統一家の兄弟たちのための祈り
第4章 序文
草創期の食口たちは、真の父母様と同じ時代に生きているという栄光と喜びに酔いしれて生きていました。遠くを見る必要もなく、私自身の人生を振り返って見るとそうです。あえて言うならば、真の父母様と共に生きてきたというだけでなく、真の父母様の愛によって生まれ変わったのがまさに私という存在なのですから。その愛の絆を、世の中の誰が何によって絶つことができるというのでしょうか。ある日、私が住んでいたアパートの隣の棟に何年も住んでいながら、連絡もしていなかった72家庭の夫婦が訪ねてきました。引越しすることになったものの、挨拶もせずに引っ越してしまうのはよくないと思ったということで、お茶を飲みながら一時を共にしたことがありました。すると翌日、その夫人が、通っていた家庭連合の婦人たちに、「郭会長の家のリビングに真の父母様の大きなお写真があってびっくりした」と言ったそうです。ここまで組織的に神様や真の父母様から離れた人間であると、後ろ指を指される境遇であることを改めて実感しました。
無限に深く広い真の父母様の愛を、何時いかなる時も忘れたことはありません。それは、私の人生を終える最後の日まで永遠に忘れることはないでしょう。
顯進様と私のことを「お父様から離れた者」と非難する人は多いです。顯進様の場合は、別途、お話し致します。
理由はともかく、統一運動の最高指導者の一人として、お父様に最も近くで侍った祝福家庭の先輩として、今日の惨たんたる事態に対して責任を感じ、天の前に深く悔い改めるばかりです。
私は揺るぎなく信じています。
真と偽はいつの日か必ず、明らかになるということを。
神様の摂理の中で、全ての不条理が事必帰正でその位置が定着することを。
この章では、第3章では十分に明らかにできなかった、私が直接経験した内容を記録しようと思います。特に2009年頃、お父様と私との間にあった出来事を重点的に扱っていきたいと思います。
その頃、お父様から「理由の分からないお叱り」を突然に受けることが余りにも多くありました。今になって振り返ってみると、それはお父様の周囲に存在した不条理な勢力による結果でした。彼らによる口にすることもできない偽りで、高齢なお父様の恩寵をぼやかし、摂理を翻弄してきたためでした。
今まで統一家に発生した恥ずべき葛藤と混乱に対して、私は長い間沈黙を守ってきました。息が詰まるような苦痛の伴う時間でした。それでも口を開いて真実を明らかにする勇気はありませんでした。ともすれば、真の父母様と真の家庭の内的な事情を、赤裸々に明かさなければならない立場だったからです。
しかし、もはやこれ以上、沈黙を守ることができないように思います。これまで私は慎重な立場を堅持してきましたが、明らかにすることを避けることができないように思います。統一家の状況が、残念なことではありますが、これ以上黙って見ていることができない状況にまで至っているからです。
遅くなりましたが、全ての真実を明らかにしようと思います。
そして、彼らがみ旨とお父様の名前を使って行った非原理的な行為から、お父様の崇高な名誉と位相をお守りしたいと思います。そして、これは単純な葛藤ではなく、神様の摂理全体を揺るがす天宙史的な紛争であることを明らかにしたいと思います。
2009年スペイン・ピースカップ大会の悲喜
2009年スペイン・ピースカップ大会の悲喜
2009年は、第4回ピースカップ(PEACE CUP) (*7) 大会がスペインのアンダルシアで開催された年です。
開催地がどこなのかということだけで、その年の大会は大変な関心と話題の中心になりました。サッカーにおいてスペインとはどのような国でしょうか。FIFAランキング1位に何度もなったレアル・マドリードや、FCバルセロナといった地球最強のクラブを保有するサッカー大国スペインでピースカップ大会を開催するということは、まるで第三世界の国家の誰かが、突然大韓民国のソウルに訪ねてきて、テコンドーの世界大会を主催するというようなものでした。
FIFA(国際サッカー連盟)の承認なくしては、誰も勝手に国際サッカー大会を開催することができないという現実の中で、FIFAは容易ではない過程を経て、ピースカップ大会の開催を承認してくれました。ピースカップの国際的な価値をFIFAが認めたということです。
ピースカップを初めて準備した時、私は韓国プロサッカー連盟の会長ではありましたが、その資格でなんとかFIFAのブラッター会長に会い、お父様が指示されたピースカップ大会の公認を受けることができました。
不可能に近いほど難しいと言われるFIFAの公認を受けることができたのです。
国連加盟国よりも多いのがFIFAの加盟国ですから、FIFAの会長の国際的な地位や実権は大変なものです。専用機に乗ってどこかの国に行くにしても、首相や大統領に次ぐ礼遇を受けるほどです。そのようなFIFAの会長の日程にやっとのことで合わせて訪ねていくと、ちょうどその場にAFC(アジアサッカー連盟)のハマム会長もいました。ピースカップの未来のためには、アジアサッカー連盟の会長も越えなければならない壁でしたので、ちょうどよかったと思いました。FIFAの会長と話をしながら、自然にハマム会長も同席することになったのです。
ピースカップ(Peace Cup)は文字通り、平和のための国際サッカー大会です。「地球上の平和理想実現のためのサッカー祭典」に焦点を合わせて、ブラッター、ハマム両会長に、熱心に大会の目的と価値を説明しました。幸いにもブラッター会長が心を開いてくれました。そのようにして、FIFAが公認するピースカップを開催することができたのです。
その場にいたAFCのハマム会長が、その後、連絡をしてきたことがありました。「平和のためのサッカー」という私の説明に感銘を受けたと言って、AFCの「社会責任分科委員会」の委員長に迎えたいということでした。アジアにどれほど多くの国がありますか。その多くの国のサッカー関係者が皆欲しがっている委員長の座を快く提案するとは、ピースカップに対するお父様の深い思いが多くの人たちを感服させたようで、私自身もどれほど嬉しかったか分かりません。
その後もハマム会長は、韓国で開催された女子ピースカップ大会に来て祝辞をしたり、スペインにピースカップが進出できるように支援してくれるなど、様々な面で協力してくれました。
スペインでのピースカップが成功すると、その後は、イギリス、イタリア、フランス、ドイツといったサッカーで有名なヨーロッパの国々を回ってピースカップを開催することが、お父様の計画でした。サッカーを愛する多くの人々に喜びを与えるピースカップ大会を通して、真なる平和主義者として、本来のお父様の位相を全世界の前に堂々と現わそうという青写真でした。
7.鮮文平和サッカー財団が主催するピースカップは、2003年に第1回大会が「ピースカップコリア」として開催されて以来、2005年の第2回大会、2007年の第3回大会も大韓民国で開催された。2012年の第5回大会が開催されたところも、大韓民国の水原であった。ワールドカップとは異なり、大陸別の国家代表チームではなく、世界の代表的なプロサッカーチームが参加する大会である。
替わった訓読会の時間
FIFAの副会長でもあったスペイン・プロサッカー連盟会長の許可と開催地であるアンダルシアの体育部長官の協力を得て、2009年7月24日、ついにスペイン・ピースカップ大会(2009.07.24~8.03)が開催されました。
外的には特に支障もなくほぼ完璧に行われた大会でしたが、内的には恐る恐る薄氷の上を歩くようにあらゆる困難を何とか切りぬけた大会でした。
2009年は天宙史的葛藤が本格化し、私と顯進様を誤解されるお父様の不満が著しく現われた時期でした。大会期間中、お父様は理解しがたい指示と要件を出され、連日のように試練されました。以前のピースカップの時にはまったくなかった事だったので、私としては戸惑うしかありませんでした。それでもお父様の指示なので最善を尽くして受け入れ、どうしても無理なことは、あらゆる叱責を受けながら、やっとの思いで越えなければなりませんでした。
最初の試練は7月22日、スペインの現地で大会のための最終的な準備で忙しかった頃に始まりました。
当時、お父様の一行は、スペインに向かわれる途中、モナコにしばらく滞在されました。その日の朝、お父様から電話がありました。電話の向こうからご不満の様子がそのまま伝わってきました。
「ピースカップ開幕の時に、競技場で訓読会をするつもりだ」
突然そのように語られました。韓国大会の時にはなかった指示でした。
「お父様、まだそのような雰囲気ができていません。何も考えずに集まったサッカーに熱狂するスペインの観衆に突然訓読会をされれば、関係者はとんでもないと否定することでしょう。それは後で雰囲気を見て…」
「こいつ! できないというのか」
「お父様、今回は難しいと思います。ご理解していただけないでしょうか」
叱られながら、やっとのことで通話を終えました。
その日の昼、金孝律氏から再び電話がありました。
「明日(23日)、お父様が到着される予定ですが、その日の夜に歓迎晩餐会を開催するようにとのことです」
「分かりました。他には何かありませんでしたか」
「その場に、各クラブのフロントや監督、指導者たちを全員招待するようにとのことです。そこでお父様がみ言葉の訓読をされるそうです」
私としては、戸惑うしかありませんでした。スペインにまで来てピースカップを開くだけでも幸いなことなのに、クラブのフロントと監督をいきなり集めろとは。権高な人たちは、鼻で笑って関心すら持たないことでしょう。
電話を切るや、忙しいスケジュールをすべて後回しにして、空港に向かいました。モナコに行き、お父様に直接事情をお伝えしなければと思ったからです。空港で慌ただしく出国手続きをしていると、お父様から再び電話がありました。
「来る必要はない」
「お父様、私が行って詳しくご説明を」
「明日になれば会うのに、忙しい者が何しにここまで来るんだ。来なくていい」
直接お会いして事情を申し上げる機会も、与えてくださいませんでした。
他にできることがありませんでした。とりあえず、おっしゃられる通りに進めました。お父様が来られれば訓読会をすることができるように、晩餐会場を準備するのが急務でした。その一方で、開会式場であるスタジアムにお父様をお迎えするVIPルームとお父様の座席、スペイン指導者の座席の配列を決めて、スカイボックス(SkyBox)空間と警護、動線、真の家庭の座席など、開会式のための全ての準備を、夜遅くまで全て点検しました。
お父様は、7月23日の午後遅くに到着されました。
歓迎晩餐会は、お父様が願われる基準には及びませんでしたが、それなりに各クラブ関係者と、スポーツ、文化、芸術界の人士など、200人ぐらいが集まりました。
まず私が挨拶をした後、お父様を壇上にお迎えしましたが、お父様は自叙伝出版記念会で語られたみ言葉を訓読されました。私たち食口の前でされるように補足説明もされました。
本当に時間がかかりました。その日の行事は美術展覧会のオープンイベントを兼ねたものであり、そのために来たVIPが多かったのです。参加者の半分が不機嫌な表情をしながら席を立ちました。それでも韓国から来た李衍澤(イ・ヨンテク)体育部長官、李斗植委員長などは、有難いことに最後まで席に座っていてくれました。
冷や汗が出る晩餐会が終わり、テープカットと記念撮影まで終えた後、お父様は宿泊施設に向かわれました。残りの片付けと整理を終えてホテルに戻ったのは午前1時頃。その時、あるスタッフからお母様のみ言葉が伝えられました。
「今日、お父様は遅くに到着され、長旅にみ言葉まで語られたので、明日の朝の訓読会は5時ではなく7時にすることになりました」
少し休んで午前4時40分頃に起き、その日のスケジュールを準備していました。普段からの習慣でもありましたが、大会が心配で長く眠ることができませんでした。すると5時に連絡がありました。
「お父様が訓読会場でお待ちなのに、なぜ来られないのですか」
これはどうしたことでしょうか。幸いなことに私は準備ができていたので、一番最初に走って行きました。お父様に朝の挨拶をしましたが、ちょっと見た限り、とてもお怒りのようでした。後から人が入って来るごとに、「外国に来たからといって、訓読会の時間を守らなくてもいいのか」「誰が勝手に訓読会の時間を変えるのか」と叱られたのですが、「昨日、お母様がそうおっしゃいました」とは言うことができませんでした。誰かが経緯を報告するだろうと思いました。ところが金孝律氏やお父様の側近の指導者は、その状況で何の経緯説明もせず、顔色をうかがってばかりいました。そればかりか、声が全部聞こえる扉の向こうのすぐ隣の部屋にお母様がおられたのですが、やはり何も語られないのです。指示を下した方が出てきて、何か一言でも言ってくだされば簡単に解決できることなのにです。早朝から席に座ることもできず、立ったまま叱らていることを知りながらも黙っておられるのに対して、やや薄情であるように思えましたが、積極的に弁解することもできずに叱られていました。最近になって考えると、私自身、実にバカのように生きてきたと感じることもあります。そのようにしてその日の朝の訓読会では、お父様は、4時間もの間私たちを立たせて、自叙伝出版記念会でのみ言葉を訓読され、補足説明を続けて語られました。
その日はピースカップの開幕式のある日でした。
スペインは本来、サッカーを遅い時間に開始するので、夜10時に開幕宣言がされました。開会式にはスペインの指導者とアジアサッカー連盟のハマム会長をはじめ、韓国の朴實(パク・シル)議員、李善民将軍、李衍澤長官、金琫鎬(キム・ボンホ)前国会副議長といった多くの人士が参加しました。開幕戦の試合を観戦されたお父様は、翌日、ドイツに向かって旅立たれました。
胸が痛むお父様の誤解
その翌日(26日)、ドイツにいらっしゃるお父様から電話がありました。競技場でサッカー関係者も含めて観客全員に祝福を与える構想について語られました。とても行うことのできない指示でした。これといった道理もなく、ただただ叱られるしかありませんでした。
7月31日は準決勝の日でした。この日は真の父母様も競技場に来られて観戦されました。前半戦が終わってから父母様が観戦されているスカイラウンジに行って、しばし父母様に挨拶をしました。するとお父様がまた難しい事を語られるのです。
「試合が終わったら、運動場に降りて行って、ロナウドのような代表選手たちと握手して激励し、記念写真を撮ろうかと思うので準備をしなさい」
目の前が真っ暗になりました。後半戦がすぐに始まる状況でもありましたが、問題は時間ではありませんでした。欧州や南米の世界的な選手たちにはそのほとんどが、身辺保護のために膨大な額の「対人保険」がかけられています。選手の身辺に何かあった場合、想像を絶するようなお金が支払われるシステムなので、公式的なプログラムを任された者でないかぎり、そのような選手たちの近くには行けないのが現実でした。
そのような事情をなんとか申し上げると、お父様は私の話を聞こうとはされず、また叱られるのでした。申し訳ない思いでした。ピースカップの主人であられるお父様に、望まれることをして差し上げることができないことを、重ね重ね申し訳なく思いました。
午後10時に始まった準決勝が終わり、午前0時をはるかに過ぎてホテルに戻りました。すると幹部が全て召集されていました。その場で、午前5時の訓読会まで夜通し叱責されなければなりませんでした。
内的困難の中にあっても、8月3日、決勝戦と共にスペイン・ピースカップのフィナーレの幕が下りました。
その翌日、午前5時の訓読会の時間になりました。いつもの大会の時には、祝勝会をして、ケーキカットもし、責任者に報告もさせてという雰囲気ですが、この日は何か違いました。ケーキカットの後、訓読をされた後ですぐに空港に向かわれたのです。
スペインでのピースカップを振り返ってみると、サッカーの本場スペインで世界的なプロチームが競う大会を行ったということだけでも、奇蹟のような大会であったと思います。神様が役事せずには不可能な大会であったと思います。内的には紆余曲折がたくさんありましたが、メディアを通して世界80ヵ国のサッカー関係者に、お父様の平和理想を知らせることができたので、本当に感謝であり喜ばしい祝祭でした。特に世界の若者たちがピースカップを通して平和運動をされるお父様を知り、お父様に対する良いイメージを持ったことは、大会のために長い間、昼夜を問わずに苦労してきたスタッフ全員にとって大きな希望でした。
誰よりもお父様は、いつもピースカップの主人であり、誰よりもピースカップを愛された方でした。
ところが、何よりも残念であり胸が痛かったことは、お父様が苦労して築かれた「サッカー摂理」全体がお父様の聖和以降、中止されてしまったということです。本当に胸の痛いことです。
お父様の願われる通り、継続する神様の役事の中で、ヨーロッパ地域、さらには全世界を巡回してピースカップ大会が続いていればどうなっていたでしょうか。世界のサッカー史にお父様の名前が大きな足跡として残ったことでしょうし、お父様の平和運動にも大きく貢献したことでしょう。
スペイン・ピースカップは、私にとって大きな生きがいと共に、胸に痛みとして残る大会でした。この歴史的な大会を前後して、お父様が以前とは違って激昂されるお姿にたびたび触れるようになったからです。
どうして、そうなってしまったのでしょうか。
振り返って見ると、いつの頃からか、お父様が何か誤解しておられるように思えました。スペイン・ピースカップ大会を、「お父様を差しおいて、郭錠煥が顯進様と2人で開催しようとしたのではないのか」と考えておられるというような感じが、私に伝わってきたからです。
どうして、そのような誤解をされるようになったのでしょうか。
いったい誰が、そこまでお父様を誤解させるようにしたのでしょうか。
私にはいまだ、その答えが正確にわかりません。
なぜ顯進を連れて来ないのか
なぜ顯進を連れて来ないのか
スペイン・ピースカップが終わり、2009年下半期になると状況はさらに悪化しました。私に対するお父様のお叱りと叱責が以前にも増して増えると共に、その程度がますますひどくなっていきました。訓読会でもそうでした。お父様の前にいるのが恥ずかしくなるほど、ひどく叱られることが1度や2度ではありませんでした。
お父様の公式の場における理解しがたいようなお叱りは、2006年から少しずつ増え始め、年を経るほど頻繁になり、2009年にはそれによって、とても言葉では表現できない困難を経験しなければならなくなりました。外の世界ではなく摂理の中心でのことですから、より耐え難く困難なものでした。父母様に侍って訓読会に参加した回数だけ見ても、私より多く参加した人はごく少数だと思います。訓読会に一日も欠かさず参加するということが、簡単なことでしょうか。
ソウルから天正宮の訓読会に行こうと思えば、毎日午前3時30分には起きなければなりません。仮にも責任者ですから、私の席はいつも最前列の真ん中、お父様とほぼ向き合う位置です。そのような席でほぼ1年以上、お父様の叱責に耐えなければなりませんでした。もちろん、そのような状況でも、私はただの一度も文句を言ったり言い訳をしたりしませんでした。私も疲れましたが、それよりもお父様のお体に無理がくるのではないかと、どれほど心配になったことでしょうか。
そのようなお父様の変化の裏には、お父様の側近の人たちによる良くない影響がありました。またもう一方では、以前と大きく異なるお父様の気力や体力、判断力がありました。
この場で全てのことに言及することができるでしょうか。ただ、お父様がどうして私に対してそれほどまでに怒り叱られたのか、その背景と原因を推察することのできる理由のいくつかを明らかにしたいと思います。
2009年8月18日の午後3時頃でした。お父様が呼んおられるということで、ソウルのセントラルシティにある中華料理店に行きました。そこには、國進様や亨進様をはじめとする主要幹部30数人が、真の父母様と一緒にいました。ラウンドテーブルの食卓が3つありましたが、私は父母様のご家庭と同じテーブルに座ることになりました。
その場でお父様は、私と私の家庭、顯進様までひっくるめて、一方的に審判されるみ言葉を長く語られました。なぜかひどく気分を悪くされていて食事すらされず、なんと3時間近くも叱られました。結局、お父様は食事をされずに「天正宮に来て食事をしなさい」というみ言葉を残されて席を立たれました。
その場で私は何も言い返すことができませんでした。何人もの幹部たちがいるところで、どうしてお父様のみ言葉に対して反論できるでしょうか。叱られるままに全部聞いて座っているしかありませんでした。この上なく胸が痛む一方で、このような疑問が頭をもたげました。
「お父様の心は、なぜこのようになられたのだろうか」
「私と私の家庭、ましてお父様のご子息である貴い顯進様をどうして、そのように誤解されるのだろうか」
その日はとても天正宮に行くことができませんでした。誰に話すこともできず、携帯電話の電源さえも切って車に乗り、春川方面のどこかに向かう途中で、あるひっそりとしたペンションに立ち寄りました。連絡をいっさい切ってそこで3日間祈祷し、瞑想しながら心の整理をしました。50年以上公的な生活を過ごしながら、このようなことは初めてのことでした。
お父様は、自分の息子をこんなにもご存知ないのか
これ以上、公職はできないという思いになり、その決意をお父様にお話ししようと清平に電話をしました。
「今、お目にかかりたいので、お父様にお伺いください」
お父様がいらっしゃるお部屋に訪ねていきました。そこにはすでに金孝律氏、朱東文氏、金起勲氏たちがいました。
「どこに行ってたんだ」
お父様は平穏に私に対されました。数日前とはまったく違うお姿で。しかし、私の心は穏やかではありませんでした。
「お父様、私は祈祷しながら時間を過ごしました。その中で様々な事情を考え悩んだ末、戻ってきました。最近になって、お父様は私を見る度にお怒りになり、お叱りになり、事実と異なることも多くありましたが、一つひとつ言い返すことはしませんでした。お父様が私に対される基準が以前とはとても異なるため、私が続けて公職を務めることは様々な面でお父様にご迷惑になると思います」
「何?」
「3日間祈って悩みました。そして、全ての公職から離れることに決めました。どうか許可してください」
「何を言っている。お前でなくて誰がすると言うんだ! 」
お父様は続けて私の心を慰められましたが、そのみ言葉は私の耳に入りませんでした。今までお父様のみ言葉に応えないということはありませんでしたが、この日ばかりは、私の決心は固く、動じませんでした。
ついにお父様は激怒されました。瞬間、火山が爆発したかのように叱られ、息が止まってしまうのではないかと思えるほどのご様子でした。とても怖くなりました。このままではお父様の健康が突然、悪くなるのではないかと思いました。仕方なく私は自分の主張を控えて、一歩退くことにしました。
「はい、それではお父様のご意思に従います。ですが責任を完全に減らしてください」
それから3日後の8月24日、朝食の食卓でお父様が語られました。
「郭錠煥、家族を連れてモンゴルに移住しなさい」
初めて語られたことではありませんでした。
「全ての公職から離れてモンゴルに行って暮らしなさい。家族を連れてモンゴルに行き、じっとしていなさい」
その後も何回もモンゴルの話を取り上げて、繰り返し叱られました。そして10月27日、ついにビザが取れてモンゴルに行きました。
モンゴルでの生活に適応しかけていた10月31日の早朝、お父様から電話がありました。
「そこで何をして、うつ伏せているのか」
お父様が電話を下さる時によく使われる表現です。
「はい、ここで平和大使に会い、食口たちを指導しています」
すぐに声が大きくなりました。
「ここのサッカー連盟に関することも、ピースカップも、そんなことを考えもせずにいるのか。早く来なさい。明日すぐに」
いつもしてきたように、事理を考えず、飛行機に乗って韓国に戻って来た次の日、天正宮に挨拶に行きました。私を座らせてお父様は、それなりに良く対してくださいましたが、次の日の訓読会では、鮮文大学校の理事長職を辞めるようにと言われました。私の最後の代表的な公職でした。
このような曲折が続き、私に対するお父様の叱責とお怒りはそれからも続きました。
お父様が私を叱られる裏には「顯進様に対する大きな不信と誤解」が主な要因になっていました。お父様は、顯進様がお父様の言うことを聞かずに、勝手なことをしていると考えておられました。公的資産を持って出て行き、独立した団体を作ってまで、お父様の位相に挑戦していると考えておられました。それどころか、私と私の家族全員も同じ仲間で、さらには私の家族ゆえに顯進様が間違った道を歩んでいると誤解されていました。
ですからお父様は、私を見る度にひどく叱られ、急き立てられたのです。
「どうして顯進を連れて来ないのか」
そんな時には、私の心は張り裂けるような心情でした。
「お父様が直接息子を訪ねられればいいものを、どうして私に連れて来いと言われるのですか」
「お父様は、ご自分の息子をどうしてこんなにもご存知ないのですか」
「私が顯進様を誤った道に導いているというのが、理にかなった話でしょうか」
「顯進様が私の言う事を聞くような方でしょうか」
私の中ではそのような弁明が繰り返されていましたが、心の中にある多くの事をたった一言も話すことすらできず、ただうつむいているしかありませんでした。そのような中にあっても、周囲の指導部の人たちは、お父様の前で堂々とためらうことなく私を問い詰めました。そうすることによって、お父様の私に対する不信と誤解をさらに広げようとしたのでした。
結果の如何にかかわらず、黙々と服従するだけの姿勢ではなく、その時その時に、より積極的に、理解していただけるように簡単にでも弁明していればどうだっただろうか。そうしていたら、その後の結果が少しは変わっていたのではないだろうかと、後悔もしました。
9,200万ドルをどこに使ったか明らかにしろ
その年の11月頃、お母様の指示で米国に行って顯進様に会ってきました。
亨進様がUPFの世界会長になった後、前責任者である顯進様が平和大使たちにご自分の立場を明らかにする公開書簡を発表した直後でした。お母様が私に語られました。
「郭会長は米国に行って来なければならない。顯進が、なぜそうしたのかを調べて、収拾して来なさい」
そうして米国に行って顯進様に会って戻って来て、11月14日、再び訓読会に参席しました。その日もお父様は、朝食のテーブルでも私と私の家庭に対して非難し叱られました。さらにその日は、金孝律氏が取り調べでもするかのように、このように言いました。
「日本から劉正玉氏が送った9,200万ドルを、郭会長がどこに使ったか明らかにしなければなりません」
日本から送られてきたお金を、私がどこかに横領でもしたかのような言い方でした。本当に横柄な態度だという思いがしました。それまで日本から支援を受けたのが9,200万ドルだけだったでしょうか。それよりはるかに大きな金額が数年間に渡って支援されてきたという事実を、その場にいた金孝律、劉正玉の2人の責任者はよく知っています。様々な用途の資金が、様々な形で入ってきましたが、私が直接受けとったものは一銭もないということを、彼らも知らないはずがありません。そんなお金が私に直接来ることはないのにもかかわらずです。それを、唐突に「9,200万ドルをどこに使ったのか明らかにしなければならない」とは、そのように言う意図が余りにも見え透いていて、不遜ではありませんか。
ですから私ははっきりと答えました。
「日本から送られてきたお金はそれだけでしょうか。私に具体的に、いついくら送ったのに、それをどこに使ったのかと尋ねてこそ、私が答えられるのではないでしょうか。具体的に教えてくれれば、答えましょう」
そう言うと何も言えませんでした。
お母様の指示で米国に行って顯進様に会ってきたことを、その日、お父様も知っておられたようですが、行ってちゃんと会ったのか、どのような話をしたのか、もしかして何か伝言でもあるのではないかなどとは、何も聞かれないのです。お母様も同じでした。何かが変でした。指示の下で顯進様に会って来て、その内容を報告するための場であるのに、その重要な問題を取り上げることすらされないのです。
そうしているうちに、まったく理解できない事を語られるのです。
「今日、統一教会に起こった事態の責任をめぐって、あなたの家庭が誤ったことをしたという内容で新聞に公告を出しなさい」
そう言って席を立たれたのです。
耳を疑うような状況でした。
本当に、胸が張り裂けるような、崩れ落ちる心情でした。
私の名誉や威信が問題ではありませんでした。万が一、そのような公告文が出た場合、世の中が家庭連合をどのように考え、お父様をどのように見るでしょうか。
さらに、神様の摂理史において、それがどのように評価されるでしょうか。
私が過ちを認め、それを新聞に出せということは、すなわち、私がこのような過ちを犯したので顯進様があのように誤ったことをしたと、世の中に知らせろという話ではありませんか。
お父様に代わり、私が顯進様が間違っているということを公的場で批判しろという話ではないでしょうか。
私が侍る方は神様の恨を解放し、全人類を救うために真の愛の人生を生きてこられた方です。怨讐までも抱いて許してこられた方です。
そのような偉大な方が、どうしてご自分の最も忠実な息子のことを見間違えるというのでしょうか。
どうして、これほどまでに、見るに忍びない指示を下されるのでしょうか。
米国で会った顯進様は、変わることなく、神様のみ旨とお父様の願いを成就するために、正しく歩んでおられました。いまだ変わることのない摂理中心の孝子の中の孝子でした。追い立てられ、誤解されながらも、むしろ父母様を心配しながら涙される方でした。
それなのに、どうして周囲の人の言葉だけを聞いて、そのような息子を突き放してしまわれるのでしょうか。
私は、その後、幹部らが数人いるところで、お父様の指示について議論しようと言いました。
「そのような内容を新聞に大きく取り挙げれば、世の中は何と思うでしょうか。『それ見たことか、家庭連合が郭錠煥のせいで混乱しているな。そのような事実を本人が自白したんだ』そのように受け取ると思いますか。とんでもない」
「…」
「私と私の家庭がどのような過ちを犯したというのですか。言ってみてください」
幹部たちは私の言葉をただ黙って聞いているだけでした。
その翌日の訓読会では、相変わらずまた叱られました。指示したのに新聞に公告を出さなかったという理由のためでした。ところが、誰がどのように報告したのか、お父様が語られたのです。
「昨日、幹部会議をして、郭錠煥の言葉に幹部たちがとても失望したと言うじゃないか」
前日、私の話を黙って聞いていた幹部たちが「お父様のみ言葉に従わない郭錠煥の姿勢に失望した」ということでした。本当に呆れるばかりでした。しかし、お父様のみ言葉である以上、無条件におとなしく聞き続けるというのが、私の訓読会における日課でした。
誰がどんな偽りを言ってお父様を混乱させたのか
数日後の11月19日、アジアサッカー連盟の会議に出席するため、マレーシアの首都クアラルンプールに滞在していた時のことでした。韓国にいる知人が連絡をしてきました。その人が話す内容は、実に錯綜(さくそう)した内容でした。
「天正宮での朝の訓読会に参席したのですが、お父様は、昨日行われた亨進様のUPF世界会長就任式に関してとてもお怒りでした。お父様の許可も得ないまま行事を行ったと、亨進様だけでなくその場に参加した幹部まで叱責されました。そして、就任を取り消せと指示されました」
「…そんなことがあったんですか」
「はい、お父様は『郭錠煥と顯進が務めなければならない、お前たちがなぜ追い出すのか』『アベルUN復帰、ピースカップ、米国の摂理など、この2人でなくて誰が責任を持つことができるのか』と叱られました。お母様にまで『子供たちと一つになれなかった』と激しく叱られました」
UPF共同議長として大活躍をして来られた顯進様を事前に相談もなく追い出し、亨進様をUPF世界会長として発令したのが11月4日。それから2週間も過ぎた時点で、お父様も知らないうちに自分たちだけで就任式をしたというのです。ありえないことでした。
ソウルにもう一度電話をかけました。そしてお願いをしました。
「内容を詳しく聞きたいです。録音されたみ言葉をコピーして準備してください」
ところが、驚くような答えが返ってきました。
「難しいと思います」
「どうして」
「お母様の指示で、その日の訓読会のみ言葉の記録が全部削除されたのです」
「削除?」
お父様が訓読会を主管される時には、いつも歴史編纂委員会の職員がみ言葉を録音します。ですから、必要なみ言葉がある時は、歴史編纂委員会にお願いしてコピーしてもらいました。ところが、その日は訓読会が終わって父母様はお部屋に戻られましたが、お母様がすぐに戻って来られて、録音担当の職員を呼んで、「今日の訓読会のみ言葉の記録を全て消去しなさい」と指示したというのです。
これをどのように考えればいいでしょうか。
お父様のみ言葉をそのように簡単になくしてしまうとは。
その場にいた人が1人や2人ではないのに、どうしてそのような訝しい指示をされたのでしょうか。
その内容が、自分たちがお父様を利用してとんでもないことをしているという決定的な証拠になると、判断したのではないでしょうか。
内容といえば、11月4日「お父様の指示だといって」亨進様をUPF世界会長に立てたものの、それから2週間も経たないうちに、お父様がまったく異なるみ言葉を語られたということです。お母様もとても慌てられたことでしょう。
本当に残念なことです。
お母様はどのような状況でもお父様を守られ、お父様を中心に侍らなければなりません。
ところが直接介入して、事をより困難にしてしまわれました。
11月27日、マレーシアから帰国して再び訓読会に行きました。私を見てお父様が語られました。
「郭錠煥は、息子娘が刑務所に行って、面会するようになったらどうするか。郭錠煥も刑務所に行くかもしれないだろう」
お父様の口からそのようなみ言葉が出るとは、胸が痛くて、言葉に詰まりました。果たして誰が、どのような嘘をついて、貴いお父様の心をこれほどまでに揺るがしてしまったのでしょうか。
あえて申し上げるとすれば、私はそのように、道理もわきまえずに生きてはきませんでした。周囲の人から「残念だ」という声を聞くほどに公金の使用にはけち臭かったのです。公的な生活に追われて、子供たちと多くの時間を過ごすことはできませんでしたが、子供たちをいい加減に育てはしませんでした。そのような私と私の家庭を誰よりもよくご存知の方が、お父様でいらっしゃいます。
2001年、米国イーストガーデンでの万物の日の記念式典は、UTSを首席と次席で卒業された顯進様ご夫妻のお祝いも兼ねて行われました。これまでの卒業生全員と指導者たちが集まったその場で、真の父母様は足りない私の家庭を祝福家庭全体の代表家庭として表彰され、特別な祝祷までしてくださいました。さらに息子娘全てをみ言葉の通り、UTSを卒業させたと賞賛してくださいました。そして、参加者全員に私たち夫婦に敬拝するようにと言われました。少し経ってから、韓国の漢南洞での訓読集会でも同じ指示をされたお父様でした。
ところが、誰が、一体どのような偽りでもって、お父様を混乱させたのでしょうか。
2008年6月19日、天正宮での訓読会の時、私が書いた平和訓経(神経)の序文をよく書いたと称賛してくださり、「祝福あれ」と祝福してくださり、幹部たちに「郭錠煥に協力して一体となれ。郭会長の貴さを知れ」と語られました。さらに「家庭連合世界会長(亨進様)が分捧王を管理・指導するのではなく、郭錠煥と顯進がしなければならない。UPFと分捧王の使命は国家復帰である」と悟らせてくださいました。
1週間が過ぎた6月26日、天正宮入宮戴冠式2周年記念式と国際会議、そしてピースクイーンカップを成功裏に終えたと祝賀されながら、腕にはめておられた金時計を下賜してくださるという栄光をいただきました。それが2008年6月下旬の事です。ところが、誰が、どのような陰湿な方法で、郭錠煥とその息子娘たちは皆泥棒であり、さらには刑務所まで行くだろうと、お父様に信じさせたのかということです。
皮肉なことに、私は朝の訓読会で、お父様が私を叱責されるみ言葉を通して、不正な勢力がどのようにしてお父様の周囲を統制しているのか、あらゆる誤った情報を報告してきたのかを逆に確認することができました。
数日後の11月29日、金孝南訓母から電話がありました。「お母様が私に会いたがっておられる」という伝言でした。すぐに清平に行こうと車を準備させていると、再び訓母から電話がありました。
「お母様のみ言葉をそのままお伝えします。『郭会長はフィリピンに行って、顯進様がフィリピンで行おうとしているGPF国際大会に、デベネシア元国会議長が協力しないようにしなさい』と語られました」
デベネシア議長と私は、長い縁を結んできた間柄です。私が担当した国連関係の仕事もたくさん協力してくれましたし、顯進様の仕事も喜んで助けてくれる方でした。当時、私たちの内紛についてまったく何も知らない彼に、フィリピンまで訪ねていって「顯進様に協力してはいけない」と言えというのです。
お母様の屈折した了見の狭さを胸痛く実感した瞬間でした。
「お母様は、顯進様に対する母親としての慈愛の情をまったくお持ちでないのだろうか」
「顯進様に一言もなく、1年前には世界平和統一家庭連合の世界会長の立場に、また今回はUPF会長の立場に亨進様を立てられ、続けざまに顯進様にこのようなことをされていいのだろうか」
私は訓母に答えました。
「私には、そのような事はできません。考えて見てください。この大会は、顯進様が外部の指導者と共に、神様とお父様のみ旨のためにすることです。それなのに、この大会を支援している方に、私が何と言って協力しないようにと言わなければならないでしょうか。お父様と息子がお互いに対立していると言うのでしょうか。私たち内部の話を全部説明するのでしょうか。このような事が伝われば、お父様の国際的な地位と権威に、どれほど悪い影響を与えるでしょうか。本当に残念です。お母様のみ言葉は聞かなかったことにします」
お母様が、これほどまで介入される意図をまったく理解できませんでした。そのような仕打ちを理解することができませんでした。その裏に、さらに深い根本的な問題が潜んでいるということを、その時でもまだ正確には分かっていませんでした。
お父様の目と耳を覆う
「郭牧師! お父様はお歳も召されて健康も以前のようではなく、明日からは朝食集会をしないことにしたので、そのように理解し協力してほしい。お父様が用があれば呼ぶので、そのように理解してください」
2009年のある日、訓読会を終えた直後、お母様が語られたみ言葉です。
当時、お父様は89歳。
お父様は120歳になっても健康であると固く信じていた私としては、一言でいって衝撃でした。結局「このような日も来るんだな」と思いました。そのころは、行く先々で、お父様からひどく叱られてばかりいましたが、朝食集会を主管できないほどに健康がついていかないのだと思うと、本当に心が痛みました。
朝食集会の意味は非常に大きいものでした。単なる食事の場を超えて、摂理全般に関する会議を行う場です。各指導者から自然に業務内容の報告を受け、何かを指示するのも、その食卓で行われます。昨日何があったのか、今日は何を行うのかも、その場で議論されます。お父様が摂理現場の状況を正確に把握しておられたのは(自ら現場を巡回されることも好んでされましたが)、1年365日、一日も欠かさず幹部と朝食集会をされていたからでした。
朝食集会をこれ以上主管されないということは、もうお父様はこれ以上、各分野の活動について現場の責任者から直接聞くこともできず、指示することもできないという意味でした。近くにいる1人または2人の言葉に完全に頼って、間接的に主管するしかないという意味でもありました。そうでなくとも、ご高齢になられて現場の視察回数が減ったお父様が、今やソウルから遠く離れた清平の天正宮の中にのみおられて、近くにいる数人による報告に依存する状況となったのです。
「お父様が用があれば呼ぶ」というお母様の伝言を、私はそのまま信じていました。
その後、お父様と食卓で向き合う機会が著しく減り、直接お伺いする機会も徹底的に遮断されました。お父様と私の関係も徐々に遠くなっていきました。
私の最後の天正宮訓読会
私の最後の天正宮訓読会
2009年12月6日、その日を覚えています。
私の場所はいつものように最前列でしたが、この日の訓読会では私の両側に孫炳禹氏と劉正玉氏が座っていました。お父様が私の2人の息子を非難するようなみ言葉を語り始められました。
「郭錠煥がいつ、統一教会を売ってしまうか分からない。珍滿と珍孝が計画していることに、二世三世がついていくと思っているのか。孫炳禹、劉正玉の2人は、隣の人の子女や孫たちが将来どうなるのか見ていなさい」
惨たんたるものでした。引き続きお父様は語られました。
「郭錠煥はベーリング海峡トンネルの関係で、直接ロシアに行って交渉し、募金する考えなどするな。李龍欽にその仕事を任せて、3年ほど私の前から去りなさい」
その日、私は日記にこのような記録を残しました。
「私は生きておられる神様を信じる。私には足りないところが多いが、このような審判を受けるとは。いくら考えてみても、現在の環境の中でお父様の偏った視点と誤解を変える方法は見つからない。お父様の心をあのように否定的にした周囲の人たちは、後でどうなるのだろうか」
お父様が私に、お父様の前から去るように語られたので、訓読会が終わった後、私は訓母に会いました。訓母に正直な話をしながら、私の思いを父母様に伝えてくれるようお願いしました。
「お父様が私を見るたびに不愉快な思いになられるのを、訓母様もいつも見てこられたでしょう。今日、3年ほどお父様の前から去れとまで語られたので、これからは天正宮での訓読会には出席しないことを決心しました。私がお父様の前に現れないことは、お父様のお心とお体にも良いように思います。私自身も、これまで理解できない叱責をずっと聞いてきましたが、もう限界に来たようです。訓読会の参加者の80%以上は一般食口ですが、お父様が私を叱られるところを見せるのも、彼らの信仰にとっても良くないと思います。もう私は全ての公職から退いているので、天正宮での訓読会に必ず参加しないといけないという理由もありませんから、これからは家庭で訓読会をするようにします。このことを、そのままお父様とお母様にお伝えください。明日からは訓読会に来ません」
そのようにして、お父様に別れの挨拶を訓母に代わりにして、翌日からは天正宮の訓読会には行きませんでした。
私の肉身は、そのようにして父母様から離れました。
その日以降、残念なことに、生きておられるお父様のお顔を再び拝見することはできませんでした。
そして家庭連合は、私に「堕落した天使長」「サタン」という呼称を付けて、なんと10回以上も私を告訴・告発して訴訟を繰り返しながら、今でもなお非難し続けています。
まったく卑劣な新造語「郭グループ」
過去10年間、家庭連合は私を統一家の混乱の中心に立てて、私と私の家庭を罵倒するありとあらゆる偽りを作ってきました。堕落した天使長だのサタンだのという言葉を作って、じっとしている者を攻撃しました。
しかしそのようなことは、私の心には何の影響も与えることはありませんでした。それ以上の苦痛も、私は感謝の気持ちで超えることができます。
私は誰よりも、神様と真の父母様の恵みをたくさん受けた人です。本当に多くの愛と福を受けました。そんな私をねじったりよじったり、擦ったりしたところで、何が出てくるでしょうか。
どのような立場に立たされても、私の口からは原理以外のものは出てきません。
今でも私の思いと心情の深いところでは、お父様は泰山よりも大きな存在です。お父様のことを考えると、いつも私の心は限りなく涙でいっぱいになります。
そんな私を悪魔だと非難するならば、最後につまずくのは誰だと思いますか。
私は今日も残念な思いで、私に向かって非難の後ろ指を指す統一家の兄弟たちのために祈っています。
家庭連合で偽りで作られたものの中に、「郭グループ」という言葉があります。私を攻撃するためではなく、顯進様を蔑視して嘲笑するために作られた、信仰者としては想像もできないような卑劣な新造語です。
彼らとしては、神様のみ旨に一致して、正道の道を歩まれる顯進様が怖かったのだと思います。真実を知って顯進様に従う良心的な食口たちに対することも不快に感じたことでしょう。そこで作り出されたのが、実体のない「郭グループ」でした。そして、憎悪の対象を一つ作って、多くの人々の目と耳を覆ったのです。
彼らは私が顯進様をそそのかして真の家庭の問題を起こし、家庭連合に混乱を助長したというでたらめな話を、ためらうことなく続けました。このような悪質なフレームをもって10年間、私を罵倒しているのです。専門講師まで育成して、韓国、日本、米国、欧州など、全世界の家庭連合を巡回しながら非難集会を続けています。
天下のどこに、このような法があるでしょうか。
率直に言って、顯進様が私の言うことに左右される方でしょうか。
子女様の中には、自分の主観がはっきりしていない方は誰もいらっしゃいませんが、顯進様は原理と摂理に関する基準が他の子女様より明確な方です。み言葉の理解も誰よりも優れた方です。心情的にも霊的にも直観力が非常に優れた方で、お父様の若い頃を見ているようです。顯進様の天性的な能力と摂理的な感覚は、どの面から見ても私とは比較になりません。そのような顯進様の真価を知らず、むやみに評価するようにした彼らの非道な行為に胸が痛みます。
お父様が成就しようとされる畢生(ひっせい)のみ旨、神様の願いは、家庭連合の人たちだけで成就できるものではありません。世の中の全人類を全て抱いて成就しなければならないみ旨です。
神様のみ旨を成就していく標準は何でしょうか。
まさに真の父母を中心とした真の家庭です。
真の家庭は、神様が成就しようとされる理想とみ旨の核です。原理から見てもお父様の教えから見ても、最も神聖で最も貴いものが血統です。
ところが、現家庭連合の執行部は、私を存在もしない郭グループの頭に立てて顯進様をはずかしめているのです。真の家庭の血統を余すところなく否定するという破廉恥な罪を犯しているのです。
これは非常に無知で粗暴な人身攻撃であり、ひどい人格殺人です。
このような天道に反することが、神様の前にどれほど恐ろしい犯罪なのかをはっきりと悟れるように祈ります。
高等裁判所の証言台に立つ
統一教会維持財団が、Y22を相手に提訴したヨイド地上権登記無効訴訟の控訴審で、財団側は私を証人として召喚しました。そして2012年1月27日、私は維持財団の前理事長として高等裁判所に出廷しました。その時の証言によって裁判が不利になったと判断した維持財団は、3ヵ月後の2012年4月14日、私を偽証容疑でソウル西部地方検察庁に告発しました。
維持財団の控訴を支援するために、統一教信徒対策委員会の名前で、私を再び偽証容疑で告発しました。この告発では、財団が同じ事案で控訴した偽証容疑による控訴と併合して、ソウル東部地方検察庁で調査を受けました。
調査の結果、嫌疑なしの決定を受けました。決して偽証しなかったという判定でした。
2011年、財団側が私を証人台に立てようとしているという知らせを初めて聞いた時、財団に私の意思を伝えました。
「私に間違いがあったために、あの多くの陰湿な攻撃と非難に対して聞かないふりをして口を閉ざしている訳ではありません。統一家の事態に対して真実を語ろうとすれば、仕方なく、真の父母様と真の家庭の話をしなければならなくなりますので、真の家庭を守るために我慢してきたのです。しかし、証人台に立つことになれば、法廷での質問に対して、そのまま真実と事実を語らなければなりません。そうしなければ、私は偽証罪にかかります。私が事実を語れば、父母様の家庭やあなた方にとって得になることは一つもありません。よく考えてみてください」
それでも彼らは、ついに私を証人台に立てました。
向こう側の弁護士は、私、「郭錠煥が家庭連合ナンバー2の位置にあって、あらゆる権勢を行使し、結局、お父様を裏切って家庭連合を背教した者」と考えていることでしょう。さらに「家庭連合の財産を横領し、背任した計り知れない悪人」と考えていることでしょう。家庭連合側から既に数十回もそのような悪口を聞いたことでしょう。
裁判所も財団側の告訴状と陳述書の内容を事前に見ていたせいでしょうか、法廷に入るとなぜか冷たい気運を感じました。
最も胸が痛かったことは、傍聴席いっぱいに座っていた家庭連合の人たちのヒソヒソと冷やかす声でした。私に向けられた濁った視線でした。
証人台で3時間半、尋問を受けました。
ヨイド開発関連の内容だけでなく、残念なことに、真の父母、真の子女様に関する質問までありました。法廷において、真の父母様の位相と権威、お父様の偉大な業績が、言葉にできないほど傷つけられていると思うと、本当に心が痛みました。
私たちが追求した理想世界は「弁護士も検事も裁判官もいない世界」であるとお父様から教えられました。ところが法廷ではお父様の位相が議論され、真の家庭内での出来事が、兄弟の戦い、財産争いとして捉えられていました。これは一体、誰のための裁判なのでしょうか。
家庭連合側の弁護士の中の何人かの有名な法律事務所から来た弁護士が、交互に質問をしました。主にヨイド開発に関する動機と過程などについてでした。
何かを加えたり省いたりする必要があるでしょうか。あるがままの事実をありのままに全て答えました。質疑応答がある程度行われ、相手側の弁護士が内心驚いている気配を感じました。裁判所も意外だと思っているような印象でした。
回答する度に「お父様」「お母様」「國進様」「亨進様」といった尊称を普段と変わらず使用しましたが、彼らが見るとかなり意外だったのでしょう。背教者であり、天下に最悪の背信者であり、財産を盗んで逃げた者程度に考えていたのに、私の言葉やその雰囲気、そして内容が、考えていた事とはとても違っていたようです。
彼らの質問の中に、このような質問もありました。
「証人は現在も統一教会人ですか」
私は迷わず答えました。
「文鮮明総裁は証人に永遠の命を与えてくださった恩人です。貴い愛をたくさん施してくださり、献身的な生活により手本を見せてくださいましたので、漠然とした指導者ではなく、肉親の親よりももっと貴い真の父母様であられ、真のお父様として侍り今も生きています」
これは一文字も加減のない、裁判所で録音し記録に残された証人の尋問録の資料です。
続いてこのように質問されました。
「証人は、今でも文鮮明総裁が呼ばれれば、会いに行く勇気がありますか」
「はい。それも様々な状況があると思いますが、現在の時点では何とも言うことはできません」
家庭連合内の状況が余りにも複雑なので、なぜ、どうして呼ばれるのか、状況を考慮する必要があるという意味でした。
「拒否するという趣旨ですか」
弁護士がすぐに揚げ足をとりました。
「違います。証人の心の中に真の父母様は生きておられ、真の父母様の心の中にも証人は消えることはないと思っています」
この言葉はまさに、父母様と私の関係はいかなる状況にあっても変わらないので、揚げ足をとるなという確信に満ちた私の答えでした。
本当にお父様を離れた者は誰なのでしょうか
本当にお父様を離れた者は誰なのでしょうか
2015年4月1日、世界平和統一家庭連合韓国協会長・柳慶錫(ユ・ギョンソク)は、私に「懲戒処分結果通報」を内容証明で送ってきました。
懲戒の結果は「出教(協会員資格剥奪)」でした。
この通報文と共に「韓国協会長・柳慶錫」の名前で、「郭グループ(UCI)活動に対する協会指針と郭錠煥氏懲戒処分に対する公示」に関する公文が、全国の教区長と教会長に出され、さらに「世界会長」の名前で世界本部から全世界に出されました。
摂理の原則から見ると、家庭連合の会員は、貴い祝福の恵みとして真の愛、真の生命、真の血統を受け、神様を中心とした祝福家庭になるということです。
神様とお父様は、祝福できないことが恨であるという心情を持たれた方です。
お父様はお一人で、困難な蕩減条件を立てながら祝福の扉をさらに大きく開こうと努力され、祝福の大衆化時代まで開かれ、ほんの小さな条件さえ立てれば、その上に祝福の恵みを与えてくださいました。ですから祝福家庭は氏族的メシヤとなって、自分の氏族を祝福するようにとお父様はいつも強調され、私たちに祝福権までくださいました。
このような恵みの中で、私はモンゴルの国家メシヤとして400家庭以上を祝福し、また氏族的メシヤとして郭氏門中の何百家庭を祝福しました。それだけではありません。国内外の著名人たちや平和大使たち50家庭以上を祝福し、太平洋の島国であるパラオの現職大統領家庭をも祝福しました。
ところが、このような神様とお父様の心情の前で、ある時、文亨進世界会長は「祝福は真の父母様だけが行うことができる」と規定して説教し、教えました。家庭連合側は今でもそのように教え、行っています。
これはお父様の意図はもちろん、摂理の進展方向と目的に真っ向から逆らうものです。
み旨と摂理の進展により、すでに私は1996年から協会員でもなく、協会員として生きてもいません。まして、神様から与えられた36家庭の「祝福」を人為的に数人の人たちが、ひそひそ話をして除名処分にしようとしまいと、自分たちにそのような権限があると考えている発想が私には理解できません。
教育のためにも、じっとしていることはできないと思いました。
ですから、当時、私の心情を内容証明で送ろうかと思い、手紙を書きましたが、結果的には送りませんでした。そのような手紙が彼らに何の意味があるのだろうかと思ったからです。
ついに送ることもなく、大切に持っていた手紙をここで紹介します。
受信:世界平和統一家庭連合韓国協会長・柳慶錫
私は、2015年4月9日に内容証明で韓国協会長から送られてきた「本人に対する家庭連合協会員の資格を剥奪した」という懲戒処分結果通報を受け取りました。
この書簡は、その通報に対する私の立場を明らかにしようとするものです。
そのようなことをした祝福二世である協会長や、それを画策した背後の指導者たちが天の伝統とお父様の教えから遠く離れて行動していることが、本当に残念であり、一方ではあきれて痛ましく思いさえします。私たちがあれほどまで真心をかけて立て、守ってきた伝統をこのように壊していることがとても情けなく感じられます。
私は過去10年間、家庭連合の一部の指導者から、あらゆる陰湿な攻撃と迫害を受けてきましたが、沈黙で一貫し、一度も公式的な立場を明らかにしたことがありません。月日に積もった偽りや誤解が真実であるかのように歪曲されたものもたくさんありますが、そのようなものは私が一生をかけて守ってきた信仰の基準に影響を与えるものではなく、むしろ天に対する信仰はさらに堅固なものとなりました。
私は50年以上、真の父母様に近くで侍り、ただ神様のみ旨に従って生きてきました。今でもその気持ちに変わりはありません。私と私の家庭全体が祝福家庭として原理的に生きており、与えられた役割と責任を果たすために毎日のように努力しています。一日一日が神様の恵みに満ちた生であり、食口たちと恵みを分かち合うことにいつも感謝しています。
これまで教会の責任者たちは、私に対する悪意ある謀略や誹謗はもちろん、とんでもない誤解をすることにより、信仰者としてはとても口にすることのできない非難を韓国をはじめ全世界に広めました。それどころか、彼らは同じ内容で、財団、協会、食口の名前を交互に使いながら、数年間にわたって私に対して11回もの告訴・告発を行いました。
司法当局はその都度、私に嫌疑なしの処分を下しました。それでも協会はそれを承服せず、いまだに告訴を繰り返しています。
私は協会のこのような仕打ちに対して、公に非難したり恨んだりしませんでした。むしろ、真のお父様、真のお母様に心中で侍り、赦しと憐れみの心で祈ってきました。
教会の責任者たちは、私の信仰と人格にどれほど傷をつければ満足するのでしょうか。
世の中の法で提訴して嫌疑なしの決定が下されると、教会内部で信徒たちに対して偽りの内容を伝えることにも満足することなく、さらに私を傷つけようというのですか。
私が沈黙し続ければ、捏造された陰湿な攻撃の内容が既成事実化されるとでも思っているのですか。
真実を隠蔽し、一時的な偽りと虚偽で食口を扇動し、欺くことができたとしても、結局、皆さんは天と歴史を裏切る罪を犯しているのです。
皆さんは、このような事実も知らずに、天を信じる愚か者なのですか。
「郭グループ(UCI)活動の中心にいる郭錠煥氏に対して懲戒処分をする」と言いますが、私は教会指導部が言うところの郭グループを作ったことはありません。郭グループなどは実在しません。もしUCIを郭グループと呼ぶのであれば、それこそ大きな過ちを犯しているのです。UCIの代表は文顯進様であられ、誰もが知っているように、私はUCIのいかなる役職にも就いていません。
教会指導部がUCIと郭グループを同一視して私を攻撃し、非難してきた意図とは何ですか。
文顯進様を直接攻撃し非難すれば、真の子女様を攻撃する不遜な者となるため、食口の目を欺くためのものではないのですか。
また、文顯進様が主導されているということが、真の父母様と食口に完全に伝達されることを恐れてのことではないのですか。
皆さんが神様を信じている者であれば、これまでどれほど正直でなく不当な行為を行ってきたのか、良心と真実で判断して下さい。
私が家庭連合から、憤懣やるかたない迫害を受け、今では除名処分云々と言うことまで聞くに至りました。地上に生きておられる真の父母様の長男である文顯進様を深く愛し、尊敬しているからでしょう。
私が顯進様に従う理由は一つです。
それは顯進様が行こうとされる道が正しいからです。
顯進様は、神様がお父様に願われ、お父様が歩もうとされたけれども、全て歩みきれなかった道を明らかにされ、その道を通してお父様の業績と価値を再び照らして、人類に残そうとされているからです。それこそが神様が創造の時から人類に与えようとされた最高の祝福を実現できる、神様の下に集まった人類が平和で幸せに生きる世界を実現できる道だからです。
私はお父様に侍りながら、「お父様には心残りが本当にないのだろうか」といつも思っていました。
お父様は真の愛の本性を持っておられるので、永遠なる真の愛の価値と判断に基づいて、全てのことを決定しておられます。情を払いのけることはできません。人々はお父様を偉大な方だと口で言うばかりで、偉大な方になるまで忍耐し努力された過程を体恤し、それを褒め称え、感じようとはしません。
お父様の生涯が貴く特別なのは、お父様の全生涯と動機と理由を神様の心情に一致させようとされたことであり、そこに偉大さがあります。その過程と方法と結果が、歴史上最も偉大であったわけではありません。神様と人類のために最高の環境と条件で歩まれなければなりませんでしたが、実際にはそのような道を歩むことができませんでした。与えられた環境と条件の中で、最善を尽くして歩まれるしかありませんでした。
そのような点で、私は能力の限界を自責し、申し訳なく思い、時には不足を吐露し、許しを求めました。また、誤解する外部世界にもどかしさを感じ、残念に思いました。
そのような限界の中でも、神様が人類の幸福のために願われたことは、一瞬もためらわずにあらゆる犠牲で惜しみなく財源と人材を動員し、力強く推進して行かれるお父様に従いながら、私は日々が嬉しく感謝でした。
お父様のそばを守ってきた私の過去53年の人生は、雲の柱と火の柱に導かれた神様が共にあった人生でした。
お父様は、神様が願われた創造理想世界を人類に作ってあげるために、全てを捧げられました。当代の人々が誤解し否定したとしても、時間と歴史は、結局は全てのことをありのままに人類に正しく伝承することでしょう。
私はその道を顯進様が率先して開かれていると証言します。目に見える基盤だけでなく、父母様の深い心情と事情まで相続され、継承発展させようと顯進様が全てを投入して、その道に命をかけると言われた時、私は嬉しく感謝の思いで顯進様の支持者となりました。
その道がたとえ目に見える既得権と基盤全体を捨てなければならず、迫害と誤解が繰り返されたとしても、顯進様は神様と人類のための開拓の道を歩まれるでしょう。
神様のみ旨を果たそうとされたお父様の願いを成就するために、どのような犠牲も恐れることはないでしょう。
人類全体の共感を導き出そうとする意志で自分の全てを投入し、神様と真の父母様と真の家庭の縦的伝統を立て、それを守ろうとされる顯進様の意志の前に、私と私の家族は誰よりも率先しなければならないと思いました。今も私はそう決めたことを後悔していません。
お父様が見せてくださった伝統の道は、神様と人類を愛する明確な道でした。その愛を実践するために、常にお父様は最善を尽くして準備され、ご自身の全てをためらうことなく差し出されました。
そのようなお父様の意思を継承し、神様が立てようと願われた伝統を相続して、お父様のレガシーを実現する道を開拓しようとされる顯進様の簡潔で明快な判断を尊重し、その道を共にしたいと思っています。
私は、霊界のお父様が、人類が神様を真の父母として侍り生きることができる世界を実現するために、今も働いておられると思います。その絶対的な道を、真の父母、真の家庭、祝福家庭が縦的連帯意識を持って歩んで行くことができるよう、私は残りの生涯を捧げるつもりです。
ずいぶん前にお父様は、教会と宗教を卒業する新しい時代を宣言されました。私は教会の信徒としてだけでなく、お父様の教えの通りに生きる祝福家庭であり、氏族的メシヤとして創造理想世界の実体化を展開していきます。
私は、私たちが一時、お父様と共にあったという理由だけで、お父様がおられる場所に当然行くとは考えていません。各自の責任分担は各自が完成しなければなりません。それが原理の教えです。
そのような点で、皆さんは私に対して心配したり、批判しようとするのではなく、各自が自分と自分の家庭と公的責務において、与えられた責任分担を果たすために、与えられた道を分別しながら最善を尽くして歩まれることを願います。これ以上、お父様が血と汗と涙で起こし立てられた価値と運動を、世の中の笑いものにすることを繰り返してはなりません。
真の父母様の名前で誰かを非難し誹謗することは、真の父母様を汚すことであり、むしろ皆さん自身が恥ずかしい思いをするという事実を悟ってください。
私は、神様と人類のためのお父様の伝統を共に侍りながら守ってきたし、私の定位置を守りながら、その伝統を今も守り続けています。そのような私に皆さんが惨たんたる事をするならば、そうした惨たんたる諸行によって惨たんたる立場に立たされるのは最終的に誰でしょうか。
付随して指摘したいことは、懲戒手続きの不当性です。
その人がしている事を見れば、その人がどのような人なのかを知ることが出来るように、その団体の行為はまさに、その団体のアイデンティティを示しています。どの団体でも、懲戒の事由が発生すれば、懲戒対象者に懲戒処分嫌疑の内容を通報し、懲戒委員会で疑惑について釈明するようにしなければなりません。
しかし、私はそのような通報を受けたことがありません。手順を踏んだと言いますが、秘密裏に行われた手順は違法です。このような前例を残されなかったお父様の教えに照らしてみた時、皆さんは恥ずかしいとは思わないのでしょうか。
皆さんが協会と教会生活を自ら堂々と誇りに思うならば、少なくとも皆さんが信仰の正道を見せなければなりません。
お父様の教えによると、教会は審判するところではなく、救うところです。
憎むところではなく、愛するところです。
不義を見て沈黙するところではなく、義を立てて教えるところです。
どうか公職者として良心と原理の中で神様に侍り、人類を愛することに義なる競争をしながら、互いを愛しましょう。氏族的メシヤである私たち祝福家庭が、天一国創建の真なる主人となることを懇切に願います。
2015年5月20日
郭錠煥
結局は「事必帰正」
神様のみ旨を成就しなければならない私たちの中に、不条理と非原理的なことが幅を利かせているということは、非常に胸の痛いことです。特に歪曲された情報でお父様の考えがぼやかされ、最高の中心である真の家庭の中まで混乱させてしまったことは致命的な自傷行為です。
この言葉も失うような不条理な状況に対して誰かがこう言いました。
「このような状況で、なぜ神様は何もされないのですか」
残念で悔しい状況で自然に出た言葉でしょう。しかし、人間が責任を果たさず、サタンの相対となっているのに、神様に何ができるでしょうか。神様は審判を願ったり審判を楽しむような方ではありません。
私たちが一つ、知っておかなければならないことがあります。
たとえその方が審判せずじっとしているように見えても、このような不条理と自傷行為は決して長続きはしないということです。今の状況も、いつかは次第に自淨され、事必帰正で整理されることでしょう。
ただし、その時期は、私たちが責任をどのように果たすかによって決定されます。しかし、いかなる場合でも、偽りと非原理と反摂理的行動から得られる結果は、神様の公認を受けることができず、崩れてしまうことでしょう。
この真理を私たちは、決して忘れてはなりません。
この章を終えながら、私は自分自身と祝福家庭に尋ねたいと思います。
「本当にお父様を離れた者は誰なのでしょうか」