

私はその頃、普段から近しく交流してきた36家庭の先生、御言の権威者と言われるその方に、「先生からお母様にお話して頂くことはできないのでしょうか。独生女の話は、お父様の御言とは全く違うではありませんか」と何度も申し上げました。すると、先生は悩ましいお顔で、私にこう言われました。「そのことは、もう既に数回申し上げてきた。しかし、お父様のお話すら聞かれないお母様が、私の話を聞かれると思いますか?」。そうおっしゃいました。

私たちの責任ではないだろうか

思い起こせば、かつてお父様は、こう言われたことがありました。「カインとアベル、祝福家庭と真の子女が一つになれなければ、真の子女たちが犠牲になり、お母様にも問題が生じかねない」と。こういう御言を、私は直接聞いたことがあります。

かつてお父様が基元節を迎えられず、真の家庭の課題を整理されないまま聖和された時、「ああ、私たち祝福家庭が真の家庭を守り切れなかったからだ」と、深い悔い改めの思いを抱きました。が、同様に、「ああ、オモニにこうした深刻な課題が生じてしまったのは、すべて祝福家庭の責任なのだ」と、そう強く思わずにはいられませんでした。

私はこういった問題を、日本の責任者にも何度も話してきましたが、「お母様と一つにならなければならない」の一点張り。「お父様を絶対的に信じたように、お母様を絶対的に信じて付いていくべきだ」という言葉ばかりでした。お父様とお母様の御言がこれほどまでに食い違っていることにもかかわらず、その方はあくまでも、そう言い放つのです

その一方で、食口たちに対しては、問題となり得るオモニの御言の箇所をことごとく隠蔽し、カット・編集した御言を伝えながら、「お父様とお母様は一つである」と強調してきました。それは食口たちを騙し、同時に、お母様をも欺く行為ではないでしょうか

オモニから独生女の話を聞きながら、そこに違和感を覚えながら、「オモニ、その通りです」と拍手喝采をしている指導者たちの姿を見ながら、この方々は本当に父母様を支えていこうとしているのだろうか、と、深刻にならざるを得ませんでした。

祝福家庭の果たすべき責任とは

考えてみれば、年老いた私にしても、力の及ばない大きな問題を前に、ただ黙って一人、信仰生活をしていたほうが、よっぽど気楽でした。「オモニを信じて付いていこう」と考えるほうが、よっぽど安泰な道でした。仮にそうしていたならば、教会責任者から「退会」を迫られることもなかったことでしょう。

しかし、それは原理を捨て、お父様を蔑ろにし、全ての責任をオモニに負わせることになるではないか、と思われ、断食をし、敬拝を捧げ、祈れば祈るほど、オモニの問題から目を背け、自分が信じたいように信ずることは、祝福家庭の果たすべき責任でも、孝子の道でもない、と思われてならなかったのです。

それはオモニがどうこうではなく、私たち祝福家庭がオモニの立つ基盤を築けなかったからだ、と思ったのです。私が最初に、「祝福家庭に対する書簡」を出したのは、こうした背景からでした。今からちょうど4年前のことです。

すべては神の導きだった

当時、私はまだ顯進様のことを十分に分かってはいませんでした。オモニに深刻な課題が生じている今、お父様の願いに立つことのできる「最後の可能性」が顯進様ではなかろうか、という次元でしかありませんでした。

しかし、神様はそんな私の手を引き、背中を強く押し出してくださったのです。今、振り返って思うことは、あの時の決断は間違っていなかった、ということ。そして、すべては神様の守りと導きであった、という一言に尽きます。

皆様も是非、もう一度、真剣に考えてみてください。今のお母様に付き従うことが、本当にお母様のためなのか、それともただ、自分自身の身の安泰のため、或いは、教会の中で問題視され、疎外されるのが怖いからなのか―。しかし、それと御旨と、どちらがより大切なことでしょうか

皆様方お一人一人が、真実に立ち返って、直接、神様によって導かれますよう、心からお祈りしながら、今日はこの辺で終わりたいと思います。続きはまた、次回、お話させて頂きます。今日はありがとうございました。


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