櫻井節子夫人のラジオ放送、「今、祝福家庭に伝えたいこと」シリーズの第6弾になります。

家庭連合はこれまで、一方的な偏向報道をもって顯進様の真実を歪曲し、誤った虚像を作り出してきました。また、真相を確かめようと、顯進様側の集会に参加しようものなら、それを問題視し、威圧し、糾弾してきました。

しかし櫻井夫人は、リーダーの言うことではなく、神様の霊的導きにしたがって、ご自分の目で真実を見究めようとされたのです。

すべてを失う覚悟でお会いした顯進様はどのようなお方であったのか。櫻井夫人が語られる内容をご視聴ください。

【櫻井節子夫人のラジオ】(今伝えたいこと⑥)

オモニを本当に思っているのは誰なのか

(4月4日発信)

(以下、本文) ※小見出しや下線部分等は別途、編集したものです

ただ従って行くべきが子女の道?

皆様、こんにちは、櫻井節子です。麗らかな春の気候になりましたね。お元気にお過ごしでしょうか。

前回私は、教会が長らく伏せてきた「オモニの独生女信仰」の根本的な問題点についてお話しました。即ち、「オモニは今、お父様ではなく、ご自分を中心とした信仰観・摂理観をもっておられる」という悲痛な現実について触れました。

かの「オモニの法廷証言」の記事が挙がったのは、その収録直後のことです。皆さんも既に目にされたことでしょう。

私のところにも驚きの声が寄せられました。皆、「お母様がそんな考えをもたれるはずがない!」と信じてきた訳ですから、驚きを禁じ得なかったのでしょう。しかし、私はもう驚きませんでした。事実はいつか明るみに出ざるを得ないと思っていたからです。

ただ―、本部の教理メンバーがそうした事実を知っても尚、深刻な現状から目を背け、目の前で起こっている課題と真摯に向き合おうとしていないことに、ただただ歯がゆさを覚えるばかりです。神様の前に恐れを知る者であるなら、もうこれ以上、真実を隠蔽したり、歪曲しないで頂きたい、と思うのです。

中には、「たとえオモニが間違っているとしても、親なのだから、支えて従って行くのが子女の道理じゃないか」と言われる方々もいます。あるリーダーは、「親が狂えば、子も共に狂えばいい」といった御言まで引っ張り出して説明していました。

では、親が死に至る病に陥ったなら、自分も共に病にかかって床に臥すのが子女の道理なのでしょうか? 親が溺れていたなら一緒に溺れよう、と言うのでしょうか?

私はそうは思いません。いえ、共に病にかかる覚悟、溺れる覚悟だけでもあったなら、今のオモニの問題を「傍観」し続けることなどできないでしょう

私たちがもつべき子女の道理とは何なのでしょうか? 今回は「オモニを本当に思っているのは誰なのか」というテーマでお話してみたいと思います。

言い渡された謹慎と議論の場

2016年11月、全国に書簡を発信した門で、私は会長から「謹慎」を言い渡されました。本部としては「穏便な対応」だったのかもしれませんが、「何も語るな、誰とも話すな」という訳ですから、ただ黙って応ずることはできませんでした。

そもそも問題を感じなかったなら、私は声を上げる必要などなかったのです! 責任ある方々がこの問題と真剣に向き合い、事実を精査し、解決する努力をしてくださるのであれば、私などが渦中に飛び込もうなどとは、決して思わなかったでしょう。

私が「こうした深刻な問題を前に、沈黙していることなどできない」と回答した時、会長からはこう言われました。「なら、講師や教理担当の者だけを集め、自由に議論できる場を作るから、それ以外では一切発言しないでほしい」と。

それはある意味、私の口を塞ぐための方便だったのでしょう。しかし、私自身、誰彼かまわず話したいと思っていた訳ではありませんでした。それこそ、信仰の幼い兄弟たちを混乱させたくもなかったので、「教理のメンバーと話し合えるならば」と、その提案を受け入れたのでした。

許されたのは月1度の会合だけでしたが、それでも、新たな可能性を見出したように思えました。

自分の目で確かめてみるべきじゃないか

その頃のことです。2017年1月、顯進様を支持する下の息子から、「顯進様が韓国で神の日の行事を行うので、母さんも是非参加して欲しい」という知らせを受けました。当初、私はようやく、教会内でこの件について話し合う機会を得たばかり。それを棒に振ってまで、集会に参加しようなどとは思いませんでした。

しかし、今回は特に、顯進様自らが沈黙を破り、全世界のリーダーたち、特に二世指導者、並びに私たち国家メシヤに向け、参加を呼びかけていると知らされた時、それをただ、現状の組織論だけで無視してしまっていいのだろうか、と思わされました

国家メシヤは、本質的には、「日本組織」に属している訳ではありません。いえ、全祝福家庭は教会組織の一員である前に、真の家庭の兄弟であり家族なのです

また、下の息子から「顯進様しか可能性がないと思うなら、自分の目で確かめてみるべきじゃないか。確信がないまま誰かと議論したところで現状が変わるのか、御旨の方向性を判断できるのか」と問われた時、改めて考えさせられたのです。

当時の私は、顯進様のことを、本当の意味では何も分かっていませんでした。90年代以降、私は南米や中東の地で活動しており、それこそ、顯進様との接点がなかったからです。オモニの現状や統一運動の未来を思った時、これを打開できるのは顯進様しかいないと期待していたものの、顯進様を全面的に理解していた訳でも、肯定していた訳でもありませんでした

たとえ顯進様が正しかったとしても、「それでも、オモニに寄り添うべきじゃないか」「今一歩、お父様の心情を理解しておられていないんじゃないか」などと、自分なりのイメージをもって顯進様を見つめていました

よく言えば、「中立」の立場。でも、もし本当に神様の御心が顯進様と共にあるなら、どんな犠牲を払ってでも、その方を支えるべきであろうし、そうでないなら、それこそ、どの立場にも加担せず、静かに祈って時を待つ他ありません。

苦悩と祈りの日々

再度、苦悩の日々が始まりました。集会参加を責任者たちが黙って見過ごすはずもなければ、心ある方々の理解を得ようにも時間がなさ過ぎました。

また、同居中の上の息子は本部の役員であって、私の行動は彼の立場に直、影響を及ぼします。彼は私よりも顯進様の心情や事情をよく知り、前々から心を痛めていましたが、人一倍、教会愛の強い人でした。

下の息子は今の時の重要性と顯進様の心情を訴え、上の息子は教会の状況や食口の思い、父母様への思いから意見を発し、我が家は常に議論の場となりました。しかし、神様の御旨と父母様を思う一点においては、みんな同じだったように思います

私もまた、断食をし、敬拝を捧げ、どうすることが天の願いなのかを切実に祈り求める日々が続きました。そうした中、結論だけを言うなら、私はこの時、あらゆる反対を押しのけ、全てを失う覚悟で、韓国に行くことを決めたのです

会長との激論を越えて

当然、本部でも問題になり、最後は会長が「絶対に行かせまい」として直接駆けつけ、渡韓前夜、駅前のレストランで、3時間半にわたる激論を交わすこととなりました。

「お父様が顯進様に会うなと言われた」「お母様と一つにならなければならない」と繰り返し言われましたが、過去、この課題を解決するために、身を挺してお父様に進言されてきた訳でもなく、オモニの現状の課題に目を向けようともしないまま、ただ「父母様に従えばいい」というその言葉に、心が動くはずもありませんでした

また、「顯進様はお父様に背いたんだ」「自己の位置を離れたんだ」という言葉にも、何の説得力もありませんでした。なぜなら、会長ご本人はその間、顯進様と一度もお会いしていないのです。

「私はただ見てくると言っているんです。そして見聞きした全てを100%ご報告すると言っているのに、何が問題だと言うのですか?」と問うと、会長は「会ったら霊的に主管される」というのです。

私は過去、あらゆる信仰問題、分派問題に対応してきた立場であって、一度たりとも、自らが霊的に巻かれたことなどありませんでした。「会ったら誰もが感化される」、その言葉はもう、顯進様側に「真実」があることを恐れているかのようにしか見えませんでした

また、あの時、私の思いが全く揺らがなかったのは、深く祈る中、私を押し出す神様の霊的な導きを強く実感していたからでしょう。

ただ一点、韓国に発ちながら、「私は今回のことで全てを失うのだ…」と思われ、そこまでしないと子女様に会いに行くことすら許されない、このような現状が切なく、胸が締め付けられるような思いでした。

しかし、韓国での滞在期間、それはたったの3日間でしたが、私はそこで、溢れんばかりの霊的恩恵を受けたのです。

背倫の息子か、孝子か

顯進様が語られる言葉には「霊的力」がみなぎり、その内容は見事なまでに「原理的」でした。「その通りだ!」と、内なる魂が叫び、喜び、呼応しているようでした。渇いた大地に水が染み込むように、その言葉がスッと心に沁み込んでいくのを感じました。

そして何よりも、私はそこで初めて顯進様の心情世界に触れたのです。

話がサンクチュアリに行かれた姜賢實先生のことに及んだ時、顯進様は「父母様とあれほど長く共におられた方が、こんなにも簡単にお母様を見捨てられるのか、真の家庭を捨てられるのか」と言われ、泣かれました。そして、「私はお母様を諦めない、私は真の家庭を諦めない」と語られるお姿に、私は顯進様の真実を見る思いがしました。

教会内では何年もの間、父母様を離れた放蕩息子、背倫の息子として打たれてきた顯進様です。しかし、私が見たのは、神様を愛し、お父様を愛し、誰よりもオモニの現状を痛み、責任を感じておられる孝子のお姿でした。

それは「お父様に従わねばならない」「お母様をお支えしなければならい」と語る、どの責任者とも比べ物にならないほど熱く、また深い愛情に満ちたお姿でした。

顯進様を支持する理由

私は思います。今、オモニのことを誰よりも愛し、その課題を含めて、共に責任を担っていこうとされているのは顯進様です。父母様への絶対信仰を唱えている教会の責任者たちでもなければ、オモニから愛され、役職に立てられている指導者たちでもありません。

私が今、顯進様を支持している理由は、ただ「原理的に正しいから」だけではありません。誰よりも神様を愛し、御旨を愛し、そして、「父母様を愛していらっしゃる」と実感したからです。この時の感動については、次回また、もう少し触れたいと思います。

いずれにせよ、真実を知ろうとも、会いに行こうともせず、遠目から批評し、糾弾している人の言葉を聞いて判断するのではなく、リスクを負ってでも集会に足を運び、直接、顯進様の言葉に触れ、人柄に触れ、深い心情世界に触れた者たちの言葉に耳を傾けてください

皆さんの多くが、顯進様の真実に気付いてくださることを心から願いながら、今日はこの辺で終えようと思います。ありがとうございました。


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