「一つになって欲しい」。それは、統一運動の分裂に胸を痛める多くの食口たちが抱いている思いであろう。
しかし一方で、教団はこれまで、「一つにならなければならない」「分裂してはならない」という名分のもと、真実を追求し、教団の在り方に異を唱える者たちを糾弾し、排斥してきたのが事実である。
周囲に抗い、「真実の声」を上げることは、果たして分裂を引き起こすことであり、天の願いに反することなのだろうか?
「善悪闘争」をテーマに訴える櫻井夫人のラジオ、「今、伝えたいことシリーズ」第8弾をご視聴いただきたい。
尚、参考までに、櫻井夫人がラジオで触れている「善悪闘争」に関する統一思想のくだりを添付してみた。併せてご参照いただきたい。
【櫻井節子夫人のラジオ】(今伝えたいこと⑧)
義のために迫害される者たちは幸いである!
(9月22日発信)
(以下、本文) ※小見出しや下線部分等は別途、編集したもの。
一つにならなければならない!?
皆さん、こんにちは。櫻井節子です。語りたいことはたくさんあるのですが、整理するには時間がかかりますね。前回からまた暫く、時間が経ってしまいましたが、思うところをお話してみたいと思います。
さて、前回私は「顯進様は決してお父様を離れていない」というお話をしました。「離れた」と言うなら、それはお父様から離れたのではなく、お父様の伝統から逸脱している教会グループから離れたのです。
ある人々は言います。「どんな理由があろうと、それでも分かれてはいけなかった。『分裂』は御心ではないのだ」と。また、ある人々は、今の状況に心を痛めながらこう言われます。「一つにならなければならない。そのためには、それぞれの主張や言い分をいったん下ろして、『愛』で一つになることが大切なんじゃないか」と。
顯進様の歩みに共感し、真実に気付いた方々の中でも、現状に留まり、行動を起こせないのは、「分裂してはいけない」「和を乱してはならない」「一つにならなければならない」という思いからなのではないでしょうか?
そのお気持ちは分からなくありません。しかし、もし全体が、本当に、神様の願いから離れ、原理と摂理の道から外れて行こうとしているのがはっきり分かったとしたなら、皆さんはそれでも、「全体に歩調を合わせなければならない」「和を乱してはいけない」と、本当にそう思われるのですか?
「愛で一つにならねばならない」と言われる方々に尋ねます。問題から目を背け、真実を語らず、ただ周囲に同調しようとする事と、たとえ波風が立とうとも、問題と向き合い、真実を伝え、兄弟たちに危機的状況を気付かせようとする事と、どちらが本当に「兄弟姉妹を愛すること」なのでしょうか?また、どちらが「神様を愛すること」なのでしょうか?
今日、私が取り上げたいテーマは「善悪闘争」ということです。それは決して望ましいことではありませんが、原理を知り、復帰摂理を学んだ私たちにおいては、避けて通ることのできない課題だと思うのです。
真実を語りたいなら退会せよ
さて、私は前回、2017年に参加した韓国での集会に続き、フィリピンでの大会に参加してきたお話をしました。教会時代、私も数々の国際会議や大規模な集会に参加してきましたが、フィリピンにおいて、メインスピーカーである顯進様が、各界の名士たちと親しく打ち解けられ、共に談笑し合う自然な姿や、ゲストがもはやゲストではなく、オーナーとして会議に参加している様子。また、1万名の青年たちを前に熱く語られ、会場を沸かせる顯進様の堂々たる姿を見つめながら、体中に力がみなぎり、希望に湧き立ち、心が躍りました。
何よりも、私はそこで、お父様の遺志が、顯進様の中に確固たる形をもって受け継がれていることに、無上の喜びと深い感謝、感動を覚えたのです。私の中にはもはや、「顯進様はお父様から離れた」などという疑念の思いは、微塵も残りませんでした。
そうしてフィリピンから戻り、会長に報告に伺った時のことです。会長からは、「顯進様を追いかけるのは、もうこれで終わりにして欲しい」と言われました。しかし、私は答えて言いました。「私が顯進様のことを学ぶのは、これからです」と。するとまた、こうも言われました。「顯進様のことは一切周りに話さないように」。しかし、私には、そんなことを約束することはできませんでした。
考えてみてください。真実でもないことが真実のように言われ、教会史上、最も迫害されてきた方の「真実の姿」を知ったのです。その間、「放蕩息子」のように断罪され、「背倫の息子」として糾弾されてきたその方が、父母様を思って涙し、お父様の御旨を必死に受け継いで立っておられる姿を、この目で見てきたのです!
それまで、責任ある立場にある者の誰一人、顯進様の本当の姿を知らずに来ました。そうした中、辛うじて真実を知らされた私が、それまで通り、教会が顯進様を批判し糾弾するのを、ただ黙って見過ごすことなどできるでしょうか?
顯進様の真実を見て見ぬフリなどできない、そう伝えた時、会長からはこう言われました。「それなら、櫻井夫人には退会してもらいたい」。でなければ、「除名するしかない」と。
会長と私たちの家庭は、本当に親しい間柄でした。そのため、こうしたことは公けにしてきませんでしたが、私は多くの方々が思っておられるように、「自ら進んで教会を出た」訳ではありません。私に退会を迫ったのは会長でした。
教会を離れるという決断
私は教会を築いてきた者の一人です。草創期、何もないところから数名の兄弟姉妹と共に出発し、全生涯を、教会と共に生きてきました。私にどうして「教会を離れる」等という選択ができるでしょうか?
食口たちは皆、実の兄弟姉妹、家族同然です。兄弟だからこそ真実を伝えなければならない、家族だからこそ気付かせなければならない―、それが私の思いでした。
何よりも、お父様のもとを去ってしまったと思っていた顯進様が、実際はそうではなく、生きて、堂々と御旨の道を歩み、お父様の遺志を受け継いでおられたのです! この事実は、どれほど多くの祝福家庭に希望を与えることでしょうか。しかし、それは教会のスタンスに背くことであって、やりたいなら「外でやってくれ」と言うお話なのです。
数日間、眠れぬ夜を過ごしました。お父様と共に過ごした教会です。自らの足で出ていくと思うと、胸が締め付けられる思いでした。しかし、祈れば祈るほど、ただ黙っていることが天の御心だとは思えませんでした。
そうして数日かけ、私は自らの手で、教会生活の思い出を綴り、感謝をしたため、退会届を出しました。しかし、それは翌日、「櫻井夫人・脱会」という公文となって全国に伝えられることになりました。その文面を見た時、本当に様々な思いが湧きました。しかし、それでも、もう振り返る訳にはいきませんでした。
真実を伝えること、原理と摂理に忠実であること、神の御旨に生きること。これが私の到達した答えだったからです。
「善悪闘争」が引き起こされる理由
復帰摂理には、様々な「善悪闘争」の歴史が記されています。中世教会が誤った方向に突き進んで行った時、神様は「善悪分立の摂理」をなされ、ルターに始まる宗教改革の流れが起こりました。
当時の教会からしてみれば、彼らは「分派」であったに違いありません。中世教会のリーダーたちは恐らく、こう言ったことでしょう。「一つにならなければならない」「分裂してはいけない」「全体の和を乱していけない」…。
善悪闘争はなぜ起こるのでしょうか。原理や統一思想を学んだ方ならご存知でしょう。サタンの勢力が猛威を揮い、神願わざる状況に陥った時、神様はその状況をそのまま放置なさらず、必ずカインとアベルに分立し、摂理を進めて来られました。
言い換えるなら、全体が神の摂理から離れていこうとする時、神様は摂理の方向を守るために、その摂理に応じようとするアベル圏、「一握りの善の群れ」を立てられるのです!
歴史を見た時、アベル圏は常に「少数派」であり、「打たれる側」でした。しかし、彼らがそれでも闘いを中断できなかったのは「神様の摂理ゆえ」でした。誤った全体の流れに逆行し、神様の摂理を立てなければならなかったからです。即ち、善悪闘争とは「神の摂理ゆえ」に生ずるのです。
善主権のもとであれば、分裂も闘争も不要でしょう。しかし、悪主権の中で善を立てようとすれば、そこに善悪闘争が起こってくるのです。
イエス様は言われました。「地上に平和をもたらすために、私が来たと思うな。平和ではなく、剣を投げ込むために来たのだ」と。これは即ち、善悪闘争について語られたものと取れるでしょう。
義のために迫害される者
皆様がかつて入教を決めた時、献身を決意した時、神様を信じない人々に神様のことを伝えようとした時、周りはそれを歓迎してくれたでしょうか? 皆さんがたとえ一時、周囲との間に不和が生じたとしても、それでも御旨を伝えようとし、御旨の道を決意したのは、分裂したかったからでしょうか? 闘争したかったからでしょうか? それは「神様の御旨ゆえ」であったはずです。
顯進様が教会の方向性と袂を分かったのも、分裂したかったからでははく、闘争したかったからでもありません。それは神の御旨、原理と摂理ゆえです!皆様はかつて原理を知った時、周囲からの批判や迫害を怖れず、神の御旨に生きることを決断された方々です。その出発点を、もう一度、思い出してください。
皆さんは今、何を怖れているのでしょうか? 静かな日常が失われることでしょうか? 周りから白い目で見られることでしょうか? 教会から締め出されることでしょうか? 不安になる気持ちは分からなくはありません。しかし、神様を知り、原理を知った者たちであるなら、逆に、神様の御旨を忘れ、神様の摂理から目を背けてしまうことのほうを怖れるべきではないでしょうか?
イエス様はこう言われました。「義のために迫害されてきた人たちは幸いである。天国は彼らのものである」
善と悪とに分かれる時代
義とは何でしょうか? 善とは何でしょうか? 原理では、善悪は「神の摂理の方向性」に一致するかどうかによって決まる、と記されています。であれば、その神の摂理とは何でしょうか? それは創造目的であり、四位基台の実現であり、三代圏からなる「真の家庭」なのではないでしょうか?
現状をはっきり見てください。今、私たちが支え、守るべき真の家庭はどこにあるのでしょうか? 誰が未来に続く真の家庭の伝統を守ろうとし、誰がそれを崩そうとしているのでしょうか?
今、教会は「真の家庭理想」を打ち消し、「真の家庭の実体」を攻撃し、破壊しようとする側に立っています。日本教会は顯進様に対し、一方的な決めつけをもって、長年にわたる訴訟を続けてきた原告です。
皆さんが自覚するしないにかかわらず、もう既に、全ての食口がこの闘争の真っただ中に巻き込まれているのです。皆さんはどちらの側に立つのでしょうか?
神の復帰歴史、善悪闘争の歴史は、単に御言の中だけの出来事ではありません。善悪分立の摂理は今、私たちの目の前で起こって来ている現実なのです。私たちの今の歩みは、神様の摂理の中にあって、善と悪、どちらの側にあるのでしょうか?
皆さん一人一人が今一度、自らの立たされている位置と立場を自覚し、御言に立ち返り、迫害を怖れず、真実、義、善の道に立たれることを願いながら、今日はここで終わろうと思います。ありがとうございました。
【参考資料】
統一思想要綱
≪善悪闘争が起こる理由≫
「神が世界を善の側と悪の側に分立された目的は、悪の側が善の側に屈服することによって、悪の側をも救って神の側に復帰するためであった。したがって、この両陣営の闘争は神の摂理により、最後には善の側が勝利するようになっていたのであり、また実際にそうなったのである。」(p488)
「大体において、古い社会の指導者は自己中心的に傾いて専制的支配をこととしたのであり、したがって神の摂理を妨害する悪の方へ傾くようになったのである。その時、神は摂理の進行に役立つような新しい指導者を善の立場に立て、彼を通じて摂理されたのである。」(p500)
「(アベルの心情的基台の上に)神は歴史を通じてサタン世界から善の側の人間を分立することができるようになったのである。歴史的に善の側の人々は神のみ言を悪の側の人々に伝えようとしたが、悪の側の人々は聞き入れず、かえって武力でもって迫害し攻撃を加えてきた。そこで神の側がそれに応戦するという立場で闘争が展開されてきた。」(p487)
「善悪の闘争において、善の側の責任分担が十分に果たされず悪の側が勝利を収める場合、もちろん歴史は善なる方向に転換されず、そのまま延長する。しかし、そのような場合、ある一定の期間が経過すれば、神は再びより善なる指導者を立てて悪の側を屈服せしめられる。したがって結局は善の側に転換するように、神が背後から絶えず歴史を導かれたのである。それゆえ、今日までの人類歴史は階級闘争によって発展してきたのではなく、善悪闘争によって変遷してきたのである。」(p501)
≪善悪闘争がもたらす結果≫
「発展とは、成長、発育、向上などをいう。……それは主体と対象の相対要素が共通目的を中心として調和的な授受作用を行う時に現れる現象である。それに対して、闘争は互いに目的が異なり、利害が異なる主体と主体の間に生ずるものである。闘争が行われる時は、発展は停止するか、またはかえって後退するのである。」(p499)
「主体と主体は相克の法則に従って対立し、闘争するが、歴史上における主体と主体の相克とは、指導者と指導者の対立をいうのである。例えば……新しい指導者たちと古い指導者たちの闘争がその例である。両者は分立の法則に従って、相対的に善の側の立場(神の摂理にかなう立場)と悪の側の立場(神の摂理を妨害する立場)に分けられたのである。」(p499–500)
「そして各々の主体が、対象であるところの大衆を互いに自身の方へ引きつけることによって(その時、大衆は二分される)、善の側の陣営と悪の側の陣営を形成して闘ったのである。指導者のうち、どちらが善でどちらが悪の立場であるかは、いかに神の摂理に寄与しているかによって決定される。」(p500)
「善悪の闘争において、善の側が勝てば歴史の進む方向はより善の方向へ転換する。……そうして、ついには完全なる善の段階、すなわち創造理想世界が実現する段階に到達するようになる。そのとき、初めて善悪の闘争は終わりを告げる。そのように、闘争は決して発展をもたらすものではなくて、ただ歴史発展の方向を転換させる役割を果たすだけである。」(p500)
原理講論
≪善と悪の基準≫
「主体と対象が愛と美を良く授け、良く受けて合性一体化して神の第三対象となり、四位基台を造成して、神の創造目的を成就する行為とか、その行為の結果を善といい、サタンを中心として四位基台を造成して、神の創造目的に反する目的のための行為をなすこと、または、その行為の結果を悪というのである。」(創造原理「善と悪」p73)
「善と悪とは、同一の意味をもつものが、相反した目的を指向して現れたその結果を指していう言葉なのである。……したがって、復帰摂理は、サタンの目的を指向しているこの堕落世界を、神の創造目的を成就する地上天国へと、その方向性を変えていく摂理であるとも、見ることができるのである。……人間社会において、常に闘争と革命が起こるその主な原因は……善悪の基準が、常に異なってくるところにあるといえよう。……事実上、人類歴史は数多くの闘争と革命を重ねながら、本心が指向するこの絶対的な善を探し求めて流れてきたのである。したがって、堕落した人間社会における闘争と革命とは、この絶対的な目的を追求し、絶対的な善の世界を成就するまで継続せざるを得ないのである。」(堕落論「目的性から見た善と悪」p118-119)
「天(神)の側とサタンの側との区別は神の復帰摂理の方向を基準として決定される。神の復帰摂理の方向と同じ方向を取るか、あるいは間接的でもこの方向に同調する立場をとるときこれを天の側といい、これと反対になる立場をサタンの側という。……すべての宗教はその目的が等しく善にあるので、それはみな天の側である。しかし、ある宗教が、使命的に見て一層天の側に近い宗教の行く道を妨害するときには、その宗教はサタンの側に属するようになる。……例えばイエスが現れる前には、ユダヤ教やその民族はみな天の側であった。しかし彼らが、ユダヤ教の目的を達成するために新しい使命をもってこられたイエスを迫害するようになったときには、彼らがいくら過去に神をよく信奉してきたとしても、イエスを迫害したその日からサタン側とならざるを得なかったのである。」(メシヤ再降臨準備時代「天の側とサタンの側との区別は何によって決定されるか」p541)
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