歴史資料 祝福家庭の声明文

元・家庭連合本部職員がマスコミ各社へ寄稿した文章

※本記事は2022年9月7日 週間文春オンラインに全文が掲載され、翌8日の文春本誌にも一部掲載、紹介された。

世界平和統一家庭連合 日本本部 家庭教育局 元副局長 

櫻井正上(まさうえ)

 私は1998年から2017年、家庭連合の方針に反する意見を表明したかどで解任されるまで、約20年近く、日本家庭連合本部に所属し、信徒の家庭と青年の教育に携わってきました。

 先月の痛ましい事件からひと月半が経ちますが、一国の指導者、この国になくてはならない方を失った悲痛な事実と、その要因が家庭連合信徒の家庭の困難と破綻にあったという事実に、この間、深い痛みと責任とを感じてきました。今回のことで深い傷を負われた方々を思う時、かける言葉も見つかりませんが、統一運動に関する連日の報道と、二度にわたる家庭連合の記者会見、並びに韓国でのデモ集会等の様子を見つめながら、強く思うところがあり、筆を執りました。

 これまでのメディア報道には、事実と食い違う部分もありました。しかし、日本家庭連合が世界の活動資金の負担を強いられてきたのは事実であり、このことで、数多くの日本信徒の家庭が尋常でない困難を経験してきたことも事実です。警察発表を待つまでもなく、家庭連合内の積年の課題が、少なくとも、一人の青年の人生を破綻させ、一国の指導者の命を奪う一因となったなら、家庭連合はメディア報道の課題や信教の自由等を訴える前に、またデモ集会に信徒たちを動員する前に、謝罪の意を示し、本気で信徒の現状と向き合い、今回のことを根本的な体質改善の機会とするために死力を尽くすことが道理であり、せめてもの償いであるに違いありません。そうした変化の兆しが見られなかったことが残念でなりませんでした。

 私は既に家庭連合を離れた身ではありますが、一人の信仰を持つ者として、また、家庭連合の内情の一端を知る者として、今回のような悲劇が二度と繰り返されないことを心から願い、胸の詰まる思いで、信徒の現状と家庭連合の課題について投稿したいと思います。

二世たちの痛み

 報道でも取り沙汰されてきた通り、日本家庭連合(以下、日本教会)は世界の活動を支えるべく、全国の家庭がいわゆる「献金摂理」に加担してきました。それこそ、平和運動に寄与したい一心で献金される方々もおられましたが、ただ単に自らの家系の解怨や開運が主な動機で取り組むケースも少なくありませんでした。そして、その犠牲になってきたのは、常に子女たち…、いわゆる「二世」たちでした。

 私自身、草創期の教会を築いた両親をもつ二世として育ちました。言わば、二世の先輩として、教会内では人一倍、二世たちの痛みや苦悩を聞いてきた立場でした。親が教会活動に明け暮れ、「鍵っ子」で育った二世たちもいました。家計が難しいことから大学進学を断念し、弟妹を大学に送ってやろうと必死に働く二世たちもいました。献金の要請が強まると、親が子どもの教育費や学資保険を解約して献金してしまうケースもあれば、二世自身が親の借金を肩代わりし、その返済のために婚期が遅れてしまうケースもありました。

 家庭を蔑ろにし、家財を投じ、教会活動に明け暮れる、そんな親たちを見つめながら、強い憎悪や敵愾心のような思いを抱く二世たちも少なくありませんでした。しかし同時に、そうした自らの心境に苦しむ彼らの姿がまたありました。心底、親を憎みたい子など、どこにもいないからです。

 一方で、宣教師の家庭など、単に恐怖信仰やご利益信仰などではない、心底、「世界のために」といった確固たる信念と志から活動に身を投じていた家庭が多くあったことも事実です。こうした家庭の二世たちは、年頃になって、「ああ、親が献身的に歩んできたのは“世界”のためだったのだ」と知り、かつての恨みが、逆に「世界のために生きよう」という強い動機に変わっていくケースもありました。

 今、社会で活躍している二世たちはそうしたメンバーです。社会のモラルに反する教団の在り方には、はっきり「NO」という意思を持ちつつも、親を通して学んだ、神を知った者としての公的精神、為に生きる精神を学んだメンバーです。或いは、様々な思いを抱えつつ、痛みや苦労を背負いつつ、過去を越え、強く生きようとしている、そんな二世たちです。

 当時、私たち二世教育者にできることは、せめて、二世たちに、この教会の「狂った組織文化」などではなく、本来、この運動が目指していた大きな志と精神とを伝え、自らの人生に「恨み」ではない、「誇り」をもってもらうことでした。

目的は手段を正当化できるか?

 統一運動は「宗教」という枠を超えた高尚なビジョンをもっていました。入教者の半分は、個人的な開運や救いに動機があったかもしれませんが、もう半分は、家庭の再建や教育環境の改善、平和世界の構築といった普遍的な理想に賛同した人々でした。それが主に、勝共運動等、対外活動を推進していた方々だったように思います。

 しかし、信徒を苦悩に陥れていたものは常に、そうした「理想」ではなく、「現実」でした。「言っていること」ではなく、「やっていること」であり、目指している「ゴール」ではなく、それを成そうとする「やり方」でした。どんな高尚な目的を掲げていたとしても、誤った手段を正当化することはできません。日本教会が進めてきた献金・集金のやり方は、明らかに、社会的モラルに反するものでした。

 最初の記者会見で、現会長は、日本教会本部が信徒個々人に「ノルマ」(献金の数値目標)を課すことはない、と答弁されました。確かにそうだったのかもしれません。が、本部が全国の「現場教会」に無理なノルマを課していたことは、内部の人間なら、誰もが知る事実でした。また、献金は「個々の意思によるもの」ということですが、献金を「しなければならない」といった空気を作り出し、信徒に過度なプレッシャーを与えていたのも、また事実です。

 2度目の記者会見では、2009年以降、法令遵守を徹底しているといった説明がなされましたが、今回問題となったのは、「外部」に向けられた物販活動ではなく、信徒たち「内部」に向けられた献金圧迫の問題でした。そして、それは2009年以降も、変わらず続いていました。

 私は直接、献金現場を担当してきた立場ではありません。が、その献金摂理ゆえに苦しむ家庭や二世たちの声を聞いてきました。「世俗を離れ、信仰を求めてここに来たのに、教会内では献金の話しか聞けない…」といった言葉をよく耳にしました。また、地元の教会で家庭内のことを相談すると、即、献金の要請(=教会が示す解決策)に結びついてしまうから、と、わざわざ遠方から本部まで相談に来られるケースが後を絶ちませんでした。中には、献金の圧迫に耐え切れず、「退会」しつつも、信仰を捨てきれず、子どもの祝福(結婚)の相談のために訪ねて来られるケースもありました。

 では、献金を推進していた現場の教会は何のためらいもなく、これを進めていたのかと言うと、決してそうではありませんでした。私は家庭と二世の教育で全国を巡りながら現場の教会長に触れる度にこう言われました。「我々も当然、信徒のためになる本来の教育を進めたい。しかし、この献金体制の中で、何をどうできるだろうか。まずはこの体制と文化を変えて欲しい」と。それが現場の方々の本音であり、悲痛な叫びでした。

 ある教会長は、家計が大変な中、息子が自ら大学費用を作ろうと、一年がかりでバイトして稼いだ学費まで献金してしまったといいます。その方は、「私は親として、やってはならないことをした。息子には本当に申し訳ない…。しかし、信徒たちに『献金をしなければ』と訴えている私が、家庭の現状を顧みることができたでしょうか…」、そう目頭を熱くしながら内心を吐露しておられました。それが現場教会の現実なのです。

問題が解決し得ない構造

 本部には様々な部局があります。教育、伝道、法務、広報、そして献金を担当する部局等です。献金に直接関わるのは担当部局と、問題対応に応じる法務局等でしたが、家庭や二世教育を担当する部署においても、献金問題は信徒の家庭問題に直結することであって、「我々の管轄ではない」と言えるものではありませんでした。しかし、こうしたことを上申する度に言われたことは、「あなたはあなたの使命に殉ぜよ」ということでした。

 皆が皆、与えられた使命には一生懸命なのです。しかし、皆が皆、自己の責任範囲以外のこと、「全体」のことに対しては無責任になっていきました。私は今になって、いたずらに誰かを責めたいのではありません。ただ、自らの責任範囲を越えた「組織的決定」を、「天の意向」としてしか受け止められない日本教会の体質は、誰もが責任をとらないし、とることもできない、閉塞的な構造を作り上げていたのが事実でした。そして、この問題は決して、日本教会だけの問題ではないのです。

 今でも、日本から莫大な献金が世界(韓国)に送られているはずです。それは単に、「宣教師の活動費」などという名目で括れるレベルではありません。韓国加平の地に次々と建立される建造物を見渡すだけでも、どれ程の資金が注ぎ込まれているか知れると思います。

 様々なプロジェクトが生み出される度に、日本教会が「重荷」を背負いました。日本の責任者は、国内のことについては決裁できたとしても、世界本部、特に現教団トップから下りてくる指示には応じる他ありません。そうすることが「信仰」だとする文化が根付いているからです。であれば、献金摂理ゆえに生じた犠牲は、誰がその責任を負うのでしょうか…。

 当時の私自身を含め、本部の責任者一人一人は、私たち皆は、社会に対し、献金で苦しんできた家庭に対して、皆、等しく責任を負っていました。そのことを忘れてはならなかったと思います。しかし同時に、世界(韓国)を含む教会全体のトップダウンの構造と、それを生み出している「上層部」(指導部)にメスが入らない限り、日本教会は無理を重ねようとも、社会からバッシングを受けようとも、今後も自らに「負荷」を課し続けるでしょう。その結果、犠牲を強いられるのは、現場の教会であり、信徒たちであり、二世たちなのです。

変質してしまった教団

 今や問題は「献金の入口」(集金方法)に留まりません。ある時期から、信徒たちに深い疑念を抱かせてきたのは「献金の出口」(用途)の問題でした。即ち、「何のために、何に用いられる献金か」という目的、大義名分が分からなくなってしまったのです。

 故・文鮮明(ムンソンミョン)総裁が進めようとした統一運動とは、本来、一教団の教勢拡大などではなく、宗派や教派を越えた家庭運動であり、国と世界のための平和運動でした。安倍晋三元首相をはじめ、トランプ元大統領やその他の方々が評価し、賛意を示されたのも、統一運動のそうした公益的活動に対してであったに違いありません。信徒たちは「一教団のため」などではなく、「日本の未来のため」「世界の平和構築のため」に身を投じ、私財を捧げてきたのです。

 しかし、この運動の本体、現家庭連合(以下、教団)本部はある段階から、本来の方向性を見失い始めました。教祖を絶対的存在として信奉し、世界をその影響下に抱こうとする、極めて宗教色の強い「教団」と化してしまったのです。少なくとも、多くの二世たちの目には、そう映っていました。教団内の豪華な建造物の建立や、教勢を示すための華々しい大会を見ながら、彼らは言いました。「我が家は単に一教団の利益と宣伝のために犠牲を払ってきたのではなかったはずだ!」と。

 語弊がないように補足するなら、UPF(天宙平和連合)をはじめ、対外的な活動を展開している諸機関、現場の各部署としては、教団のプロパガンダなどではない、純粋な公益目的での活動を推進しようとしていたに違いありません。しかし、現教団本部、上層部の目的は違いました。それは皆、韓鶴子(ハンハクジャ)総裁(故・文総裁の妻)の権威を高めるためであり、教団内の求心力を高めるためでした。

 安倍元首相は愛国の志と平和を願う思いからメッセージを送ってくださったに違いありません。しかし、教団はそれをあたかも、安倍元首相が現教団を支持しているかのようにして宣伝した―。献金被害者に、深刻な誤解をもたらせた原因はそこにあったと言わざるを得ません。この方は、この教団の問題などに巻き込んでいい方では、絶対にありませんでした。

家庭連合の名称変更と本来の方向性

 90年代半ば、日本を除く全世界の「統一教会」が「家庭連合」へと看板を切り替えます。それは、一部の報道で言われているような「正体隠し」の手段でもなければ、現教団が述べているような単なる「名称変更」でもありませんでした。それは統一運動のその後を方向づける、抜本的な「体制転換」を意味していたのです。

 即ち、「教会」が中心となって宗教的教えを広げる宗教組織から、「各家庭」が主体となって理想家庭作りを進める運動体への大きな転換を意味していました。したがって、旧・統一教会、即ち中央集権型の組織体制(献金体制を含む)は本来、ここで終幕を迎えるべきだったのです。2015年の名称変更を巡る問題の本質は、ひとえに、旧・統一教会が何一つ「実体」を変えることのないまま、名称だけを変更しようとした点にあったのではないでしょうか?

 かつて、この教会の組織文化を、本気で改革しようとした人がいました。教祖を過剰に神格化し、教会への従属を求め、信徒を組織の指示命令に従わせるような組織文化を根底から覆し、一人一人が「神のもとの人類一家族」実現というビジョンに生きる、本来の統一運動を再建しようとしたのです。それが、ここ十数年にわたり、現教団から排斥されてきた文総裁の三男、文顯進(ムンヒョンジン)氏でした。彼は本来、日本の献金問題をも解消しようとしていたのです。

 当時の若手リーダーは皆、その改革運動に希望を抱いていました。が、これを「体制への脅威」とみなした教会指導部(特に韓国上層部)がこれを阻み、顯進氏の言動や指導部の陰謀に対する同氏のリアクションをことごとく「文総裁への反駁」と仕立て上げながら、教会史上、前例のない内部迫害へと駆り立てていきました。

 顯進氏は家庭連合を追われた後も、変わらないビジョンと信念をもって、宗派を越えた平和運動を進めています。当時、同氏を排して家庭連合を掌握した七男・文亨進(ムンヒョンジン)氏の今の在り方(現サンクチュアリ教会)や、韓総裁の神格化と教権強化を進める現教団の現状等と客観的に見比べるなら、誰が統一運動の本来のビジョンを追い続けているかは自ずと明らかになるに違いありません。

誇りある統一運動の回復を願って

 私は本来、家庭連合の一責任者として、最後まで教団の負の遺産を負い、その改善に努めるべき立場だったのかもしれません。しかし、教義の問題、献金の問題と合わせ、長年にわたる顯進氏への排斥行為に異議を唱え、教団方針に反駁する声を挙げたかどで解任されました。

 現教団に対する怨恨などはありません。ただ、残念でならない思いはいまだ拭いきれません。家庭連合の改革が半生の願いだったからです。信徒が誇ることができ、また二世たちが、親たちのしてきたことを誇ることのできる、そんな家庭連合であってほしいと願い続けてきたからです。

 しかし、現教団について冷静に見つめるなら、内部からの構造改革は難しいと思っています。これは私自身の実感です。せめて、今回の痛ましい出来事が、現場教会と信徒たち、二世たちの解放につながる「変化」の切っ掛けとなることを強く願います。数多くの人々の悲痛な訴えや犠牲が報われなければならないと思うからです。

 同時に、この間、現教団の問題報道を通して、文総裁の生涯や統一運動の本来のビジョン、そしてこの運動に信頼を寄せてくださった人々の思いまでもが毀損されていくことが心痛く思えてなりませんでした。どうか、多くの信徒たちが心を尽くし、生涯を捧げ、信仰と情熱を燃やしてきた統一運動の精神と、この運動に信頼を寄せ、力を投入し、エールを送ってくださった、心ある方々の愛国の志や平和を愛する思いが正しく伝わることを切に願ってやみません。

 最後に今一度、安倍元首相のご冥福をお祈りすると共に、もう二度と今回のような痛ましい悲劇が繰り返されないことを、また数多くの方々の心の傷が一日も早く癒されることを、心からお祈りいたします。

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