神様と真の父母様が待ち望んだ歴史的な日(『統一世界』掲載時のタイトル)
1998.7.19
※この文章は1998年7月19日米国ニューヨーク、マンハッタンセンターで開かれた顯進様、世界平和統一家庭連合世界副会長就任式の際、真のお父様が語られ、『統一世界』に掲載された御言とビデオを照らし合わせて修正し、より正確に編集したものである。
今日このような集まりを持つようになったことは、統一教会の歴史において、もしくは先生の一生において、はじめての記念の日だと考えます。のみならず、神様の願いがあったとするならば、この日があるということをどれほど待ち望んでこられたかを考えるとき、私の心からの深い感謝を天の前にお捧げします。
アダム家庭において、神様が1代であるならば、アダムが2代であり、アダムの息子娘は3代でありますが、3代をみることができなかったことが堕落であり、3代の歴史を再び起こすためのものが救援摂理であり、復帰摂理の完成であることを考えるとき、この3代を中心として天の公的な責任を任命するということは天宙史的な異変である、このように考えます。
3代まではこれが、救援摂理の蕩減が終わっていなかったので、いずれにせよ、顯進君も世界平和家庭連合の副会長という責任を負い、まだ蕩減の道を行かなければならない道が残っているため、我々の願いはこの蕩減の3代を過ぎて、第4次アダム圏解放時代である地上・天上天国がくることを結論づけて、そこに向かって前進していることを皆さんはよく知っています。
この時代において我々は、「成約時代が到来した」ことを宣言しました。旧約は何かというと、約束を果たせずに失敗したため、昔の約束を再び取り戻すための始まりが旧約であり、新約はその約束を果たすためにメシヤが来て果たさなければならないその基本の家庭単位を言うのです。そのような家庭単位が成されないことによって、再臨という言葉を中心として、世界的な舞台で世界平和という、世界地上天国を受け継ぐことができる世界統一圏に向かって進むにおいて、家庭的完成を世界的に編成し、終わらせるべき再臨時代があるということを我々は知って、その時代を、我々は成約時代だと言うのです。
成約というのは、約束を成就することですが、それが何かと言えば、我々が何か国を建てて独立の日を祝うのではなく、天の天国を建てて天国創建の日を祝うのではなく、神様の第一の祝いの日を迎えたかったのが、神様を中心として、息子娘を中心として、神様が創造理想として願った家庭完成を祝う日を先に待ってきたということが始まりであるという事実を皆さんは知らなければなりません。
我々は成約時代を宣布しながら(宣布した)ジャルジン宣言があります。絶対信仰、絶対愛、絶対服従を経なければ、このような完成の家庭をなすことができないことを宣言しました。神様が理想として願うことは、絶対信仰の上に家庭、絶対愛の上に家庭、絶対服従する理想の上で成立される、完成された家庭を願ったということを、皆さんは知らなければなりません。
そのような日を願っていた神様は、アダム・エバが堕落することによってどれほど悲しかったかを考えれば、世界にアダム・エバは万代、億万代、独り子であったということを皆さんは知らなければなりません。7代の独り子ではありません。千代、万代の独り子でもありません。永遠の独り子、独り娘でありました。その独り子、独り娘を失ってしまって追い出さなければならない、生きている人を死の場に追い出さなければならない神様の痛い心情がどれほど大きかったかということを皆さんは考えなければなりません。死なずに生きている人を死んだ位置に追い出す悲しみ。
ですから、神様の立場は悲しい、苦痛の王の立場であり、悲しみの王の立場におられました。人間が想像することができない、そのような位置におられたことを我々は知らなければなりません。しかし統一教会が出てくることによって、このような神様の心を越えて、完成の、成約時代を成すためには、成約時代のためには、このようなすべての悲しみの道を全体の責任を負って解放して差し上げなければならないということを、皆さんは知らなければなりません。
それで神様が願う家庭においての真なる孝子、真なる孝女、神様の国がありませんでしたが、神様の国があるときには、真なる忠臣、神様の世界があるようになるとき真なる聖人、真なる聖子、地上天上天国の聖子の道理を立てることができる伝統の責任を背負って来られる方、メシヤの使命であり、完成された成約時代を成していかなければならない真の父母の使命であったということを皆さんは知らなければなりません。
皆さん、聖書でも、死なんとする者は生き、生きんとするものは死に、地上で解くことは、天でも解かれると言っています。地上でつなげば、天でもつながれるという、このような聖句があります。なぜそうなのか。神様の悲しみの場を私が越えていくと同時に、越えて行って神様の悲しい位置にいる億千万代の独り子を追放したその心自体までも解いてさしあげなければならない我々人間の責任があるがゆえに、死んでまた死ぬ、一度死ぬのではなく数十回数百回死んでもそれを越えることが難しいということを我々は考えなければなりません。
そのような心を感じる神様を解放しようとすれば、我々が神様を信じていますが、絶対、絶対永遠なる絶対の位置で信じなければならないという概念が出てきます。愛も同じです。神様を愛するにおいてその息子娘を追い出すその心情以上に愛そうとすれば、絶対、絶対永遠なる、絶対愛をせずしてはその心を感動させることができないということを皆さんは知らなければなりません。
真なる信仰が成立するところには、真なる愛がついていくのです、真なる愛が。真の愛が植えられて芽が出るようになれば育つようにしなければならない。大きくしようとすれば、絶対投入しなければならない。絶対、自分の意識まで失ってしまう投入をしなければならない。絶対服従という言葉が必要だというのです。さて、信仰というものはコンセプト[2](概念)であって、実際(「リアル」の意味)ではありません。それゆえに、へブル人への手紙11章は、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認すること」。望む願いの実体であって、見ることができず、触ることができないのです。天の側が、天がそうだというのです。絶対の天が、我々人間を信じてくれたために、絶対信仰で訪ねてきて、我々もそれを絶対に信じなければ、実体的愛という根源を連結させられないということを皆さんは知らなければなりません。上下関係、左右関係、前後関係、そのような内容があるということを皆さんは知らなければなりません。愛を中心として上には信仰、下は服従。さて、愛を中心として右側が信仰であれば、絶対信仰であれば、これは服従であり、前が信仰であればこれは服従であり。一つの体、一つの心。
このような苦痛と呻吟するその神様に対して信じられないという心、信じることができないという心を夢にも持つこができないというのだよ。夢にも持つことができません。その位置には自分の意識だとか自分というコンセプトがありません。ですから、それ自体を絶対視してそれ自体を全部コンセプトにしなければならず、それ自体を実体としてそこに絶対信仰の前に絶対、私も相対的位置でその神様が信じるように、神様が願う実体の信仰を持たなければならないという話です。信仰も神様のような信仰を持たなければならいという、そういうことです。
このように見るとき、皆さん自身を中心として、自分という自体へ戻ってきて考えてみるとき、私(の中)に絶対信仰をどこで探すのかということが問題です。皆さんは神様のみ旨の前で追い出された子孫です。そのような私自身の五官を持っている私の目が、目自体が絶対信仰を持つことができるという自体になっていない。目を信じることができません。私の鼻を信じることができない。臭い。私の声、私の言葉、私の感じる触感、信じることができないのだ。そう、私の体はどうですか?体も信じることができず、私の心はどうですか?心はどうですか?心と体が行ったり来たり、来たり行ったりします。
ですから、人間、堕落した子孫においては見つけることができないので、絶対的な信仰は神様を発見するところでだけ可能だというのです。 絶対信仰を持って、絶対愛と絶対服従の実体をつくっておいたそれを失ってしまった神様が信仰だとか、愛だとか、服従だとか、このようなことが、堕落した人間にはないので、これ自体を探すためにはどれくらい苦労し、どれくらい努力しなければならないのかということが堕落した人間として天を訪ねていく一つの宿命的な課題になっていることを人間たちは考えもしなかったし、知ることもできませんでした。
天についていくには、天が我々を嬉しい場所で対することができないように追い出したので、対そうとすれば反対に再び追い出さなければならない。 いつも押し出す場でも、それを越えて、越えて、越えて行って、個人的に押し出し、家庭的に押し出し、世界の天地の全世界の何を条件として押し出しても、それを耐えて越えて行くことができてこそ、神様に対する信仰の基準を持つことができるということを、 我々は考えることができます。
今日、この地に生きる人類が信仰の道、あるいは宗教の道をたどるとか、あるいは神様を発見するために道(どう)の道を全部、道を究めるとかいう時に、天を絶対信じる場で究めた人は一人もいないというのです。 全部皆、疑って自分勝手にこうやりああやり、信じると言って今日信仰基盤を築いておいたのが人類歴史に残った宗教形態です。
人間が落ちることによって、万物より低い位置に落ちました。 天が私を、信仰の道を行くという人として扱うのですが、その微物の昆虫の子どもほどにもならない扱いをするのだ。それでも、そのような環境を越えて行って、天の、この宇宙の創造主であり主人であられる神を信じるという心を、自分の生涯路程、あるいは信仰路程で探してみると、そのような環境でも信じるという心を持って絶対的神様、創造主であり、我々のすべての全体の生命の源であると信じて行くことができる位置を発見せずには、すべて落ちた、動物よりも落ち、万物よりも落ちました。 上がって行くことができる道がないというのです。
ですので、万物世界以上の価値を探し、人間世界に入ってきて個人的な価値、家庭的な価値、氏族・民族・国家的価値まで絶対信仰として一番底で神様に会っても疑わず、千万回私を堕落といっても、お前、堕落したのが正しいとしても信じず、それを悔い改めることができる位置まで進んで行かずしては、神様の愛を、神様の信仰圏内に接することができないというこのような概念を立てることができます。
この地上に生きる人が、信仰の道であろうと、どんな社会の奉仕の道であろうと、そのような道を行った人がいないというのです。絶対信仰の上で創造した物を失ってしまった神様が、このような絶対信仰に接することができる基準を中心として、万物の一番後ろに立って越えて行き、人間世界を越えて、神様と人間との塞がったそのような絶対信仰を失ってしまったその基準を全部皆、解怨成就するためには、苦痛の神様、受難の神様を解放せずしては、関係を築くことができないという事実を考えた人がいません。
それで、神様の心を慰め、苦痛の神様を慰めてあげ、悲しみの神様を慰めるためには、神様が流した涙、数千万倍をさらに流さなければならないことを知らなければなりません。言葉では簡単です。 「すべてする」と皆言えます。神様を解放しようと? 統一教会は神様を解放しようと?それ本当ですか? (はい)そうならば、絶対信仰という基準は、これまで我々サタン世界の堕落したコンセプトを持った立場で絶対信仰する概念と、純粋な堕落していない本然の神様の心情に結ばれたこのような恨(ハン)の峠を越えて行くことを望む絶対信仰の基準とどれくらい違いがあるのかというのです。それが平準化され得る立場に立つことができないというのです。
このように見たとき、神様自体を見れば、堕落した世界について、これまで悲しみの歴史、苦痛を呻吟して進んできながら、その心の中で消えなかったのは、このような心の慰めの相対になり得る孝子孝女、失われてしまっていなかった本然の神様の愛を中心としてつくったアダム・エバの完成的孝子孝女にいつ会うのか?簡単で容易ですか? 言葉は簡単ですが、どれほど難しかったかということを考えなければなりません、皆さん。
さて、メシヤを送りましたが、メシヤは何だ?メシヤは、真の父母は何だ?完成したアダムであり、神様が追い出したアダム・エバに会って神様の中に結ばれずに通過、悲しみをなくすことができるその本然の位置まで越えて、神様の前に孝行することができる位置、代表者として送ったのがメシヤであり、その代表者の相対が失われたエバの位置、女であった。メシヤになれるのは愛の息子なのに、本然的愛の息子になるためには、その愛の息子が涙を流せば、父母も涙を流すのであり、その兄弟とそこに同僚、同居者がいれば、天使世界の天使が一緒にいれば天使までも涙を流さなければならないというのです。
そう、天使が涙を流し、息子が涙を流し、神様も涙を流すのに、誰が涙を、誰が止めるのか? 「もうやめろ。泣くのをやめよう」と誰が言うのか?神様は「おいおい、涙を止めよう」と言うことができない。あまりにも受難の道を歩いてきたというのです。
そのため、メシヤになることができるそのような方が、神様と会って涙ぐましい再会となれば、十回会えば十回涙を流し続けなければならず、千回会えば千回涙を流し続けなければならない場だったということを皆さんが知らなければなりません。神様が人のために万物まで、微物の動物まで草木まで昆虫まで創るとき、あなたが私を愛し、このような心を持って絶対信仰、絶対愛、絶対服従の美しい相対的価値を持って、喜びを感じるために創ったのがこれでしょう。小さなものから、大きなものすべてがひっかかっているというのです。すべての存在、微物の動物世界、鉱物世界、植物世界まですべて主体になった所にいなければならないので、これらすべて殺してしまったので、生かすために、私がこれを全体、神様の、創造主の苦痛を感じて再びこれを整えなければならないというのです。解放してあげなければなりません。
さあ、見てください。これが神様の嘆息圏内にあり、人類が嘆息圏内にあり、万物が嘆息圏内にあることを皆さんが知らなければなりません。万物が嘆くと言ったのです。誰ゆえに?アダム・エバゆえに。それがアダム以後エバ、完成した、来るメシヤは、このすべてのことを、その雲とこのすべての霧を取り除かなければならないというのです。
それでは、そのメシヤはどのくらい涙を流したでしょうか。朝になれば、朝の日光を見て現れた万物の状態が、雲がかかったとか、春夏秋冬、四季が変わるすべてのその環境で涙なしには、天の前に対することができないというその代表者が、涙の代表者、苦痛の代表者がメシヤになるだろう。苦痛の王、悲しみの王となるその神様が見る時、あなたも私と同じ悲しい位置にいるのは、あなたのためではなく、全部、被造(物)全体、万物のため、人間のため、私のためにそうだという同情の因縁を醸し出さずしては戻って行く道がないことを皆さんは知らなければなりません。
それは何かと言えば、絶対信仰、絶対愛、絶対服従という言葉は、涙の峠の悲しみを越えたそれ以降に必要なことであることを皆さんが知るべきなのですが、皆さんはそれを感じられず、考えることもできず、絶対信仰、絶対愛、絶対服従という言葉が神様と関係を築くことができる何らの内容がないということを皆さんは知らなければなりません。
そのような絶対信仰、絶対愛、絶対服従というコンセプトの実は、我々人間においては何かと言えば、アダム・エバがみな見いだされたことであることを知らなければなりません。それでは皆さんは堕落しなかった時は、絶対的男、アダムであり、絶対的神様の信仰、絶対的神様の信仰の対象であり、絶対愛、絶対服従の対象であり、それと同様に、アダムがそのような位置に立ったならば、エバも絶対信仰の対象、アダムの絶対信仰の対象であり、愛と服従の対象であり、エバを中心としたアダムもそのような位置で絶対圏内に立っている、すべて、神様とアダム・エバの一体的愛が定着しなければならないのが、アダム家庭の理想だったと考えなければなりません。その二人も、神様と関係することができるすべての中心は真の愛だよ。真の愛を中心として、そのような位置に立たなければならないのです。
神様がアダムをつくって「一人でいるのは良くない」と言い、エバをつくって「善い」と言いました。善いというのは絶対的に信じることができ、絶対的に愛することができ、絶対的に投入しても良く、犠牲になっても良い、そういう言葉です。極端な結論を言いましたが、変に思わないでください。アダムとエバと、何が違うのかというのです。同じです。人は皆同じだというのです。アダムにおいての相対として創ったエバですが、女ですが、女は何か?女が違うものは何か?生殖器が違う。女性の生殖器を創って善いと言ったということを知らなければならないというのです。それは何かと言えば、絶対的男にして、絶対的女になるということは絶対女性器官を言うのであり、絶対愛の器官を言うのであり、絶対服従の器官を言ったという事実を知らなければなりません。それが信仰の結晶体であり、愛の結晶体であり、服従の結晶体であったのだよ。神様の前で。これを占領する日には、これが絶対に一つになる日には天下が皆周る。これが鍵であると同時に筋のようなものです。
皆さんのすべての五官が集中して一方向に直行しようとするのは真の愛の道です。皆さんが夫婦生活にそんなすべての器官を中心として永遠に直行だ。射た矢のように、砲弾のように直行する。そうなっていますか?私はこれゆえに生まれた。アダムとエバのそれゆえに、女性もエバも男性のそれのために生まれた。他に何もありません。それがその国の一人の王よりもよく、自分の祖父よりもよく、父よりもよく、自分の息子娘よりもよいのです。それを中心に動員されているのが五官です。
そのような絶対的な信仰に、絶対的な愛と絶対的な服従に一体化したその位置におけるそのお互いに愛する、その一つになったその位置においてのそのすべての男女の五官がお互いが、ために生きる位置に立たずには絶対信仰、絶対愛、 絶対服従という地上の基盤を見つけることができないのだ。
女性も男性も、お風呂に入ると、自分の体で一番貴いもの、貴いもの、その一箇所は自分のためのものではありません。 相手のために生まれたことを知らなければなりません。 自分のためにするのは死ぬべきです。 滅びなければなりません。 その愛の起源を中心として初愛が芽生え、愛の家庭の生活が始まり、生涯の輝く勝利的実績も、その愛と関係していなければ、すべて神様と関係なく、歴史と関係ないということを皆さんが知らなければなりません。
皆さん、360度を上下前後左右に回しても、起き上がり小法師のように東西南北をぴたっと合わせるそんな位置に立たなければなりません。南極と北極の磁力線が全部磁石を引き付けるのに方向が天下に、いくらすっと回してもさっと指す。絶対的にその方向を指します。お酒を飲んで酔おうと、何がどうなっても捕まって脅迫されて骨が折れて何が折れてもそれを、方向を変えることができない。
愛する人に会うとき、皆さん、会えばキスしてから、その次に何をもって触らせますか?それは永遠につかみ、永遠にタッチしてこそ幸せだというのだよ。これに異常があれば、全部、家庭、おじいちゃん、おばあちゃん、異常があれば、家庭がドタンバタン、息子娘、嫁、孫、全部ドタンバタンとなるのだ。破壊が起きるのだ。動揺が広がる。そうですか? (はい)
今日、このような日に、このような深刻な話をしたのは、これから理想的家庭を成し遂げるのは、それが容易ではないからです。神様はどのように考えるかというと、アダム・エバについては絶対信じることも、私はいつからあなたのものか。結婚する時はあなたのものではない。結婚するときは皆大きくなったということだ。
自分の理想的な夫に、理想的な妻になるのが、腹中に宿して、お腹が出るとき、母親、父親が愛するにおいて倒れて、共に倒れることができる心、そんな心を皆持っていなければならないということです。アダム・エバ、結婚する時は、自分の腹中で育った、それも全部皆見たがらなければならないのです。
ですから、神様がすべて、アダム・エバをみごもって産むとなれば、「おお、アダム、エバ、あなたが生きているのは、あなたがそのようにできているのは、それはエバのものであり、エバのものはアダムのものだ」。そのように中で生えているそれをみな知っておられる神様が、これが大きくなってアダム・エバを見る時、どれほど喜ばれるか。その喜びを考える時、表れる時、神様が喜ぶのです。動機の喜びをつなげて現実に動機がつながるということです。
このように見れば、皆さん、結婚する前に、生まれて、処女として育つようになるとき、「私がこんなに育つのは、私の一人しかいない夫のために育つ」とそう考えてみましたか?その娘、エバならエバ自体のそのすべての育つものがたった一人しかいないアダムのためのものです。他の道はありません。一つだ、一つ。永遠に一つなのです。
このように見るとき、理想的な家庭という言葉、今日の世界平和統一家庭連合という家庭というのが簡単なものではないことを皆さんが知らなければなりません。今日、アメリカのような家庭が、これが家庭か、家庭?いいえ。絶対にそうではない。再びこれをすべて溶鉱炉に入れて溶かして再び作らなければならないというのです。ただそのままの家庭を願いますが、溶鉱炉に入れて溶かして、再び(築く)理想的な家庭を願いますか? どういう意味か分かりますか?どのくらい変わらなければならないかということを知らなければいけないというのです。その理想家庭、この堕落した世界、何、立派だという人たち、自分たちが理想家庭だと思っている。
このような原則があるゆえに、皆さん、この霊界に行くようになれば、天国に入って、このような過程をすべて経てきれいに清算せずしては、入ることができないという事実を知らなければなりません。アダム・エバが結婚して離婚すると考えましたか?他の女性がいますか?継母、継父があり得ますか?滅べ、アメリカ。継父、継父、、、継父が5、6人が普通だ。滅ばなければならない。滅ばなければならないというのです。滅ばなければ滅ぶようにしなければならないというのです。(アーメン) そのアーメンと言った人、黒人か、白人か?黒人だな。黒人がアーメンと言ってはいけない。白人がアーメンと言わなければならない。本当だ。レバレント・ムーンの言葉、皆さんに聞こえが良くて心地よくなれとそういうものではありません。事実を教えてあげなければなりません。ですから深刻なのです。一度愛したことは、永遠に忘れてはいけないというのです。その人に会って悲しいと一言でも残していけば、霊界に行って引っかかるというのです。分かりましたか?
我々世界平和統一家庭連合というその家庭連合の副会長を任命していますが、その副会長というその位置が簡単な位置ではありません。供え物だ。生きた供え物、供え物の立場だ。ありがたいことは、お父様がいて、今の世界を浄化して、成約時代を発表することができる時代が来たということです。これから統一教会で家庭的な迫害がない時代が来たのです。ありがたいことは、イエス様は30歳ではじめて家庭を成すと出発した、そのような目的を果たせなかったことを今、世界全体の家庭が祝福を受けて国を越え、世界に行くことができる祝福の環境を開拓した後に、30歳にならない顯進をこのように、家庭連合の副会長として立てることを、父母としては、私としてはうれしく思うのです。それがうれしいことです。
最後です。堕落した子孫たちを中心として、堕落した人々を中心としてこれが最後のページです。蕩減復帰という最後のページ、サタンの血統を断絶して、きれいに清算したあとに天の直系の子女が家庭を中心として第4次アダム勝利圏がこのように繋がることができる、そのバトンを受け継ぐことができる出発が始まるようになったという事実が驚くべきことだということを皆さんは知らなければなりません。
祝福家庭が、この顯進の息子娘が祝福4世だ。4代だ。4次アダム時代を迎えることができるというのだ。その家庭を通して堕落圏を越えて最後に清算することを皆しておいて、その家庭が一つになって神様が1代、アダムが2代、3代全部が堕落の限界線を越えて、4次アダム圏、蕩減の開放時代に、地上天国時代に移ることができる境界線だということが驚くべきことなのです。
私が顯進君に言います。今はあなたたち夫や妻や父母の前や息子娘の前や教会の前でも絶対信仰圏を維持できるあなたになれ、任命するのです。あなたたち子女とすべての統一メンバーたち。絶対信仰、絶対愛、絶対服従。あなたたち家庭と4人の息子娘を中心として越えていくにおいて、第4次アダム圏時代に向かっていくあなたたちが、そのような上下関係、左右関係、上下関係は父子の関係であり、左右関係は夫婦関係であり、前後関係は子女関係ですが、それを中心として家庭を中心として、氏族と国を越えて行かなければならないために、結局は絶対信仰、絶対愛、絶対服従の環境を上下父子の関係に、夫婦関係に、子女関係に、兄弟関係に完成を定着させなければならない。結論的なことを言うと、死んでも絶対信仰、絶対愛、絶対服従、生きても絶対信仰、絶対愛、絶対服従。永遠に絶対信仰、絶対愛、絶対服従。地上だけでなく霊界でも同じです。永遠に、永遠に。分かりましたか?
この日、あなた方は心の中で決断しなければなりません。絶対信仰、絶対愛、そして絶対服従です。生きていようが死んでいようが、地獄にいようが天国にいようが、永遠に私のモットーはこの3つです。この3つがあれば、あなたはすべてに打ち勝つことができます。これらの価値観がどれほど素晴らしいでしょうか!アーメン。
さあ、顯進君。そのような信仰を持って父よりも、父が成し遂げられなかったことまで、父よりも優れることを。どれだけ優れることを願うのか。百倍ではなく千倍、万倍優れることを願うのです。神様がアダム・エバに対する望みと共に、その願望が止まらずに永遠なる望みとして残されているので、父母になった私も子の、このような望みを頼まざるを得ないことを喜んで受け入れなければならないのです。顯進は私より美男子で、力も良く、男らしく覇気もある。 MBAまで卒業した。世の中にレバレント・ムーンは事業に失敗したというが、MBAの学位を持っているので、今後事業に対する専門家、感謝の大王になるだろうし、もうUTS(統一神学学院)を卒業して、世界にない神学者になって博士学位を持って、全部どんな神学者も教育することができるチャンピオンになることを考えるとき、希望の一日として、これらを顯進の前に任せるようにしてあげるのだ。おめでとう。アーメン!
心と体が一つにならなければならない。分かったか?だからもう顯進は父がこれをしろ!と言えば、「なぜそれだけしますか?千倍させてください」こうでなければならないのだ。それではこれから家庭連合は万歳、万歳、万々歳。誇らしい。アーメン、アーメン、アーメン。
[1] この文章は1998年7月19日米国ニューヨーク、マンハッタンセンターで開かれた顯進様、世界平和統一家庭連合世界副会長就任式の際、真のお父様が語られ、『統一世界』に掲載された御言とビデオを照らし合わせて修正し、より正確に編集したものである。
[2] お父様は「概念」ではなく「コンセプト」と英語で語られている。