(※編集者駐:パシセラ氏からの特別寄稿をシリーズで掲載しています。)


霊感商法と清平で見失われたもの

私はこのシリーズが、神様を信じ、文鮮明師の教えを信じた方たちに向けて書いています。いわゆる”旧統一教会”やサンクチュアリ教会が正されるべき時です。

霊感商法が80年代に盛んになり、その後90年代に清平が盛んになる過程の中で、お金は集まったでしょうが、もっと大切なものが失われました。いずれ、「統一運動の堕落」というシリーズを書きますが、その前に、もっと「統一運動とは?」について、見直す必要があると思います。私も霊的なことを体験してきた人ですから、霊的現象を否定するのではないものの、偽物はいけませんし、偽りは偽りとして退けることが必要です。

テレビでは、清平で一心不乱に行に没頭する教会員の姿が報道されています。それは、「カルトだ」と感じさせるものです。なぜでしょうか?理性を失うようにさせているからです。振り返ってみれば、霊感商法の時代から清平の時代へと、どんどんと統一運動の性質は変わって行きました。それは、理性を失わせ、霊的集団へと転換させるものであったと見ることもできます。

“旧統一教会”(現世界平和統一家庭連合)の田中会長は、7月11日に最初の記者会見をしました。そのすぐ後の日曜礼拝の説教で、最初に話したのが、「『外に出なさい』という声を夜中に聞きました」という、記者会見をしたことの理由付けをするお話でした。その声が、本当は果たして、韓国の本部から来た声だったのか、霊的声だったのかはわかりませんが、説教の中では、霊的声だったという印象でした。

この田中会長の説教を聴きながら、「こういうお話を最初にする、ということそのものが、教会の問題の表れだ」と感じざるを得ませんでした。米国の”旧統一教会”の総会長のヨン氏も、フィリピンなどの地区を担当していた時に、霊的な声を聞いた、啓示を受けたというお話を多用したと聞きます。そのような話によって、「この人は神様に通じた人だ」と教会員は思い込むようになります。でも、神様を信じ従うことと、霊的な声や現象を信じることは違います。霊通することと、神様に通じることも違います。悪霊に霊通することもありますが、悪霊は善霊のふりをするのも私は見ました。いわゆる霊的波長が違います。

人間には、良心があり、理性があります。ところが、霊的現象に頼るようになると、良心も理性も失うようになっていく可能性が出てしまいます。霊的現象の善悪を分別するのは原理、つまりは、理性が必要です。小さな子供が霊通するのが、危険であるのも同じ理由です

ユダヤ・キリスト教の伝統においては、完全ではなくても、信仰と理性のバランスがあります。本来、統一運動で文鮮明師が教えていたのは、それを更に一歩進めて、神様の心情への感性、信仰、理性の、バランスの取れた個人と家庭となることだったはずです。それを体現した人は、神様に通じた情熱と信仰と意志、強い理性鋭い霊性を現すようになります。その土台となるのは、御言です。ところが、”旧統一教会”においては、御言が軽視されています。重視されているのは、”旧統一教会”のリーダーの方達の指示とお話です。それは、本来の御言とは違います。

神様の御言は、摂理の進展に従って、段階が上がります。ゆえに、原理講論では、啓示は受けてもまだ御言を受けることのできない「御言の基台摂理時代」、つまり、供物の時代から、旧約、新約、成約の時代へと、段階を追った御言により神様が摂理されるという説明が出てきます。

”旧統一教会”においては献金が重視されます。献金とは供物です。霊感商法から清平、今に至るまで、”旧統一教会”においては、献金がどんどん最重視されて行きました。その目的のためには手段は選ばない雰囲気がありました。結果として、教会全体として、旧約以前の供物の時代に戻り、理性も合理性も見失い、良心さえも隅に追いやったということはないでしょうか?

考えてみるべきことではないでしょうか?文鮮明師の他界後の”旧統一教会”では、教義は独生女論にすり替わりました。どのように、文鮮明師の教えが、独生女論によって捨てられたかもいずれ書くつもりですが、独生女論の下で、家庭の誓いも変わりました。天聖経も変わりました。その多くは、文鮮明師の教えと方針に反しているのに、その矛盾に対して、どれほど強く問題を感じるでしょうか?眠ることができないような矛盾を感じないでしょうか?恐ろしく間違った所に行っているような何かを、理性が感じさせないでしょうか?目をつぶろうとして、合理性がゴミ箱のようなところに捨てられなかったでしょうか?

本来の原理講論の教え

論理の法則に適っていることを合理的であると言いますが、本来、文鮮明師の教えていたことは、合理性が強いものです。ギリシャ・ローマ文明の中でパウロの信仰観で伝道しようとする中で登場し三位一体論とイエスの神格化などのキリスト教の神学の論理的限界を乗り越えることを意図しており、合理性を目指していました。イエス・キリストは、本来、ギリシャ・ローマ文化ではなく、ユダヤ文明の中で理解されるべきものです。ですから、文鮮明師はパウロの信仰観とイエスに対する神格化を批判しました。

文鮮明師の弟子によって書き記された原理講論は、3つの部分から成り立っていると見ることができるのですが、一つ目は神様の創造原理、二つ目はキリスト教の非合理な信仰体系からの脱皮(脱構築)、三つ目は、神様の摂理歴史です。

なぜ初期に韓国のインテリ若者が文鮮明師に従ったのかと言えば、それは教えがキリスト教をはじめとする宗教の矛盾性や不合理性、特に科学に反することを乗り越える教えだったからです。その意味で、統一運動の初期においては、理性や合理性は生命線であったと見ることができます。

キリスト教の信仰体系の合理性とは何でしょうか?何がキリスト教を信じることを妨げるでしょうか?例えば、私はキリスト教に入るかどうか考えて入らなかた人です。読者の中にもそのような方達がおられるはずです。何が引っかかったのかと言えば、まず科学との矛盾です。イエス・キリストに父親はおらず、処女マリアから生まれたとされています。また、十字架で殺された後は肉体ごと天に登ったと多くの宗派で信じられています。この矛盾にも関わらず信じる人が救われるとされることは、簡単に納得できるものではありません。

これに対して、原理講論は、総序の中の、人間の無知を克服するために科学と宗教を統一された課題として解決する真理が必要だ、という話から始まっています。これは論文の中のテーマ、論題に相当する部分です。その論題が数百ページに展開されたのが、原理講論であると見ることができます。

如何にして科学と宗教を統一された課題として解決するというのか、キリスト教とどのように違うのか、という説明は、この文章の中ではできませんが、それはただ単に「神様は存在する、救い主が必要である、信じなさい」という簡単なものではありません。”旧統一教会”のリーダーの方達は、”旧統一教会”をキリスト教の一部であるかのように、世の中で受け入れてもらおうとしたのですが、その考え間違いです統一運動とは、キリスト教の一部ではありません。

恐らく、多くの日本人にとって、”旧統一教会”がカルトになってしまっているのは、元々の原理講論にあるような教えとは別の、教会のリーダーの方達が作り出した信仰組織体系で教会員を掌握し、献金を集めようとしたからです。

「神様に通じた情熱と信仰と意志、強い理性、鋭い霊性」を持った人になるのが、統一運動で文鮮明師が教えていたことだと書きましたが、それは自由な人です。本当にわかったら自由になります。それが原理講論で「自由の原理的意義」として説明されています。同時に教えられていたのが、「人間の責任分担」です。その責任分担の内容は本来、三大祝福として原理講論で説明されているものです。そのような理解をしている教会員は少ないでしょう。

”旧統一教会”においては、後ほど触れる、アベル・カインの神学を曲解単純化して、教会のリーダー層に教会員が絶対服従するように教えました。報連相(報告、連絡、相談)と呼ばれる行動規範を当てはめ、「アベル(リーダー)に主管されろ」と教えるのを見ました。「(リーダーを)信じて滅びよ」という教えもありました。例をあげればキリが無いですが、こうした教会としての体制の中で、合理性は忘れられ、自由も忘れられ、責任分担は教会内での役職と献金することに置き換えられて行ったと思います。違うでしょうか?

の必要性

“旧統一教会”には、「献金をしたら救われる」という信仰があります。歴史的には、中世暗黒時代のキリスト教で、罪に対する罰の免除証書として教会が売った、免罪符に相当すると言わざるを得ないものです。免罪符で最も悪名高いのが、聖ピエトロ大聖堂建築の資金を集めるための免罪符です。”旧統一教会”においても、大量の資金が清平の聖殿のために集められていました。

でも、現在の信徒に必要なのは、御言です。成約の時代の御言というのは、文鮮明夫妻の口から出れば、何でも良いのではありません。一言語った言葉にスパークして走れば良いというのでもありません。これも、統一教会のリーダーの方達が間違った部分です。

旧約の御言の代表は、モーセに神様が与えた十戒です。その中心は法にあります。新約聖書の御言の代表は、イエス・キリストの教えです。イエス様は神様を父と呼び、愛を教え、個人が神様と親子の絆を霊的に結ぶ道を開きました。では、成約の時代の御言の核心はどこにあるのでしょうか?

その理解の出発点は、原理講論の中で語られている原理にあります。でも、原理論だけでは十分でありません。その原理の骨組みを持って、合理性を持って、矛盾なく、文鮮明師の語った内容を把握する必要があります。もし、そうするなら、”旧統一教会”呼ばれるものが、どれほど文鮮明師の教えとかけ離れたものであるかを見るようになります。

しかし、普通の信徒が、ユダヤ・キリスト教の神学と伝統、イスラム教の神学と伝統、文鮮明師の教えが何を意味し、何をしようとしていたのか、本当に理解できるでしょうか?誰が、神様に直接に伺って、了承を得ることができるでしょうか?誰が、既に他界している文鮮明師と霊的に交流し、文鮮明師の思いと意図を知ることができるでしょうか?

を学ぶ心構え

文鮮明師のお話には2つの種類があります。一つは、原理と摂理に関するもの、もう一つは組織運営の中で語ったものです。原理と摂理に関するお話は一貫していますが、組織運営の中で語った言葉は、例えばパンダ自動車事業の例でもわかるように、“旧統一教会”のリーダーとのやり取りの中で出てきているので、一貫していません。数百巻のお話の中にある内容を、この二つに分別して、原理との一貫性を持って理解できる人がどれほどいるでしょうか?

文鮮明師がイエス・キリストのように、弟子に霊的に訪問して摂理すると思う方もおられるかもしれませんが、その考え方は、信徒から謙虚さを失わせ、地上に定着した血統を無視する結果となります。

父は、神様が認めた息子に、地上での摂理を任せるのです。そのような息子息子の中でも摂理的に長子として神様が指名し、文鮮明師がその指名を認めた、文顯進会長しかいません。私は、そのような方が、文顯進会長であるのを2009年からの過去14年見てきました。ですから、成約の御言を文顯進会長の教えを通して、もう一度学び直して再出発する以外ない、ということになりますそれ以外、文鮮明師が世界の中で掃き捨てられるかようになるのを防ぐ道は無い、と思います。

その文顯進会長の教える内容を通して学ぶには、まず、心構えのようなものが必要です。その心構えは、文鮮明師が本来教えていた、「科学と宗教を統一された課題として解決」するという言葉に表現された心構えであると思います普通、合理的、理性的な心と信仰は矛盾すると世の中では思われているのですが、科学を開拓したのは、神様が創造した世界には秩序と法則があると信じた信仰者たちです。霊的直観と知性は連結します。ですから、「人間が堕落しなければ、科学はもっと早く発達していた」というお話になるのです。

神様は真理と善と義の本体であり、その中心は心情ですが、心情に至るためには、まず神様の真理と善と義に自分を合わせようとする心が大切だということです。それは波長を合わせるようなものです。“旧統一教会”のリーダー達は、文顯進会長を追い出そうとする中で、教会員が文顯進会長に情的に反発するように嘘を使って扇動しました。その影響をまだ多くの方が引きずっているはずです。エデンの園の堕落において、人間始祖は情に訴えられて御言を見失いませんでしたか?今の時において必要なのは、神様の真理と善と義に自分を合わせようとする心を持って、御言を受ける姿勢のはずです。


1件のコメント

· 2022年9月3日 10:05 PM

文鮮明師は再臨酒ではあっても普通の人間であるということです。周囲の人間が嘘の情報を伝えれば間違った判断を侵してしまうという事です。

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