2018.09.24(月)
嫁ぎ先の家族と一緒に祭祀を捧げて時間を過ごしてから「安市城」という映画を見た。全然内容も知らずに期待もしていなかったが、映画が始まって主人公の楊萬春の態度を見る度に顯進様とお父様が重なって見え始めた。
「城主は安市城それ自体」という言葉が全てを説明した。本当にそれこそがリーダーだ、という感じだった。城主はリーダーとしての責任が別にある。愛する全て、それを守る為に自らがまず完全投入する。その姿を見て、城民たちが自然にリーダーの前に一つになる。「一つになる」とは、そういうことだ。「一つになろう!」と声を高めて団結するのではなく、真心から一つになりたくて寄り集まることだと思う。城主を信じて自分の位置で責任を果たすこと、熱心に城を守ること、それが指導部の責任であり、公職者の責任だ。城主は実は最も大きな責任を果たす存在だ。下でどんなによく闘っても、城主が失敗したり、城主が怠惰だったり城主が怠けていたら出来ない。城主がまず完全投入していた。真なるリーダーだと思った。そういうリーダーに会ったから、穴掘り工たちも自分の命まで捧げて城主の為に、安市城の為に尽くすことができたのだと思う。
その中で「サムル」という人の役割が最も率直であり、この時代の二世たちがなるべきではないだろうか、と思われた。サムルは安市城の城主である反逆者の楊萬春を殺しに行くが、楊萬春に向い合えば向い合うほど「反逆者」「背信者」というタイトルには相応しくない人に思えてくる。時間が経つほど疑いの思いは消え、城主を城主として認める彼「サムル」の立場はあまりに共感できた。そしてサムルが再び高句麗の陣営に行って淵蓋蘇文に「彼は絶対に反逆者ではありません。ただ単に一人の高句麗人に過ぎません」と言って訴える時には、命をかけて証すほどに城主を真なるリーダーとして認めたのだと思った。
その場面を見た時、同じことの為に闘う人に刀を向けている家庭連合が目に浮かんだ。顯進様も現在、反逆者や背信者というイメージが着せられているが、そういう選択が神様のみ旨の為の選択をしたのであって、自分の利益や自分の欲望の為ではなかったはずだ。そしてそれは外には見えない。彼が活動することに、その中で直接向い合うべきだと思った。映画の中の「サムル」が経験したように…。
それなら今、家庭連合が本当に神様の為に進んでいて、神様のみ旨を喪失していなかったなら、顯進様を拒否する理由が一つもないのだ。映画を見ている間、横に座っていた主体者を叩きながら「気が狂いそうだ!!!もう一度見る?」と叫んだ。恐れのために現実から遠ざかろうとする時、ただ単に「お母様がおられるので」という自己合理化をしようと思っている時に、この映画は私に諦めるなと言っているかのようだった。リーダーとは何なのか。リーダーが反逆者として誤解を受けるほどに、それほどにもっと守るべきだった信念とは一体何だったのか分かった時に確信した。神様のみ旨を心配するなら、これ以上異常なデマに動揺することなく、その方に向い合って見るべきだと思った。