教理研究院から、法廷記録に関する質問への回答は得られませんでした。
一方で真のお父様のみ言と異なる主張をする顯進様は、「第4アダム」ではないという新たな記事が公開されています。
公開討論は継続しているとのことですから、教理研究院の批判に反駁します。

真のお父様のみ言を根拠とすることが、私たちの信仰の基本中の基本であり、真の父母様のみ言にないことを述べてはならない、というのが教理研究院の姿勢です。なぜなら、真の父母様に侍り信じて歩んでいくことが、歴史的勝利者になるための唯一の道であるからです。

教理研究院が指摘したように、「第4アダムは顯進様である」と任命されたみ言葉の記録は存在しません。

引用の間違いを有耶無耶にする意図はありませんでしたが、「有志の会はお父様のみ言葉を軽視している」という誤解は解かなければなりません。

ここでは我々がこれまでもこれからもみ言葉を生命視している事実を紹介したいと思います。

 

赤天聖経が出版されたタイミングで、郭先生は事態の深刻さを理解され、過去のみ言葉を遡って保存する指示を出されました。

同時にみ言葉と思想の研究所を設立され、成約時代から基元節までの摂理がどのようになっているか、み言葉に沿って研究することを指示されました。

 

この行動が何を意味していたか、時間が経過したいまなら理解できます。

基元節を前に聖和されたアボジは完成期の聖婚式を挙行なさることができず、「中断なき前進」を掲げた祝福家庭が目撃したものは、独生女戴冠式と見まがうかのような基元節でした。

「お父様とお母様は一つ」、「お母様の指示はお父様の指示」、と指導された食口においては、この段階でそれほど違和感はなかったかもしれません。

しかし基元節前のみ言葉を遡って研究すると、聖婚式が蘇生、長成、完成の三段階で完成しなければならない摂理的要請、基元節に聖婚式を挙行するために韓鶴子女史と約束を交わされた事実が次々に明らかとなりました。

アボジが聖和直前に「最終一体の真の父母宣布」をされたため、韓鶴子女史が完成した真の母として公認されたように理解する公職者が多いです。

しかしその宣布が無条件の勝利であれば、独生女思想や原罪認識、石像除幕式のように、理解できない出来事を説明できないのではないでしょうか。

「科学的である」とは、設定した前提で現象を説明できなくなったとき、その前提に間違いがなかったか再検討する姿勢を意味します

「最終一体は未だ完了していない」という可能性を受け入れると、これら全ての出来事を矛盾なく説明できるのです。

そして人間の責任分担という創造原理を鑑みれば、その可能性を議論することは荒唐無稽でも不信仰でもありません。

 

教理研究院の批判に戻ると、1997年9月11日の「第4次アダム圏時代」のみ言葉は「顯進様を第4アダムとして任命した宣布」ではありませんでした。

しかしこの日イーストガーデンにおられた真の子女様はこの宣布に同席しており、真の子女様が祝福家庭の模範として、第4アダムの責任を果たすよう期待されたことが伺えます。

第4次アダム圏に関するみ言葉を読むと、第3次アダムの勝利圏によって全ての祝福家庭が担うべき責任であることが理解できます。

 

顯進様が自らをFourth Adamと呼ばれる場合、アボジに宣布された宗教権威として自分に跪くことを要求されているのではありません。

第3次アダムである再臨主の勝利に感謝し、地上天国建設を出発する決意の現れとしてこの呼称を使われるのです。

サンクチュアリ教会は「王冠を被った二代王」の宗教権威として亨進様を奉りますが、そもそも第4アダムは「無条件で後継者となれる宗教権威」ではありません。

「私が第4アダムとして責任を果たす」と決意される真の子女様に対して、一体何の権威でもって「あなたにその資格はない」と讒訴できるのでしょうか。

 

ここで韓鶴子女史を擁護する読者は、こんな疑問を抱かれるかもしれません。

「お母様の責任分担云々を言及するのなら、顯進様はどうなんだ?」と。

私自身も顯進様を支持する一人として、その指摘を軽視してはいけないと考えています。

現段階で顯進様に責任分担不履行があるとすれば、韓鶴子女史と國進様、亨進様から長子権復帰できていないことに尽きます。

しかしそれは未来永劫そうだというのではなく、真の家庭を諦めないという強い決意によって、必ず成就されると信じています。

 

教理研究院が「み言葉を絶対視」というとき、人間の責任分担という創造原理が考慮されていません

「み言葉のここに書いてある」を絶対根拠にすると、韓鶴子女史、顯進様、亨進様の全員に正当性が与えられてしまい、エンドレス神学論争に明け暮れることになるでしょう。

 

アボジのみ言葉は、自分の主張に正当性を与えるために恣意的に利用するものではありません。

膨大なみ言葉を読み込んで摂理の大局観を掴み取り、人間の責任分担がどのように与えられているかを理解して実践するものです。

 

カトリック教徒が聖母マリアの過ちを死んでも認めないように、真の母の責任分担が未達成だったという可能性など考えたくもないことでしょう。

霊界で聖母マリアがイエス様に申し訳ない気持ちを精算できないように、韓鶴子女史が霊界に旅立つ日に大変な間違いを犯していたことに気付かれるはずです。

2013年の基元節に完成期聖婚式が挙行されなかった意味を、祈り求めて頂きたいのです。


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