家庭での役割の違い

文鮮明師の家庭は、復帰されたアダム家庭として特別な使命を持った家庭です。前回はその家庭における韓鶴子夫人の使命と逸脱について書きました。その逸脱とは、簡単に言えば、御自分が文鮮明師に対して主管性を転倒してしまい、真の母となる道を逸脱する過ちです。たとえ、父子協助時代に自分が否定されるように思えたとしても、それを消化したのなら、真の母として称賛される道が待っていました。2008年の文顯進会長の大成功は、父母を讃える業績として捧げられるようになっていました。

同じことは、末子の文亨進氏に関しても言えて、末子の使命は長子に成り代わることではなくて、家庭の中での末子としての模範となる道を歩むことのはずです。文亨進氏は握手をすると、顔は兄弟として似ていても、文顯進会長とは本当に違う手をしているのがわかります。

神様が与えた特性というものがそれぞれの人にあります。人間は誰一人として同じ人はいません。神様の愛の領域においては誰もが平等であり、また、神様の愛の領域においてこそ、全ての人が平等なのです。人間にとって家庭が愛の基盤なのは当たり前で、愛の学校のようなものですが、神様にとっても家庭が愛の基盤であり、人間との関係の基盤です。

家庭は、役割特性が違う家族が一つになる基本単位です。男性は男性の役割があり、女性には女性の役割があり、男女は神様の二つの性が分立されて現れた相互補完的な存在です。子供には、規律や権威を象徴する父親が必要であると同時に、無限の愛や赦しを象徴する母親が必要で、一人の人がその二つの役割を同時にすることは矛盾をもたらします。

復帰されたアダム家庭の中で、子供の中から一人が長子として神様から選ばれるのは、その子供に長子としての資質があるからですが、長子とは家族全員のために生きる人であり、また神様の愛の領域においては、長子も末子も平等です。ゆえに、家庭とは、平等な神様の愛の中で、役割や資質が違う人が、一つになることができる基本単位です。

原理において四位基台を教える時、2次元的図が位置を強調するので、それぞれの人が神様との親子関係を持っているというのが捉え難い面があるのですが、四位基台をもう少し3次元的に捉えれば、それぞれの人が神様との親子関係を持つ円として描くことができます。つまり、神様との愛の関係の回復が、不平等の本質的克服の道になるということです。

目標と方向の異なる二つの運動に分裂

神様の下の一家族世界という言葉、文顯進会長を攻撃する統一教会の幹部も使う言葉です。でも彼らが実際にやって来たのは、統一教会の下で支配する世界をつくることです。文顯進会長の語る神様の下の一家族世界とは全く違います。

文顯進会長が語っていること、そして文鮮明師が語っていたことは、宗教の壁を取り払い、神様の下の一家族となる理想であるのに対して、文顯進会長を攻撃する統一教会の幹部がして来たことは、統一教会という宗教の壁の中に、人々を引き入れて自分達がその最高位に就くことです。

統一教会という宗教の壁の中に、人々を引き入れて自分達がその最高位に就く、「教会の下の一家族世界」においては、中世キリスト教会が腐敗した時のように、自由はなくなり、服従が要求されます。正に、日本で批判されている通りのことになります。そのような教会においては、教会組織の擁護と存続そのものが言動の目的となってしまう場合があります。今、日本の統一教会がおかしな言動を繰り返していることも、ほぼ組織防衛しか考えていないからでしょう。

統一教会の下の一世界という考え方が如実に現れたのが、文亨進氏が2009年10月に、家庭連合の名称を統一教に変えた事件です。郭錠煥先生の本、「事必帰正」では246ページに書かれています。

これは、文亨進氏が率先したように見えますが、実際には、文亨進氏が統一教会幹部の意をくんで、幹部の心を掌握する意図で語ったと思われます。文亨進氏は、「摂理は、統一教会が蘇生期、家庭連合が長成期、統一教が完成期」として展開するという主張でした。

これに対して、文顯進会長は教会制度と基盤を維持しようとする幹部と対立していました。この対立に、幹部が文亨進氏を取り込むことによって、兄弟の争いのようになりました。

2009年よりもっと前から文顯進会長と文亨進氏の間で、目標と異なる二つの運動として分裂が始まっていたことは、「事必帰正」の191ページから書かれています。こに、2007年3月23日の、文顯進会長の文鮮明師に対する手紙が引用されています。

「お父様は、天意と普遍的な原理によって、神様の下の人類一家族の世界を実現していく摂理的な目標に焦点を合わせてこられました。このため、統一教会の看板を下ろし、包括的な摂理運動を展開してこられました。私も過去10年間、お父様と同じ夢と目標を持って邁進してきました。こうした点で、既存の教会制度と基盤を維持しようとする家庭連合指導部は反省しなければならないことが多いのです。」

神様の下の人類一家族というのは、ただの人間が考えた標語のようなものではありません。2007年だったはずですが、文顯進会長がキリスト教の牧師達を前に話している時に、突然話を止めて長いこと動かなかったことがあるそうです。その沈黙の後、「神様の下の人類一家族と私は言いました」と文顯進会長と語ります。文顯進会長は笑顔でお話される逸話ですが、明らかに、沈黙の間、何かの天啓を受けておられたと思われます。

長子が長子として神様から選ばれるのは、その子供に長子としての資質があるからだと書きましたが、この逸話は、文顯進会長が摂理的長子として1998年に神様から選ばれた資質の現れと感じさせるものです。

米国のようなところでは、神様を信じるというのは別に宗教を信じることと結びつける必要はないのですが、たとえば日本では、神様を信じることは即、宗教を信じることと受け取られるでしょう。では、神様は宗教を作り、人を救われる人と救われない人に区別したいのか、と言えば、そうではありません。神様の願いは全ての人類を神様の家族として抱く事です。

これを天啓として受け、自分の使命として受け止め、人々を導くのは、正に長子の資質の現れでしょう。さらには、文顯進会長は2008年、神様の下の人類一家族というビジョンを掲げて、世界で嵐を起こしました。誰もができることではありません。その人自身が、神様の下の人類一家族という、神様と直結した精神を持たないと、世界の宗教リーダー達を動かすことはできません。世界の宗教リーダー達には、自分が霊的体験を持ち、何万人、何十万人、何百万人という人から崇められるような人がいます。文顯進会長は、そのような人の心を動かすことができる人です。

これに対して、文亨進氏が、「摂理は、統一教会が蘇生期、家庭連合が長成期、統一教が完成期」として展開すると言ったのは、文亨進氏が当時超えていなかった限界を物語っていると思われます。

文亨進氏は仏教に心酔していましたが、韓国最大の仏教団体が北朝鮮訪問の時に、熱心にその仏教団体と関係を結ぼうとしていた文亨進氏ではなく、統一教会からは総攻撃を受けていた文顯進会長を招いたのは文亨進氏の限界の露呈だったはずです。

その限界を超える道は、長子である文顯進会長と一つになり、学ぶ事だったはずで、自分が長子となり相続者となろうとするべきではありませんでした。

文亨進氏は兄の文顯進会長とは全く違うタイプの人だと感じたことは書きましたが、もしも文顯進会長と一つになっていたのなら、人々の心を察してつかむという能力って、兄を支える大きな使命を果たすことができたのではないでしょうか?

そして、たとえ能力は違っていたとしても、神様の愛の領域においては、兄も弟も平等だったはずです。その愛を受けるためには、愛の領域から外れてはいけないはずです。銃を掲げる姿が、神様の愛の現れでしょうか?

統一教会の解散

統一教会の解体は、文鮮明師が1990年代半ばに発表していたことで、組織的には統一教会から家庭連合に転換するはずでした。しかし、ほとんどの教会員には、これがただの名称変更に思われていました。その時代のリーダーとして立った文顯進会長は内部からの転換に本気でしたが、その改革は統一教会の幹部から嫌われました。

今、日本では統一教会の解散に向けて大きく動く流れがあると見受けられます。組織の解明においても、本体の宗教団体だけでなく、関連団体も調査に入れられる可能性が高くなっています。

統一教会幹部と文亨進氏が意図していたのは、統一教会という宗教団体の下に関連団体が支配され、宗教の壁の中に、人々を引き入れて自分達がその最高位に就く組織図です。それがあからさまに表現されたのが、ソクチョ事件での偽霊界メッセージの内容です。

今日本で起きようとしていることは、この組織の解体です。

統一運動は、アダム的人物を中心とした運動だということは、「統一運動とは何か」というシリーズの中で書きましたがが、このような宗教団体支配の組織図を目指したことは、文亨進氏も幹部もアダム的人物ではなかったことを示していると思われます。

神様がアダム的人物一人から摂理を展開しようとしてきたのは、宇宙の中心として意図されているのが、神様と人間の父子関係であるからです。神様と人間の父子関係は、一人の人を基点として取り戻されるようになります。その父子関係を持って現れた第二アダムがイエス様でした。そのイエス様は、ユダヤの宗教団体を使って人々を支配しようとしたかと言えば違います。イエス様は、善きサマリア人の喩えを語った人です。

イエス様が現れるまで、基本的人権などという発想はありませんでした。アダム的人物とは、神様との父子関係を持って現れ、人間を解放する人です。

また、アダム的人物の家庭は、アダム家庭の失敗を蕩減する家庭として意図されるので、家族は厳しい道を生きます。それはその家族以外に期待されるものとは次元が違う、特別な道です。自己否定の道を歩んだとしても、最終的には、家族それぞれがそれぞれの役割を果たし、神様の愛の下で平等となる家庭を目指すことになります。その目的地まで歩むのが各自の責任分担です。自動的ではありません。

家庭は人間社会の基本的単位であり、神様が創造の当初から意図したものですが、宗教団体とは、人間が神様との関係を失ってから現れたものに過ぎません。人間は宗教団体の維持と存続のために存在するのではありません。

文亨進氏の逸脱はすなわち、「宗教的天才」とかと持ち上げて、統一教改革をしようとした文顯進会長に対する対抗馬にした、統一教会幹部の野心と逸脱の表れであるはずです。


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