統一グループの不渡りと再起、その奇蹟のような歴史について
第5章 序文
「今までの統一教会の歴史を知る人は、郭錠煥しかいません。今回もIMF(国際通貨基金)の金融危機を中心として、統一重工業問題や何かの問題があって複雑ですが、それを越えて神様のみ旨の中で、その前に立って進むのです。(中略)そう、難しい峠を全て収拾しました。この峠を越えれば、統一教会は借金を全て返して、飛躍できる位置に入っていくのです。それを郭錠煥が自分勝手にやっていると思いますか、この者たち。一つひとつ先生が報告を受けて、それを指示していくのです」
『文鮮明先生御言選集』319巻 299ページ
(2000年3月23日)
過去10年余り、あきれ果てる程の侮辱を受けながらも、私は上記のお父様のみ言葉のように、「私のことはお父様が誰よりもよくご存知だ」ということを大きな慰めに思ってきました。時が経てば、全て収まるものと信じ、忍耐を重ねてきました。しかし、偽りの噂はますます増幅され、統一家の状況は悪化の一途をたどりました。
特に「財団理事長在任期間に公的資産を奪っていった泥棒」などといった、ありとあらゆる風評が広がっていくにつけ、心中穏やかではありませんでした。事実は全く違います。それは天が知ることです。私が経験した当時の韓国統一グル-プにおけるありのままの状況を、ここに明らかにしようと思います。
統一グループの不渡り
統一グループの摂理史的目的
お父様は、宗教と平和活動だけでなく、世界的な経済基盤を築いた方としても広く知られています。しかし、その方が統一グループを作り、企業体を建てられた目的は、一般の事業家たちのように、単に利潤を生み出すことではありませんでした。お父様が企業体を重要に考えられたのは、企業には摂理的使命を実現するのに必要な役割があるからでした。
例えば、1960年代、統一産業は、国家産業化の基礎となる「工作機械産業を育成」し、「摂理の祖国である韓国の経済発展に寄与」することを通して、韓国の位相を高めると共に、「蓄積された技術を第三世界に提供して、先進国と発展途上国の間の技術格差を減らす」という遠大な目的のもとに創業されました。
また、米国のワシントン・タイムズは、1980年代、世界的に共産主義勢力が急速に膨脹していく中、米国民を覚醒させ、「自由民主主義世界を守護」する先頭に立てることで、「共産主義思想により人間の尊厳性が脅かされることを防止」し、「神様を信じる信仰の自由を守ること」を目的として創刊されたのです。
この他にも、お父様は「北朝鮮の経済を助けて南北韓統一を早めるための一念」で、北朝鮮に自動車産業を起こし、「人類の食糧問題解決」のために、海洋産業にも投資してきました。このような大きなみ旨のために、お父様は、数十年間赤字が発生しても、そのような企業活動への投資を惜しみませんでした。
私は本来、経営には関心もなく、企業の業務に携わったこともない人間でした。お父様がそのような私を維持財団の責任者として願われたのは、ご自身に代わって、当時「経営状態が極度に悪いグループを何としても維持し、私たちの企業体が摂理全体の目的に合うように管理監督せよ」という意図ゆえでした。
IMFの黒い影
維持財団は、1990年代初めに(株)統一重工業、(株)一和、韓国チタニウム工業(株)、一成建設(株)、一信石材(株)、世界日報、統一スポーツなどをはじめ、20社余りを所有し、外見上、中堅グループとして成長していました。しかし、財務状態は非常に脆弱な状態でした。
成長街道を走っていた韓国経済は、1990年代に入り、企業の借入金に依存した投資拡大と不良の深刻化、それによる金融機関の経営破綻、金融機関の短期外債比重の増加、輸入の自由化と貿易赤字の継続、外貨保有高の減少、そして政府の外貨政策の失敗によって、大きな代価を払うようになります。
1997年の国家的災難である通貨危機がそれでした。
お父様は、私に既に不健全な財政状態によって危機に直面しているグループを何としてでも支えるように願われました。
1997年1月の韓宝鉄鋼を筆頭に、三美グループ、真露グループ、大農、起亜グループ、ヘテグループなどが、次々と不渡りとなって法定管理(*8)下に入りました。株価は暴落し、為替レートは暴騰して、経済は手の施しようのない混乱に陥り、国家信用度はどん底に落ちました。押し寄せる短期外債の償還と回収によって、国家外貨残高は底をついてしまいました。
企業の不渡りは続き、大宇自動車や双龍自動車などが売却され、サムスン自動車も不渡りになり、現代建設、双龍建設、東亜建設など屈指の建設会社も不渡り処理されました。関連中小企業も打つ手もなく倒産しました。辛うじて生存した企業は、生き残るために悽絶なリストラを断行し、これによる失業者が大量に発生したのです。
企業の不渡りで貸出金を回収できなくなった銀行は、一斉に経営難に陥り、総合金融会社は全て営業停止となりました。まさに経済的災難でした。結局、1997年12月3日、大韓民国経済はIMFの管理下に入ったのです。
統一グループも、例外なく困難に陥りました。こんな状況では極力速かに不良企業を整理するのが定石ですが、お父様は、どの不動産や会社も売却したり整理することを願いませんでした。
財団傘下企業の受ける苦痛は、到底言葉にしがたいものでした。銀行業界の資金支援が途絶えた会社は、金利が高い総合金融会社から資金を借り入れ、その結果、利子の負担が大きくなり、随時、満期が来る手形決済、物品代、給与などで状況はますます悪化していきました。各系列会社が財団にかけ込んで来ては、助けを求められましたが、財団としても対策がありませんでした。海外からの緊急支援がありましたが、根本的な解決策にはなり得ませんでした。
お父様は止むを得ず、担保として財団が保有していた不動産を提供するように言われました。グループ内の企業が借り入れに対する相互支給保証で縛られている中で、都元ビルはもちろんのこと、全国の教会の建物と土地まで、担保として提供せざるを得なくなりました。
企業が営業不振や資金難で不渡りの危機に直面すると、これを救済するためにワークアウト(Work Out)(9)を申請するようになります。主債権銀行(10)を中心とした債券金融機関がワークアウトを受け入れれば、資金の償還を猶予し、新規資金を支援することで、企業が一時的に危機から脱するのを助けてくれます。しかしワークアウトが受け入れられない場合は、自力で資金難を解決しなければならず、それが思い通りにならなければ、結果、不渡りに至るのです。
ひどい資金難を耐えられなかった統一グループも、主債権銀行である第一銀行にワークアウトを申請しました。何としてでもこの危機を脱しようと、私は関係長官と銀行長を訪ね回りながら、切々と事情を訴えました。しかし当時は、第一銀行自体が存立の危機にあり、この申請は否決されました。
実に耐えがたい一日一日でした。一次不渡りになって、翌日辛うじて最終不渡りを防いだことも1度や2度ではありませんでした。最終不渡りを防ぐために、銀行の電算締切時間を夜遅くまで延長したこともありました。
「国家経済が沈没」しつつあったため、個別の企業がどんなに最善を尽くしてもどうすることもできない極限状況でした。結局、財団はこれ以上耐え切れず、1997年5月、最後の砦として残しておいたヨイド敷地を、大韓総合金融の債券最高額1,690億ウォンで担保として提供することになりました。もちろん、それはお父様のご意思ではありましたが、私としてもとても心痛く申し訳ないばかりでした。
大韓総合金融に担保として提供されたヨイド敷地は、統一重工業と韓国チタニウム、一成建設の借入金のために再び新韓総合金融、水産業協同組合、ジャンウン証券などにも担保として提供されました。設定された抵当(*11)金額は全体で3,030億ウォンに上り、これにより財団はしばらく息をつくことができました。
8.不渡りを出して、破産の危機に瀕している企業に回生の可能性が見られる場合、裁判所の決定に基づいて、裁判所で選任した第3者が資金をはじめとする企業活動全般を代わりに管理する制度。
9.「企業改善作業」とも言う。ワークアウトは、回復可能性はあるが、一時的な流動性(現金など)が足りない企業を対象に債権金融機関協議会でワークアウトの可否を決定する。ワークアウトが決定されると、銀行貸付金の出資転換、貸出金の返済猶予、金利減免、負債削減などが行われ、企業は危機から脱し回生する。
10.金融機関から巨額の融資を受けて与信管理対象に定められた企業や系列企業群の主な取引銀行を指す。
11.不動産や動産を債務の担保として取るか取られること。担保物は、借入者が債務の義務を満たすことができない場合、金融機関が任意に処分して債権を回収することになるが、そのようなことが発生するまでは、占有権と使用権は債務者が保有する。
統一グループの不渡り
1997年12月18日の大統領選挙以後、金泳三政権はレームダックに陥り、国家不渡り事態収拾の求心点が失われました。金大中政府が新しく立ち、さまざまな措置が相次いで出されましたが、数多くの企業が次々に倒産していきました。惨たんたる国家的大災難でした。
当時お父様は、世界的な基盤を拡大するための摂理機関を相次いで創設し、その責任者として私を兼任発令されました。国内の財団の状況も切迫し、一日一日を越えるのが困難な窮状にあって、なお他のさまざまな機関の責任を引き受けることは、容易なことではありませんでしたが、お父様の大きなご意思に逆らうことはできませんでした。
それ以降、私の日課は何倍にも忙しくなりました。世界巡回と国際会議を主宰するための海外出張も頻繁にあり、各種海外行事でお父様に随行したり、お父様に報告するために随時、米国に行かなければなりませんでした。海外出張に出る時は、私の代わりに韓相國副理事長が財団を守りました。ところが、当時は通信環境が今とは違い、世界のどこからでも通話したり、文書や映像をやりとりできる携帯電話が出る前でした。事態が急を要する時などは、本当に多くの困難がありました。さらに韓国をはじめとする世界各国の宣教地から随時報告を受けなければならなかったため、私としては昼夜分かたず、一日24時間全てが勤務時間となりました。
年が明けて1998年になっても、国家経済や財団の状況は少しも好転する気配が見えませんでした。これ以上、提供する担保もありませんでした。各企業体は不渡りを出さないために、死に物狂いで踏み堪えていましたが、全てが徐々に疲弊していきました。
「ここに幹部たちが全て集まりましたが、今まで統一産業でも何でも、韓国の全ての産業機関は全て、統一教会の運命と共に、ひっくり返るかも知れない時が来たというのです。これを放棄するか、延長するか、決めなければなりません。韓相國! 『はい』どう思うか。返事は簡単だ、放棄か、延長か、それを聞いているのだ。私が知らないと思うか、全て分かっている! (中略)私は未練がないのです。今までの40年というのは悲しい歴史、苦痛の歴史、涙の歴史だったのです。このように40年間死の峠を越えながら準備したのは、二世のために準備してきたのです。(中略)これからそうです。仕事を抱いて踊っていては、先生は全て死ぬ境地に行くのです」
『文鮮明先生御言選集』289巻 310ページ
(1998年2月2日)
「最後まで全部、IMF体制の下で、これが銀行管理まで行くのか行かないのか、ということも全て郭錠煥がしなければなりません。代身者として理事長を立てましたが、朴洪祚も郭錠煥の言葉を聞いてしなければならないというのです」
『文鮮明先生御言選集』298巻 240ページ
(1999年1月8日)
1998年6月29日、(株)一和が最初に不渡りとなり、法定管理下に入りました。7月初めに維持財団理事長が朴洪祚氏に交代しましたが、私は財団の業務から解放されませんでした。
1998年12月1日、あれほど粘り強く耐えてきた統一グループは、結局、不渡りになってしまいました。非運の日でした。
不渡りになった会社は、大株主である財団の所有権と経営権が失われ、裁判所に財産保全申請すると同時に、回生のための法定管理に入らなければなりません。担保として提供されたヨイド敷地を含めた財団の全ての不動産が、債権者たちによっていつ競売処分されるか分からない状況になりました。
金融機関は、会社に貸し出す時、常にグループ内の他の会社の支給保証と共に、代表取締役である社長の個人連帯保証を要求します。これを拒否すれば、その日にすぐに不渡りになります。それまで会社の不渡りを避けるために個人連帯保証に署名した代表取締役[統一重工業の韓相國、李範在(イ・ボムジェ)、姜仁根(カン・イングン)、金東雲、一成建設の李昌烈(イ・チャンヨル)、柳鍾玿(ユ・ジョンソ)、韓国チタニウムの呂英秀(ヨ・ヨンス)、徐龍雲(ソ・ヨンウン)、一信石材の李東洙(イ・ドンス)、一和の金眞廈(キム・ジンハ)、一興の金成萬(キム・ソンマン)、禹昌の成範模(ソン・ボムモ)]たちが結局、会社の不渡りと共に、全て個人としては手に負えない大変な債務を負担しなければならない位置に立つようになりました。個人的にみて経済的死刑宣告に他なりませんでした。
法定管理と財団の保証債務整理
不渡りを出した会社は、裁判所から会社財産保全開始決定を受けると、会計法人(調査委員)を選定して会社の財産を調査し、裁判所はその結果を土台に、会社回生の可能性を判断します。企業の継続価値が清算価値より大きければ、それでも回生のための整理手続きに入りますが、企業の継続価値が清算価値より小さければ直ちに閉鎖されるのです。
回生のための整理手続きは、「債券の種類によって元金と利子を、全部または一部、償還免除し、残りの債券は相当な期間、償還を猶予して、長期間分割償還」できるようにする制度です。この時に一部債権は出資転換させることによって、会社が実際に負担しなければならない債務を大幅に軽減または免除することができます。不渡りになった会社を清算すると、社会的に大きな波紋を起こすため、できるだけ債権者から多くの譲歩を引き出して、会社を回生させようとするのです。その代り、償却者に損害を与えた大株主(財団)は、経営責任を問われて、株式を全量償却しなければなりません。それ以後、経営権はもちろん、所有権も失われ、その後、この会社を再び引き継ぐこともできません。
法定管理人によって、会社整理計画の通りに会社が正常化されれば、新しい投資者が会社を引き継いだ後、状況は終結します。
問題は、法定管理を申請したのに、回生のための会社整理計画の認可を受けるのが容易ではないという点でした。特に統一重工業は、実査の結果、企業の継続価値より清算価値の方がはるかに大きいことが明らかになりました。統一重工業が清算されたら、お父様が韓国の機械工業発展のために心血を注いでこられた努力が、完全に水泡に帰すのです。それだけでなく、会社の資産はもちろん、担保として提供された財団の全ての不動産までも、債権回収のために競売にかけられるようになります。担保は提供されなくとも、産業銀行には1,700億ウォンの保証債務があり、財団が多くの金融機関に支給保証人になった巨額の追加債務も負った状態でした。
結局、会社整理計画の認可を受けなければなりませんでした。そうしてこそ、これらの会社が清算されずに時間を置き、担保も競売処分されずに債務を償還して、財団も時間をかけて保証債務を償還する余裕ができるということでした。
この問題を解決するために、私は会社整理計画の鍵を握っていたソウル地方裁判所の破産再生部総括判事に会いに行きました。崖っぷちに追い込まれた心境でした。事情を伝え、辛うじて15分間の面談時間を許された私は、主に「お父様の企業精神」について切実に説明しました。
「判事さん、私は長い話は申し上げられません。国内で数千の会社が不渡りになりましたが、統一グループは特異な存在です。私たちのオーナーが作った会社は、アイスクリームや靴下売りをしながら大きくなってきた会社ではありません。初めから膨大な資金がかかる国家機械産業を発展させるために、統一産業を作りました。国民の健康と輸出のために莫大な資金をかけて一和を作りました。そして韓国に一つしかない二酸化チタン生産工場を建てて、化学工業発展に寄与してきたのが、まさに韓国チタニウム工業です」
しばらく説明すると、意外にも総括判事の固かった顔色が変わったのです。私は涙ながらに訴え続けました。
「私たちのグループは、出発点が違います。私どものオーナーは、不渡りになる前日にもお金が支援できるようにしました。他のグループは、亡びる状況になれば資金を引き抜いたりするというのに、私たちは絶対にそうしませんでした。何より統一グループの資金は、韓国で適当に作ったものではありません。全て外国から持って来て投資したのです。不渡りにはなりましたが、当面の状況だけ見ないで、ぜひ一度よく考えてみてください」
初めは私に目もくれず、一言も言葉を返すこともなく、聞いていただけだった総括判事がついに口を開きました。
「分かりました。私が新たに知った内容が多くありました。肯定的に検討してみましょう」
私は、死にかけていたのが生き返ったような気持ちでした。事務室を出て時計を見ると、45分も経っていました。
もどかしい3日間が明け、ついに会社整理計画が認可されました。天佑神助(天や神が助けること)でした。
当面の課題は、「担保として提供された不動産にかけられている抵当権を解約して、不動産を取り戻すこと」でした。どんなことをしても、最優先でヨイド敷地の担保を解約することが大きな課題でした。
ヨイド敷地の保存
お父様は、「他のものは全て失ってもよいが、ヨイドの土地は守ることができないだろうか」と言われながら、沈痛なご様子でした。草創期の食口たちの血のにじむ献金で買い入れた敷地でした。お父様が海外から帰国する度に、必ず立ち寄られて懇切に祈祷され、精誠を捧げられた聖地でした。私としては、ただ胸が張り裂けるようでした。罪人の中の罪人になった心情でした。
1998年12月末、ヨイド敷地の最大債権者だった大韓総合金融から「1,690億ウォンを今すぐ返さなければ、ヨイド敷地を競売にかける」との連絡を受けました。大韓総合金融も「増える不良債権のために会社自体が倒産する状況なので、誰かに便宜を図ることができる立場ではない」ということでした。競売手続きに入れば、値千金のヨイド敷地が、1次競売で私たちの手を離れることは明確です。
目の前は真っ暗でした。
そんな大金もありませんし、たとえどこからかお金が出てきて第1位で根抵当権が設定された大韓総合金融の借入金を返したとしても、噂を聞いた後順位の債権者(*12)たちが次々と押しかけてくることでしょう。
これをどのように乗り越えるかと困り果てていた時、「海外に統一運動の基盤が多いので、大韓総合金融が増資を行うのに投資して欲しい」という大韓総合金融側の新しい提案が入ってきました。その代わりに、ヨイド敷地の競売は取り消すというのでした。債務償還もできていない状況で、投資など話にもならないのですが、これを拒否したら、ヨイド敷地が永久に失われてしまうのです。
この報告を受けたお父様は、「難しいが、有償増資に参加すること」を受け入れられました。ヨイド敷地を守るための非常措置でした。お父様は日本の責任者を漢南洞公館に呼び、増資のための特別措置を取られました。そして私は、大韓総合金融側と「増資に参加するが、大韓総合金融にもしもの事態が発生すれば、投資金を債務と相殺する条件」で契約を周旋しました。大韓総合金融の未来が不安だったので、私たちとしても安全弁が必要だったのです。
お父様が非常な努力を傾けた結果、1999年3月31日、海外法人のE&Eインベスト名義の1億ドル(当時の為替レートで1ドル=1,225ウォン)で、大韓総合金融の有償増資に参加しました。当時、金融危機で揺れていた韓国の状況下にあって、外国から流れ込んだ1億ドルのこの投資は、新聞にも大きく報道されるほどでした。この資金の出処をめぐり、後に「郭錠煥の秘密口座」という陰湿な根も葉もない噂が流れましたが、國進様の事後調査と何回かの検察の調査を通して、私の潔白は証明されました。
ところが、増資のための資本金の払い込みを終えた数日後の4月9日、大韓総合金融が突然営業停止通告を受けてしまいました。私は契約当事者だった大韓総合金融の社長に会い、投資契約書の通りに投資金の債務相殺を要求しました。しかし、彼らは既に業務が停止されて、何の権限もない状態でした。また、不渡りになった大韓総合金融を管理する預金保険公社側は、「増資代金を債務と相殺することはできない」という原則のみを固守しました。
せっぱつまった私は、動員可能な人脈を総動員する一方で、金融監督院長にまで会って、助けてくれるように切に頼みました。しかし状況はままなりませんでした。企業は全て不渡りになり、ヨイド敷地をはじめとする不動産も全て失ってしまった上に、1億ドルまでさらに消えてしまうところでした。肝が冷える思いでした。絶望的な瞬間でした。しかし、決してあきらめることはできませんでした。懇切に祈り、また祈りました。
「私には神様がおられ、真の父母様がおられるではないか。私があきらめて倒れてはならない。神様が私を信じ、真の父母様が私を信じておられる。気を取り直して再び立ち上がらなければならない。今日の事態を収拾して、必ず再び財団を立てなければならない。み旨の通りに摂理に大きく寄与する財団を作って差し上げなければならない」と私は決意を固めました。
1999年6月15日、財団理事長は朴洪祚氏から黄善祚氏に再び代わりましたが、お父様は私に「法定管理をはじめとする不渡り以後の処理に対して、続けて責任を負うように」と言われました。
大韓総合金融は、「債務弁済要請を履行しない時は、ヨイド敷地を競売処分する」と再び督促してきました。
1999年9月7日、財団はE&Eとの共同投資のための合意覚書を根拠に、大韓総合金融に1億ドル(1,225億ウォン)の債務不存在訴訟を提起しました。しかし大韓総合金融は、それから何週間か後の9月27日に、ヨイド敷地の任意競売申請をしました。そして2000年初め、第1次入札期日が決まりました。
大韓総合金融が競売を行えば、裁判中の1,225億ウォンを留保しても、債券限度額の中の約387億ウォンは優先的に回収できます。しかし問題は387億ではなく、競売が実行された場合、後順位の債権者たちも順に分配を受けることになるため、財団が後順位の債務までいっぺんに償還しなければ、ヨイド敷地だけが吹き飛んでしまうという点でした。苦心のあげくに探し出した唯一の解決策は、ヨイド敷地に対する開発計画を立てて、期待価値を高め、それを金融取引にテコとして活用する方案でした。
大韓総合金融との交渉の末、「2000年6月23日、387億ウォンを、根抵当権と共に、海外法人トリエステ・インベストメントに譲渡すること」で合意しました。そして、「債券譲渡と同時に、ヨイド敷地に対する競売申請を取下げて、第1審判決が出るまで競売申請をしないこと」にしました。こうして再度、ヨイド敷地は競売の危機から脱することができました。
後続措置として、2000年11月30日に財団は、トリエステ・インベストメントにヨイド敷地に対する開発権を与え、75年の条件付き地上権を付与する契約を締結しました。
2001年7月18日、「投資金1億ドル(1,225億ウォン)全額を、大韓総合金融に対する債務と相殺したものと認める」という判決が下りました。約2年の裁判期間に経験した心労を思えば、その喜びは到底言葉には言い表わせませんでした。
大韓総合金融側は直ちに控訴しました。再びやきもきし、うんざりするような争いが続きました。財団も第1審では勝ちましたが、高等裁判所でも勝訴するという保障はありません。どちらが勝っても最高裁まで行くしかない事案でした。
不安と苛立ちに襲われていたのは、私たちも大韓総合金融側も同じでした。第1審で敗訴となった大韓総合金融側の方がもっと不安だったかも知れません。第2審裁判部は苦心の末に双方の調停を勧めました。「全部か全無か」の結論を下すのが、裁判部も大変だった模様です。
調停する事にして交渉した結果、2004年2月2日、財団は285億ウォンを譲歩し、大韓総合金融は地上権と根抵当権を解約することで合意しました。第1審で勝訴したため、4分の1以下の金額を譲歩することによって終結することができました。譲歩した金額は、残った裁判期間と早期開発のための機会費用(*13)と考えるべきものでした。実に長くて長い争いでした。
12.不動産を債務の担保として抵当権を設定する時、複数の債権者が債務返済の優先順位に基づいて順番を決めて抵当権を設定する。この時、先順位の債権者に債権を優先的に弁済し、その次に劣後(後順位)債権者に債務が返済される。
13.ある財貨のいくつかの種類の用途の内、一つだけを選択した場合、残りの放棄した用途で得ることができる利益の評価額。「機会費用」とも呼ばれ、例えば、企業に投資したお金を銀行に預金した場合、利息を得ることができるが、この利息が企業家にとっての機会費用である。
廃墟を乗り越えて立ち上がる
廃墟を乗り越えて立ち上がる
統一グループの不渡りは、韓国経済の未曽有の混乱の中で不可避的に発生した事件でしたが、結果的には、それまで大きい重荷となってきた財団の不良企業を整理する良い機会でもありました。また、これを通して財団はヨイド敷地を含めた財団の不動産の担保問題を解決し、2003年から2005年まで、再起のためのM&A(合併・買収)を集中的に実施し、新しく堅実な経済基盤を備えることができました。
世界日報創刊と敷地開発
世界日報創刊と敷地購入に関する話を、龍坪リゾートと関連付けてまずお話したいと思います。
1987年秋、米国ニューヨークの世界本部を中心にしてきた仕事を止めて、しばらく帰国の途に就きました。当時、お父様から重大な使命をいくつか受けていましたが、その一つがソウルに中央日刊紙を創刊することでした。
お父様は普段から、言論の使命、正しい言論の重要性に対して深い関心を持っていました。生涯を通して言論から甚だしい被害を受けながら、言論による偽りの噂や情報が、社会にどれほど大きな害悪になるかを切実に感じておられました。言論が、社会の公明な教育機関として、極めて重大な責任を持っていることを、お父様は常に強調してこられました。このために既に、日本や米国、中東、南米で日刊紙と通信社を直接支援してきましたし、責任言論を主題に国際会議も十数回、開催しました。
韓国社会の雰囲気が大きく変わったと言っても、中央日刊紙の創刊は依然として容易なことではありませんでした。法が変わったと言ってできることでもなく、お金があるからと言って可能なことでもありませんでした。統一運動に対する偏見がひどい状況ではなおさらでした。それでもお父様の知恵と機会を逃さない推進力により、日刊新聞社の設立認可を得ることができたのです。
1988年初め、神様の大きな恩恵を実感しながら、待望の中央日刊紙創刊認可書をお父様にお伝えしながら申し上げました。
「これから発行人と社長を任命しなければなりません。そうすることで、創刊実務を進めることができます」
すると返って来たお父様のみ言葉は余りにも意外でした。
「お前がすべきだろう、他に誰がするのか」
その頃、ニューヨーク世界宣教本部では、世界的に重大な仕事が溜まっている状態で、私が来ることだけを待っていました。そのため、必要な手続きを経た後、第2事務局をソウルに置いて、同時にさまざまな仕事を進めることにしました。
私は世界日報の初代発行人兼社長として、1989年2月を創刊日に定め、準備作業に入りました。当時困難だったことの一つは、社屋を準備する問題でした。限定された予算では、地下に輪転機を入れるに足る空間を備えたビルを見つけるのは簡単ではなかったからです。虚しく歳月が過ぎること1ヵ月余り、ソウル龍山に位置する前鉄道高等学校敷地が競売に出されたという消息を入手しました。輪転機を設置し、事務空間から駐車場まで、今すぐ使用するのに不足はありませんでした。予算が心配でしたが、広い敷地に対する将来価値に希望を託しました。
定められた日に競売の現場に行きました。ところが、競売会場の奥の部屋には職員を同行することができず、当事者である私一人だけしか入れませんでした。
当惑しました。その日、競売に参加したのは15人程でしたが、皆、財閥企業系列の会社や大型建設会社の最高役員たちでした。私だけ何の経験もない宗教人でした。規定用紙が一枚ずつ配られて入札価格を書けというので本当に当惑しました。苦慮したあげく、思い切って292億7,400万ウォンという金額を書いて出しました。敷地の地価から見て300億ウォンに近くならないといけないだろうと予想したからです。1988年当時としてはものすごい金額でした。
入札者たちから用紙を回収して30分余り過ぎてから発表されましたが、私が落札したというのです。一緒に入札に参加した、とても有名な建設会社の社長たちが私をちらっと横目で見ながら過ぎ去りました。「どこからか化物のような奴が現われて、これをひったくって行った」と言いたげな表情でした。1ヵ月後、米国から帰国されたお父様は、空港を出るやいなや、「落札した前鉄道高等学校の建物に案内せよ」と言われました。広い運動場と、3~4階の建物の教室の中まで見て回られて、「よくやった、すばらしい」と満足しておられました。大きな仕事をやり遂げて、お父様がどんな反応をされるかを焦る思いで待っていた私が、一息ついた瞬間でした。こうした事情を経て、龍山区漢江路に、私たちのヨイド敷地面積にほぼ匹敵する敷地36,681㎡(11,115坪)の鉄道高等学校が、最初の世界日報本社として使われて以来、16年の歴史を経てきたことになります。
これまで、統一グループ全体が不渡りの困難な状況を経験し、借入金と運営赤字の累積により、「世界日報自らの財政状態も困難なので敷地を売り渡そう」という意見が数年目に提起されました。そうした2001年にお父様は、世界日報社長でも財団理事長でもない私の責任で、「世界日報の敷地開発を推進せよ」という案を提示されました。黄善祚財団理事長など8人で開発準備委員会が構成され、何度かの熟考を経て、「私たちの側に最大の利益を保障してくれる事業者を選定」することにしました。説明会を開催し、確定利益金として最大金額(1,780億ウォン)を提示したポスコ建設とハイテクハウジングが開発業者に選定されました。あらゆる紆余曲折と陰湿なデマの中、最終の署名捺印を控えた段階にきて、突然、開発中止の指示が下されました。頼みこんだ末、「礼儀がない」と猛反発する建設会社の了解を取り付け、なんとか無かったこととして収拾されました。
2002年の後半、再び開発決定が下され、私は前回の事業者に選定されたポスコ建設の会長に会って丁重に参加を要請しましたが、断られました。結局11月19日、再入札の結果、大宇建設が事業施工会社に選定されました。開発確定利益金として提示された契約金は2,050億ウォンでした。
世界日報の広い敷地は、2000年代初め、都心再開発事業地に指定され、買入価格の7倍に及ぶ超高値の土地に様変りしました。驚くべき結果でした。共同開発会社である大宇建設から受け取った2,050億ウォン以外にも、近隣住民の土地と合わせた共同開発区域に含まれる私たちの半端な敷地に、26階のオフィスビルが建てられれば、その収益の半分を、追加費用の負担なく、新聞社の分け前として受け取るという特約まで締結されました。また、後にそのビルに新聞社が入居すれば、事務空間を除いた多くの階の賃貸収入で新聞社が財政自立できるだろうという夢も持ちました。その後、財団がその建物をどのように活用しているのか興味深いところです。結果的に、世界日報敷地の購入は、いわゆる「怪我の功名」で、何も分からずに競売に出たことが大いに幸いし、極めて成功的な投資につながり、グループ再起のための確固たる基盤となりました。
龍坪リゾート買収
2018年、冬季オリンピックが開催された江原道平昌の龍坪リゾートは、双龍グル-プが開発して長年保有していた韓国最高の施設として有名な休養地です。IMF金融危機の時、双龍グループが不渡りになり、債券銀行によって株式売却入札の広告が出されたという消息を入手しました。ここを直接踏査されたお父様は、「これから全世界の人たちが共に参加する平和の祭典が開かれる」と言いながら、激励されました。
双龍グループとの接触がスムーズに行われ、株式売却申請に参加しましたが、天の助けによって全量買収に成功することができました。2003年2月11日、龍坪リゾートは1,102億ウォンで、世界日報名義で買収できました。将来価値が確実に保障された買収でした。適期に確保された世界日報敷地開発収益金がその財源の役割を果たしたのです。
龍坪リゾートは、会社保有の186万坪に国有地賃借土地314万坪など、全520万坪の広大な国民観光団地です。龍坪カントリークラブ18ホール、バーチヒル18ホール、パブリック9ホールなど、全45ホールのゴルフ場と、ドラゴンバレーホテル、龍坪コンドミニアム、ビッラコンド、バーチヒルコンド、ユースホステルなどの宿所を保有しており、31面のスキースロープを備え、2018年平昌冬季オリンピックにも公式競技場として大きく寄与しました。
世界日報が大株主になりましたが、経営は維持財団が直接担当するようにしました。買収すると直ちに、グリーンピア・コンドとザ・プレストコンドの分譲に成功し、この時に入った分譲代金で会社の借入金を大幅に減らし、直ちに黒字経営の基盤を作ることができました。私が大きな達成感を覚えた出来事の一つです。
龍坪リゾートは、2016年に上場会社になりました。上場のための公式資産評価は7,000億ウォンから1兆ウォンに上がりました。今は2018年冬季オリンピックのお陰で、周辺インフラが大きく改善され、企業価値がさらに上昇しました。龍坪リゾートはいつのまにか、統一グループの代表的企業となりました。
統一重工業の協力会社と現代機工の買収
統一重工業が不渡りになり、統一重工業が大株主になっていた成信創業投資や東洋ギア、進興工業、善一熱処理工業、大成精密工業、鋭和工業、徳興工業など、系列会社の経営権も喪失してしまいました。これらの会社は、激しい労使紛争に苦しむ統一重工業でストライキが起こったとしても、生産に支障をきたさないように、統一重工業の生産部門別に運営してきた別途の小さな企業でした。これらが全て集まれば小さな統一重工業になるのです。それゆえ統一重工業の不渡り以後、統一重工業の再買収は難しいとしても、これら協力会社だけでも再買収して育てれば、第2の統一重工業になることができました。
しかし、不渡り危機にある協力会社を買収しようと、臆面もなく、お父様に支援を要請することはできませんでした。しかし、だからといって、これをただ放棄するのも惜しまれました。運がよければ、小規模でも、統一重工業の代わりに再び機械工業を起こすことができないかとの期待感もありました。
お金はありませんが、「それでも可能な方法はないか」と探していた時に、Qキャピタルというリストラ専門会社に出会いました。
2001年5月、Qキャピタルのファンドが昌原の協力会社に全50億ウォンを投資し、財団では統一重工業から回収すべき共益債券の一部を、統一重工業が所有していた協力会社の株式と債券を買い取るのに使うことで投資合意しました。いわば、財団も統一重工業に対する共益債券で投資したのです。Qキャピタルが3年間経営した後には、Qキャピタルファンドの持分と純資産の増加分だけQキャピタルが回収していくことにしました。
この計画は見事に的中しました。3年後にはこれらの会社は全て黒字経営を果たし、財団は統一重工業の協力会社を再買収することができたのです。
再買収された協力会社の役職員たちは、それこそ意気揚々と熱心に働きました。2004年9月、昌原工場を訪問されたお父様も大変喜ばれました。統一重工業を失くして以降、2度と機械工業はできないだろうと深く心を痛めておられましたが、統一重工業よりは小さくても、再び機械工業ができるようになっただけでなく、発展の可能性が見られたからです。
先進技術と独歩的な市場を足場にして、安定的な事業体として認められていた統一重工業が潰れたのは、東洋機械を合併した際に一緒に移行してきた強硬な労働組合のためでした。したがって、同じ条件を備えながらも、労使間の円満な関係を維持する協力企業の可能性は、非常に大きかったのです。お父様は数日後にも再び訪問して激励してくださり、大幅な投資も約束されました。
昌原の会社は主に、自動車のギア類の部品を生産するのに、外部からその素材を調逹していました。素材から加工、熱処理までして初めて部品が完成します。一貫工程上、鍛造素材工場があったらよいのにと思っていたところ、まさにその鍛造工場である現代機工が売りに出されました。目下、買収価格を交渉していた2004年11月、お父様は気になられる余り、朝早くヘリコプターに乗って現代機工を訪問されました。余りにも突然の訪問であったため、アフリカでUN関連の国際会議に参加中だった私は、随行もできませんでした。現場を見回られて満足されたお父様は、その場ですぐに買収を促されました。価格はそれ以上調整できず、35億ウォンで買収が完了(2004年12月14日)しました。
お父様は、昌原の6社を全て合わせて、「新統一産業」と命名されました。統一産業の再起を念願してこられた思いがどれほど切実だったのかが伺われます。これら6社は、その後全て統合されて、今では会社名がTICに変わっています。
しかし、國進様が財団の企業経営の責任を引き受けて以後、「現代機工の買収は間違いである」といい、買収して間もない会社を、捨て値(聞こえてくる話では1~2億ウォン)で売却してしまいました。実に理解しようにも理解しがたいことでした。当時、大株主の保証がある債務をそのまま買い取りましたが、「これを財団では責任を持つことができない」ということと、「会社が赤字を出している」という理由でした。現代機工の買収を誤った決定だったとして追いやり、その責任を私に被せようとしたのです。しかし、売却後わずか3ヵ月後に、その会社は黒字に転換し、保証債務もいくらもしないうちに、全く問題でなくなったといいます。昌原の新統一産業に対する追加投資も成されず、お父様の機械工業に対する期待は、それ以上花を咲かせることができませんでした。
一信石材と一和の買収
2004年1月9日、財団は一信石材のM&A入札に「ストーンアート」という別の企業を代わりに参加させ、熾烈な競争のあげく買収しました。一信石材が保有していた抱川石山と利川工場敷地に、将来宅地開発の可能性があるということで競争が激化したのです。1年後、財団はストーンアートから再び一信石材を買収しました。
一和の場合は、営業特性上、日本統一教会に依存するところが大きかったため、会社整理計画の内容から、第三者が買収するには難しい点がありました。まさにこのため、財団が過去の大株主であったにも関わらず、一和を再買収するのに有利になりました。そこで財団はこれを裁判所側に説得し、裁判所側から提示される条件を満たすことによって、一和を再買収することができました。
グループ再起のためのM&Aは、主に2003~2005年の間に集中的に成されました。グループの不渡り当時、会社回生のために整理手続きが開始された統一重工業、韓国チタニウム、一成建設、一信石材、一和など5社の財務現況を見ると、5社を単純合計した時の総資産は1兆2,603億ウォン、総負債は2兆458億ウォン、総資本(純資産)は-7,885億ウォンでした。5社全てが100%資本欠損の状態で、会社の全ての資産を処分しても負債を返せない状況でした。5社全てが、自社負債の他にも、相互間の支給保証債務が2兆4,189億ウォンにもなりました。会社正常化が不可能と判断された時、迅速な整理ができず、問題だけをさらに大きくしたわけです。
しかし、M&Aの結果、財団が買収した龍坪リゾート、昌原協力会社(現TIC)、一信石材、一和、現代機工などの買収直後の資産と負債と資本などを全て単純合算すると、総資産8,397億ウォン、総負債6,109億ウォン、総資本(純資産)2,288億ウォンになりました。
不渡り当時と比べた時、結果的にM&Aは、資本(純資産)で1兆143億ウォンの改善効果を見せたわけです。不渡り当時の負債が資産より大きく、持続的な営業赤字で全く改善する気配が見えず、絶望的だった状態と比べると、天地開闢と呼んでもよいでしょう。このようにM&Aを通して、より良い財務構造になっただけでなく、持続的に収益を出せる良い企業を所有できるようになったのです。
会社だけが良くなったのではありません。ヨイド敷地を含めて維持財団の全ての不動産に設定された抵当権が、債務調整と償還によって解約され、すっきり整理されました。これは、企業買収の成功に劣らない成果です。
國進様が、財団理事長に就任して1年半後、財団経営の成果を、ご自身の実績として大きく報告し、今でもそう言う人がいると聞いていますが、事実はそれ以前に、こうした基盤が築かれていたのです。IMF金融危機の時の不渡りによって経済的基盤をほとんど喪失し、極度に萎縮していたグループの位相も、M&Aの成功により回復しました。
財団の回生は、お父様の驚くべき指導力と精誠、そして不足ながらも私に対する全面的信頼があったために、可能なことでした。韓国食口たちを含めた全世界の統一運動の食口たちの心配と支援と祈祷、そして不渡りの苦痛の中で、これを克服するために苦労した財団と会社役職員たちの労苦にも深く感謝しています。
しかし、人間の努力と能力だけで成しとげられた成果ではありませんでした。何よりも、背後で心配し助けてくださった神様が、味方におられたので可能なことでした。
訴訟の始まり
訴訟の始まり
ヨイド敷地の所有者は初めから韓国の統一維持財団であり、その後何十年もの間、一度も変わることなく、今も財団の所有のままです。国家的な経済災難の中でも、神様の恩恵とお父様の精誠によって、奇蹟的に保存されてきました。
それにも関わらず、家庭連合側は顯進様と私が、ヨイド敷地を盗んで売り払ったなどと理に合わない非難に没頭してきました。食口の中でもかなりの人たちが、とんでもないこの虚偽事実を信じているのですから、残念で仕方ありません。
いくら単純に考え、教権者の陰湿な行動にだまされたのだとしても、2兆ウォン近い開発費を当時の私たちが独自に準備する術があったと思われるのでしょうか。
ヨイド敷地の開発過程
ヨイド敷地は上で説明した通り、競売の危機を辛うじて免れましたが、確かな開発計画がなければ、債権者たちが競売申請の条件でいつまた立ち上がるかも知れない状況でした。
財団は、1978年からヨイド敷地に世界宣教本部を作るために、20年間何度も建築許可を申請しましたが、あれやこれやの理由で毎回、差し戻されました。最大の理由は既成教団の反対でした。
2000年11月30日、財団は国内の反対世論を克服するだけでなく、将来必要な天文学的な開発費を誘致するために、「海外法人トリエステ・インベストメントに、ヨイド敷地に対する開発と75年の条件付き地上権(*14)を委任」する契約を締結し、これを債権者たちにも知らせました。敷地が開発されれば、債権者たちの資金が問題なく回収されるという確信を与えることができ、競売申請を事前に防ごうとする事前作業でもありました。
どうしたら「お父様の生前に宿願を果たして差し上げるか」というのが、常に財団理事長としての私の最大の悩みの一つでした。
債務償還はもちろん、天文学的な建設費用をどのように調逹するかも大きな難題でした。さまざまな情況から私たち自体の費用で建設する方案から、外部から資金を調達する方向に、大きく方向展開しなければなりませんでした。
トリエステは海外法人だったので、国内にヨイド敷地の開発事業や建築管理などのための特殊目的法人としてMREという開発会社を設立し、これと関連して、2001年2月27日に財団とトリエステとMREの間で契約を締結しました(第1次修正契約)。
統一グループがある程度、再起の段階に上がった後には、より具体的な開発計画が盛り込まれた新しい特殊目的法人であるYIFCに、MREの全ての権利が継承されました。2004年5月4日には、地上権を75年から99年に延長しましたが、これは国際慣例に従い、安定的な投資を保障することによって、開発のための外部投資者を円滑に誘致するためでした(第2次修正契約)。
2005年の初め、国内法人税法が改定され、不動産開発会社、資産運用会社、金融機関が特殊目的会社(SPC)に共同出資し、不動産開発や賃貸分譲および管理事業を推進するプロジェクト金融投資会社制度が初めてできました。そして2005年4月28日、施行会社側は新たな制度に従い、ヨイド敷地を開発するためのY22プロジェクト金融投資会社を新たに設立しました。
2005年5月6日、財団とトリエステ、MRE、YIFC、Y22プロジェクト金融投資会社(Y22)の間で、ヨイド敷地関連契約に関する第3次修正契約が締結されました。「第2次修正契約におけるYIFCは、Y22を指すものと見なし、YIFCの全ての権利と義務は全てY22が引き受け継承する」というのが契約の要点でした。そして、YIFCの全ての権利と義務を継承したY22は、同日付で財団と地上権設定契約を新たに締結しました(基本契約)。そして、直ちに地上権設定登記をしました。
契約の主要内容は、
- 地上権の存続期間は、契約締結日から満99年
- 地料は、毎年当該年度の公示地価の3.5%に該当する金額
- 地上権が消滅する時は、Y22が建築して残存するY22所有の建物、その他の付加物一切に対して、所有権を財団に無償譲渡し、譲渡するまで通常的な維持保守を行う義務
- 基本契約に従い、Y22に地上権設定登記を行うこと
などでした。
ところが、2005年1月3日、國進様が韓国財団に赴任すると、ヨイド敷地開発事業に多くの困難が生じ始めました。國進様は、統一グループの不渡りで債務がまだ整理されておらず、財団が開発の前面に出ることが難しいのにもかかわらず、このプロジェクトを直接進めることを願いました。
約1年間、國進様との葛藤により開発事業の進展が難しく、2006年2月、開発実務責任者であるポール・M・ロジャース氏と國進様との間の激しい衝突によって誤解が生まれ、開発の責任を國進様が引き受けるようにしました。しかし、さらに約2ヵ月が過ぎ、後になって國進様の過ちを確認されたお父様は、2006年4月23日に緊急召集したニューヨークのイーストガーデンでの集まりで、最終的に「國進様はヨイドから手を引き、顯進様とUCIが開発の責任を担当するように」と整理してくださいました。また、私にはその仕事を横で続けて助けるようにと依頼されました。
2006年5月4日、私がお父様に侍って帰国した時も、ヨイド聖地で祈祷された後、その場にお迎えに来ていた國進様に、再度「ヨイドから手を引くこと」を強く指示され、私には顯進様を手伝って早く進めるようにと依頼されました。その日に財団理事会が開催され、維持財団とY22の間で2005年5月6日に締結された基本契約を変更する地上権設定変更契約が、締結されました。國進様はこの日の理事会に参席されず、金孝律理事を含めた残りの理事全員が賛成しました。
その主要な内容は、
- 地料は当該年度の公示地価の3.5%から5%とし、
- 建築予定である建物の中で、最初に使用承認を受けた建物の使用承認日から満3年が経過した日までは無償とする
というものでした。
地料を公示地価の5%に変更したのは、ヨイド敷地の前にあるAIGの開発事業においてソウル市とAIGの間で締結された賃貸借契約の地料が、公示地価の5%だったからです。
この日までも、維持財団の代表はまだ私で、Y22の代表はポール・M・ロジャース氏でした。
2006年5月8日、財団理事長に國進様が公式就任しました。しかし、しばらく後に事情が生じて表向きは文國進理事長が一時的に退き、彼が推薦した安珍善理事長が業務を遂行するようになりました。
2006年5月29日9時30分、安珍善理事長によって財団理事会が召集されました。この理事会で維持財団とY22の間に、新しくかつ完全な最終契約が議決されました。理事会に先立ち、司会者が契約の主要内容を朗読しました。理事会の案件によると、2006年4月23日、ニューヨークの会合でお父様は、「ヨイド開発は韓国財団だけの問題ではなく、摂理的に世界財団であるUCI次元で開発しなければならない」と語られたのです。この内容に関して、お父様のみ言葉を直接聞いていた私はもちろん、國進様と金孝律氏も何の異議も提起しませんでした。
新しい契約によると、
- この新しい契約は財団とY22との間の完全な契約であり、過去の全ての契約と表現された意図に対して優先権を持つ。
- 財団の権利と義務を具体的に明示(6項目)
- Y22の権利と義務を具体的に明示(6項目)
最終契約の内容が理事会で議決されることによって、財団とY22との最終契約は、2006年5月30日に締結されました。この契約の代表は、財団は安珍善理事長、Y22はポール・M・ロジャース氏でした。
この契約による地上権更正登記申請は、翌年の2007年2月7日、文國進財団理事長の名義に変更登記されました。
2006年7月11日、待ちに待ったヨイド敷地建築許可がソウル市から承認されました。7月12日には基盤施設分担金に関する法律が施行される予定でしたので、一日でも建築許可が遅れていたら莫大な基盤施設分担金が賦課されるところでした。どれほど肝を冷やしたか知れません。実際、建築許可も7月11日夕方6時頃に下りたため、最後まで大変な思いをしました。内的にも外的にも、実に多くの試練と峠を越えて、26年ぶりに建築許可が下りたのです。これもまた、神様の助けであったと思います。
ついに2007年4月14日10時30分、いわゆるヨイド世界宣教本部起工式がありました。
ヨイド敷地は当初、宗教用地として払い下げを受けたのにも関わらず、20年余りにわたり、宗教用建物の建築許可が得られなかったため、商業用の用地に地目(土地の用途による区分)を変更していました。この建物の最上階に世界本部事務室を置き、その象徴性を活かそうという意味から、世界本部起工式と名付けたのです。お父様とお母様ご夫妻と真の子女様、家庭連合元老、機関企業体責任者たちが参加した対内的な起工式でした。残念なことに、財団からは文國進理事長をはじめとする幹部たちは、ついに参加しませんでした。国家的に暗うつな経済状況の下、共に漂流してきたグループ危機の中にあって、この地を保存しようとされてきたお父様の心情を余りにもよく知る私としては、実に感激的な瞬間でした。
この瞬間のために、どれだけ多くの困難を越えてきたでしょうか。
お父様の喜びもまた、到底言葉で言い尽くせるものではありませんでした。
起工式までの大まかな過程を経過報告する途中で、お父様は「苦労した郭会長に拍手しよう」と称賛してくださいました。私としては、それまでの苦労と悔しさが全て解消される瞬間でした。
6月5日には、Y22の主管でヨイドParc1起工式が開催されました。対外的な行事でした。呉世勲(オ・セフン)ソウル市長、国会議員、在韓英国大使、商工会議所所長などが参加して祝賀してくれました。施工は、国内最高の建設会社であるサムスン物産が担当しました。
Y22は、初期工事費を国内金融機関を通してブリッジローン(15)で調逹しました。約2兆ウォンが投入される全プロジェクトの資金を調逹するために、新韓銀行を主幹事とするPF(16)が推進されました。巨大資金が必要な事業は、大部分このような方式で事業が推進されます。「工事が始まった」ということは、すなわち、「この事業が金融機関から肯定的に評価された」ことを意味します。
地下掘削工事が盛んに進められていた2008年11月10日、父母様ご夫妻が家庭連合幹部たちと共にヨイド工事現場を訪問しました。工事現場事務室で、顯進様から現場説明の報告を受けられた父母様は、非常に満足され、記念写真も撮られました。
14.他人の土地にある建物、その他の工作物や樹木を所有するために、その土地を使用できる物権を言う。
15.ブリッジローンは、一時的な資金難に陥った場合、一時的に資金を連結する橋(Bridge)となる融資のことであり、いわゆる、その場しのぎの融資である。つまり資金が急に必要だが十分な資金を集めるまで時間がかかる場合、短期借入等により必要な資金を一時的に調達するのがブリッジローンである。
16.PF(不動産プロジェクトファイナンシング):不動産開発関連の特定プロジェクトの事業性を評価し、その事業性で発生する将来のキャッシュフローを、提供された借入元利金の主な返済財源とする貸付を意味する。
無謀な訴訟費用で、天文学的な金額の公的資金を使い果たすとは!
2010年10月29日に維持財団(理事長:文國進)は、Y22を相手にソウル中央地方裁判所にヨイド敷地に対する地上権設定登記抹消を請求する訴訟を提起しました。
財団の主張の要旨は次の通りでした。
「本事件の基本契約当時、財団の理事長だった郭錠煥は、Y22を事実上支配したりY22に影響力を行使する自分の地位を土台に、財団に莫大な損害を与え、Y22に莫大な利益を付与する内容の基本契約を独断で締結することにより、財団に対する背任行為を行い、Y22がこれに積極的に加担したため、本事件の基本契約は、社会秩序に反する法律行為に該当し無効である。また、本事件の基本契約が財団の主務官庁である文化観光部の許可を受けていないので無効である」
千辛万苦の末に工事を始め、PF資金も1兆3,000余億ウォンが集められ、ほとんど仕上げにかかっていたY22としては、ひどく当惑せざるを得ませんでした。PF主幹事である新韓銀行も同様でした。訴訟が提起されれば、金融監督規定によって要注意与信となるため、金融機関としては投資をためらうようになります。そのため、市中では「統一財団の訴訟提起は、パークワンPF自体を妨害する目的」とさえ言われました。
施工業者のサムスン物産も窮地に追い込まれました。契約金420億ウォンだけ受け取って、1,000億ウォン規模の工事が進められましたが、PFができないと、工事費まで負わされることになります。ブリッジローンを貸し出した貯蓄銀行も、1,600億ウォンの貸出金を回収できなくなれば、不良貸出に分類されて不渡りを宣言するしかないのです。
一方で、家庭連合側では訴訟だけでなく、ヨイド聖地保護信徒対策委員会(信対委と略称、代表:楊俊洙(ヤン・ジュンス)他7人)という組織を急遽立ち上げました。彼らは11月と12月にヨイド現場を訪ねて、「世界宣教本部の場所に金融会社を建設させるな」とキャンドルデモを行い、オフィス建物売却の交渉中だった未来アセットとマッコーリー証券、PFを主幹した新韓銀行などを何度も訪ねて抗議しました。財団はまた、地上権処分禁止仮処分申請と、パークワン工事中止仮処分申請を行いました。お父様の宿願事業を、財団と家庭連合が先頭に立って妨害したのです。
財団側の訴訟提起と信対委の売却反対デモに直面した金融業界は、結局、1兆8,000億ウォン余りの本PFを中断してしまいました。マッコーリー証券と未来アセット証券とのオフィス売却交渉を無為にし、金融機関がパークワンPF投資に参加できなくしようという財団側の目的が達成されたのです。
本PFが無為に帰すと、2010月12月7日、パークワンプロジェクトのブリッジローン貸主団が施行会社のスカイランに対する期限利益喪失(EOD)を宣言しました。期限利益喪失(EOD)は、債権者である金融機関が債務者に貸した資金に対して満期前に回収を要求することを言います。ワークアウト、法定管理、訴訟などで、債務者の信用に危険が発生した時、債権者は期限利益喪失を宣言することができます。事実上の債務不履行宣言でした。Y22はこれ以上、事業を推進できないほどの窮地に追い込まれました。
弱り目にたたり目で、Y22は1,600億ウォンのブリッジローンを調逹する時に、自分の株式を貸主団に任せる根質権(*17)を設定しました。1,600億ウォンのブリッジローンを返せなければ、貸主団が第三者にY22の株式を売却できるようにするというというものです。財団はこの事実を知って、Y22がブリッジローンを償還できない場合には、Y22自体を買収することによってヨイド開発事業を奪い取ろうという計算をしました。そうするためには、本PFが無為に帰して、ブリッジローンが償還不能状態にならなければならなかったのです。
財団はこれに対する準備として、アールユーエス&マネジメントという法人(住所を維持財団の所有建物に置き、文國進理事長の側近である金喜秀が代表取締役を担当)を密かに設立しました。アールユーエス&マネジメントは、三逸(サミル)会計法人に依頼してY22の株式価値評価まで終えていました。
しかし、このような計略を知ったY22側が、2011年3月16日、劇的にブリッジローンを弁済することにより、Y22を奪い取ろうとしていた計略は失敗に帰しました。(ブリッジローン弁済締切時間直前まで、弁済が難航する姿を見せると、財団側の弁護士たちはY22株式を引き取ることができると考え、株式登記手続きのために、殊勝にもマレーシア行きの飛行機に乗っていたそうです)その後、財団はアールユーエス&マネジメントを急いで清算しました。このような恥ずかしい真実を隠蔽するためだったのです。
資金調逹を意図的に妨害し、窮地に置かれた相手の会社を奪い取ろうとする試みは、世の中でも正当ではない行為です。
2006年5月30日に締結された財団とY22との間の最終契約は、理事会の議決を経て、それ以前の全ての契約より完全な契約であり、過去の全ての契約に表現された意図に対して優先する最終契約として締結されました。
その時、私は財団理事長でもY22代表でもありませんでした。当時の財団理事長は、國進様がしばらく代理として立てた安珍善氏であり、実質的な財団業務の総括責任者は相変らず國進様でした。さらには、この最終契約に基づいたY22の地上権設定登記申請は、文國進様本人の名義で行われたものです。そうしておいて、ヨイド敷地保存のために千辛万苦した私を、契約当事者でもない私を、背任した者、泥棒として追い立てて訴訟を起こすとは、こんな非道徳的で天地が共に憤慨するようなことがあり得るでしょうか。
それにもかかわらず、訴訟が提起されて約2年後の2011年7月20日、ソウル中央地方裁判所第14民事部では、地上権設定登記無効請求訴訟で財団が敗訴しました。当然の結果でした。その後の裁判の結果、2011年12月29日、裁判所は「財団はY22が被った損害額450億9,469万8,038ウォンおよびこれに対する利子を賠償せよ」と判決しました。
第1審で敗れた財団は、地上権設定登記無効訴訟を、2011年8月29日、高等裁判所に再び控訴しました。訴訟の準備において、財団は第1審から韓国最高のローファーム(法律事務所)の一つである太平洋法務法人を選び、第2審でも第1審の敗訴を挽回するために複数の有名ローファームを追加して、あらゆる手段を全て動員しました。第2審では、両側の熾烈な法理論争と共に、私や文國進理事長など多数の証人が法廷に出て、証人審問を受けました。
また財団は、彼らの主張を立証するために、地上権訴訟における論理に従い、私を背任の嫌疑で検察に告訴しました。控訴審裁判では、証人審問以降、検察に私を偽証嫌疑で告訴をもう一つ追加しました。私が嘘をついたというのです。また、信対委を動員して、やはり偽証と背任と横領で重複して告発しました。検察の調査の結果、私がいずれか一つの部分でも背任と偽証の嫌疑で起訴されさえすれば、この控訴審裁判で勝利できると判断したのでしょう。
ところが、私に対する検察の調査と決定が出る前の2012年8月1日、高等裁判所で地上権設定登記無効訴訟に対する控訴審判決が先に下されました。財団の明白な敗訴でした。私個人に対する検察の調査結果まで待たずとも、財団側の主張は余りにも判然としていて、とても受け入れられなかったのです。
以下は、高等裁判所裁判部の判断です。
「本事件の基本契約当時、郭錠煥がUCIおよびその傘下にある会社に対する支配を通して、被告(Y22)を個人的に支配していたり、被告に個人的な影響力を行使する位置にあったと断定するには足りず、他にもこれを認める証拠はない。
また、本事件の基本契約締結の頃、郭錠煥が被告(Y22)を個人的に支配しながら、原告(財団)に不利で、被告に一方的に有利な内容の契約を締結し、原告には莫大な損害を与え、被告に利益を付与していると見ることはできない。
主務官庁の許可がなく、無効という財団の主張に対しても、第1審と同じ理由から認めることはできない」
それまで財団は、裁判過程において、甚だしくは「真の父母様宣布文」と「お父様の陳術書」まで提出して、私が背任と横領を行い、地上権契約が不当に締結されたと主張しました。貴いお父様を泥沼の争いに引き込む親不孝を犯したのです。もちろん裁判部は、財団の主張を受け入れませんでした。陳術書などが、その内容や表現、形式に照らして、「客観的な真実を表現していると見ることができず、何らかの意図によって作成された」という判断を下したものと見られます。
2012年8月3日と2012年12月18日、私に対する財団の背任と偽証の控訴の件は、検察で各々不起訴決定されました。また、信対委の背任と横領の嫌疑の告発の件は、2013年4月5日に地方検察庁で嫌疑なしとして不起訴決定されました。しかし、信対委は、高等検察庁と最高検察庁にまで抗告と再抗告を繰り返し、結局、高等検察庁の棄却に続いて、2013年12月20日には最高検察庁でも、最終的に再抗告が棄却されました。
背任と横領の嫌疑に対する検察の調査が最高検察庁まで行ったので、生涯において検察の調査というものを受けたことがない私としては、極めて骨のおれる経験でした。しかし、逆に考えてみると、「第三者である司法機関によって私の潔白が明らかにされた幸いな結果」と見ることができます。
財団は、地上権設定登記無効訴訟の第2審で敗訴となると、再び最高裁に上告しました。お父様が、江南聖母病院の集中治療室に入院しておられる間に、財団理事会を開いてこういう決定を下したのです。最高裁で何としても勝つために、彼らは国内最大最高のローファームを総動員しました。太平洋、ファウ、クァンジャン、南山などです。その顔ぶれを見るだけでも財団がどれほど総力を挙げていたか、また投入された弁護士費用はどれほどであったか、十分に見当がつく内容でした。神様のみ旨のために作られた公的資金を、無謀な訴訟費用に、これほど天文学的な金額を浪費してもよいものか、ぜひ聞いてみたいものです。
実に重苦しく、残念なばかりでした。第1審と第2審の判決文だけ見ても明らかですが、彼らは話にもならない強引な主張と巧妙な偽りの論理を動員しながら、真の父母様を欺き、食口たちを欺瞞する非原理的なことをしました。ヨイド開発関係の最終契約当事者が自分たちであるのに、このような訴訟を起こしたのです。世の中でもありそうにない非道徳的なことです。
2014年7月10日、やはり最高裁は原告である財団の上告を棄却しました。
17.根質は、債権者が債務者または第3者(担保提供者)から受け取った債務の担保として提供された動産、有価証券、債券を占有することにより、債務の弁済を間接的に強制し、債務を履行しない場合には、その物件を処分したり、競売を実行し、その代金で優先的に弁済を受けることができる権利を言う。この場合、根質権は質権設定の制限を定め、そこまで担保することを言う。
ヨイド地上権設定登記無効訴訟が及ぼす被害と影響
地上権設定登記無効訴訟が始まったのは、ヨイドパークワンの工事が既に20%ほど進められ、基礎工事が完了していく時点でした。全ての過程が順調に進めば、3~4年内に完工が可能だったでしょう。そうなっていたら、お父様は、一生の宿願の中の一つを生前に成しとげることができたことでしょう。
しかし財団の無謀な訴訟が始まることによって、全てが食い違ってしまいました。
その上、双方共に莫大な公的資金の損失を被ってしまいました。財団側は、裁判が長びけば、相手側が増大する財政難に耐えられず、ひざまずくだろうと判断したのだと思いますが、それは大きな誤りであり、結果的に財団側に、より莫大な損失をもらたしました。
ヨイド地上権訴訟の第1審が終わった後、Y22は財団を相手に損害賠償請求訴訟を起こし、2011年12月29日に、財団は「約451億ウォンの損害賠償を支払う」ように判決を受けました。財団はこれを不服として、高等裁判所と最高裁判所にまで上告しましたが、敗訴となり、損害賠償額はもちろん、上告期間に発生した莫大な利子まで支払うようになりました。これに加えて、工事が遅延した分だけ地料収入も入らなくなるため、その損失額まで含めると天文学的な規模に及ぶでしょう。
お父様は生前に、多くの苦難と迫害を勝ち抜いて、地球村180ヵ国余りに世界的な統一運動の基盤を築きました。宗教を越えて、国際的に学術、教育、超宗教の和解、文化、言論、経済、スポーツなど多様な分野での活動で、世界平和のための大きな業績を築きました。その方の最も偉大な業績は、「全ての人類が神様の真なる理想家庭を築いて生きていくことができる道」を拓いた祝福運動でした。ご自身の家庭から真の家庭を築くために生きてこられた方であり、交叉・交体祝福結婚で、世界人類が、実質的に神様を中心とした一つの家族として生きていく世界を創ってこられた方でした。
お父様が全ての方面で世界的な運動を展開してこられた根本的な力と動機は、正に「神様の真の愛」でした。どんな境界線も克服できないものがない真の愛であり、怨讐までも抱いて一つになることができるのが真の愛です。お父様は、このような真の愛を直接、自分の生き方の中で実践され、人類が不可能だと思ってきたことを可能にしました。正にこれがお父様の偉大な点です。真の愛でキリスト教を抱き、真の愛で共産主義の障壁を崩し、真の愛で互いに怨讐のように思ってきた韓国と日本の若者たちが、夫婦を成して生きるようにされました。お父様は数多くのみ言葉の中で、「真の愛によって成しとげられないことはない」と語られました。「真の愛で一つになった家庭の中には、判事も検事も必要なく、解決できないことはない」と語られました。
家庭連合が起こした訴訟は、このようなお父様の生涯の業績と位相、ご自身が自ら実践された神様の真の愛の原則と理想に、致命的な傷を与えてしまいました。これが全ての事態の最大の被害だと言えるでしょう。
悪意的かつ消耗的に乱発する告訴と告発
悪意的かつ消耗的に乱発する告訴と告発
1999年6月28日、財団と世界日報を税務調査するとの通報が来ました。形式は定期税務調査でしたが、その裏にある政治的な意図は明らかでした。世界日報の李相回(イ・サンフェ)社長と過去に財団理事長をしていた私は、親戚まで苦痛にさらされながら、税務調査を受けたことがありました。結果は何の不正も法律違反もないことが証明されました。ところがその頃、かつて検察の要職にあった李何某という有名な弁護士から、驚くべき事実を伝え聞きました。
「今回の税務調査は、郭会長と李相回社長を監獄に送るための標的捜査であり、政権側と家庭連合内部の最高幹部の誰々、そして新聞社の中で李相回社長に反対する人々の合作によって進められたそうです」
悲痛な心情でした。しかし、口をつぐんで何も知らないふりをして、その人たちと一様に応対しました。こうした事実が外に知られれば、結局はお父様に迷惑がかかることになるからです。事必帰正の原則によって、いつかは真実が明らかになり、彼らも自ら過ちを悔いる日が来るだろうと信じました。
私が申し上げたこともないのに、後にお父様がどんな報告を受けられたのか、公式の場で、その人たち数名を叱責されたみ言葉の記録が少なからず残されています。その後も私は、どの当事者も叱責したり、追求したりはしませんでした。
尊敬していると伝えてください
私が韓国家庭連合協会長を務めていた頃、財団理事長も兼任していました。協会の総務局長が、注意深く、私にこう意見を述べました。
「協会長、財団理事長の月給の方が協会長より多いので、これからは財団から月給を受け取られては如何でしょうか」
協会運営が難しい時でしたが、私はこう答えました。
「いいえ。私は一生涯、牧会をしてきました。それなのに、財団の仕事を本業のようにして、月給をより多くもらおうとしていいのでしょうか」
一銭でも惜しい協会の局長たちを理解させた後、財団理事長より金額がはるかに少ない協会長の月給をもらって暮らしました。財団からは車代すら一銭ももらったことはありませんし、財団のお金で接待費を支払ったこともありませんでした。そのため家族はもちろん、親戚まで含めて過酷な税務調査を受けましたが、引っかかることは何一つありませんでした。6ヵ月近く財団に常駐しながら調査したにも関わらず、不正が全く見つからないとして、税務調査チームは撤収する際、財団の財務局長にこう言ったそうです。
「このように国内外で大きな仕事をしている指導者が、今もなお伝貰(チョンセ:韓国独特の住宅賃貸制度)(*18)の家に住み、銀行の残高が3百万ウォンしかないとは、実に大した方です。尊敬するとお伝えください」
私に対する良くない噂が猛威を振るっている時、こういう笑うに笑えない逸話もありました。ちょうど私たち夫婦が留守だった時、子供たちだけがいる家に、真のお母様が予告なしに訪ねて来られたことがありました。リビングと奥の部屋を見て回られ、台所も見られました。そしてお茶一杯も召し上がられずに出ていかれながら、「このように暮らしているのか」と言われ、気の毒そうな表情を浮かべられたといいます。
その翌日、漢南洞公館の朝食の時、集会が終わってお母様が私を呼ばれました。
「昨日は、せっかくお越しいただいたのに、お迎えできなくて申し訳ありませんでした」
私がこのように申し上げると、お母様はこのように言われました。
「私は昨日、郭牧師がどのように暮しているのかと思って、立ち寄ってみたのです。少しはきちんとして暮したらいいのに、どうしてあのようにして暮すのか」
「お母様、私はこの程度でも十分幸せです」
「私が個人的に郭牧師を助けてあげたいので、必要なだけ言いなさい」
「お母様、お母様、不足なものはありません」
「そう言わずに何でも言ってみなさい。私が思うところがあってそう言っているのだから」
「お母様、私は不足なく、感謝して暮しています。お母様から助けを頂いては、私の心に重荷になりそうです。後で必要なら申し上げます。ありがとうございます」
そのように繰り返しお断りしたことがありました。
協会長を離任する時、私は後任の人に様々な種類の少なくない基金を引き継ぎました。家庭堂総裁職を去る時も、後任に大きな資産を引き継いだことがあります。鮮文大学院理事長職を去る時もそうでした。それまで節約して溜めた基金を、後任の人が続けて節約しながら、公的な目的のために正しく使うことだけをひたすら願ってきました。
私に関して「ケチだ」とか「周辺や部下たちによくしてくれない」と非難する人たちも多数いることを知っています。その気持ちを十分理解します。しかし、いったい私が、どうして、私のものではない天のものを自分勝手に使いながら、恩着せがましくすることができるでしょうか。私に対して今も恨めしく思っている方々がおられるなら、どうかこの文を読んで理解していただければ幸いです。
当時の標的型の税務調査は明らかにいぶかしい出来事でした。しかし、「人間万事塞翁が馬」と言うように、一生、お父様を最側近で補佐した私が、何もはばかることなく清廉な生活をしてきたことを証明することによって、お父様のより高貴な位相を印象づける契機になったと思います。
2003年9月にも、再度、税務調査を受けました。統一グループに国の公的資金調査班が投入されたのです。
国税庁、検察庁、預金保険公社、警察庁、銀行監督院から派遣された調査班でした。金融機関に公的資金が投入される原因をもたらした不良企業を政府が調査し、会社資金を流用、横領、背任した事例などを摘発した場合、損害賠償と刑事処罰をするという手順でした。調査班が正式に財団や会社の各種書類を調査して、関連役員たちを長期間調査すれば、大抵の場合、全ての不正が明らかになるものです。そのようにして、多くの企業人が刑事処罰を受けてきました。
調査当時、私は財団理事長ではありませんでしたが、グループ不渡り前後の重大事を決定した私が事実上の標的でした。しかし、大韓民国最高の専門要員たちが隅々まで調査したにも関わらず、私はもちろん、他の役員たちにおいても、ただの一件の不正も摘発されませんでした。理由は簡単です。不正を犯したことがないからでした。したがって、その当時の税務調査は逆に、私の潔白を証明する過程になったといえるでしょう。
18.住居の契約をする時、住居の所有者にまとまった一定の金額を預け、その住居を一定期間借り、月々の家賃を払わないで使い、住居を返すときは、契約段階で預けたお金の全額を戻し受ける韓国特有の賃貸システム。
告訴と不起訴の連続
世界基督教統一神霊協会維持財団(理事長:文國進)が、Y22を相手に起こした地上権設定登記抹消請求訴訟で敗れると、彼らは1ヵ月後の2011年8月29日に高等裁判所に控訴し、続いて10月12日には私を特定経済加重処罰などに関する法律違反(背任)嫌疑で、ソウル西部地検に告訴しました。
専任理事長である私は、当初、基本契約から最終契約に至るまで徹底して報告し、裁可を受けて進行してきました。特に最終契約は、國進様が理事長に就任した後、公開の場での徹底した検討を経て、文國進理事長の事実上の代理人であり、法的代表の地位にあった安珍善財団理事長が署名し締結したのにも関わらず、彼らは厚顔にもこれを否定する主張をしたのです。その上、正確な内容を知らない食口たちを扇動して、郭錠煥が「ヨイドの土地を売り払った」「公的財産を横領した」といった悪意のスローガンを掲げることもためらいませんでした。生涯、統一家の発展のために献身してきた元老を、不意に「背教者であり泥棒だ」と烙印を押し、これを全世界に喧伝したのです。これは私一人だけの苦痛ではありませんでした。それによって統一家の社会的、霊的位相に致命的な汚点を残してしまったのです。財団は、過去に理事長だった私を犯罪者として追いやり、控訴審で何としても勝とうと、有力弁護士たちを動員するなどして、ほとんど死に物狂いで飛びかかってきました。しかし、この告訴の調査は、不起訴決定が出ることによって、その目的を果たすことができませんでした。
財団は、背任で私を告訴した件がまだ進行中の状態で、2012年4月14日に再び私をソウル西部地検に偽証の嫌疑で告訴しました。地上権無効訴訟控訴審で、私が財団の前理事長だったという理由で、2012年1月27日に高等裁判所に呼び出して証言させ、またこの証言の言葉じりをとらえて偽証の嫌疑で追加告訴したのです。
さらにあきれ返るのは、財団だけでなく、財団の下役とも言うべき統一教信徒対策委員会の行動でした。彼らもまた、2012年6月にソウル東部地検に、私を同じ内容の偽証の嫌疑で告発しました。第2審で勝つために、私に波状攻勢を浴びせたのです。
財団が西部地検に告訴した事件は、信対委の告発事件と等しい内容だったので、ソウル東部地検に移送され、結局、ソウル東部警察署が2つの案件を一緒に調査しました。ここでも財団側を代表した告訴人の調査と共に、私に対する被告訴人召還調査があり、双方の弁護士の意見書を通した熾烈な争いがありました。先鋭な問題がかかった事件だけに、徹底せざるを得ませんでした。
その結果、検察は2012年12月18日に、財団と信対委が告発した偽証の嫌疑に対して全て不起訴の決定を出しました。
財団は、私に対する告訴内容が虚偽であることを明らかに知っていながらも、ただ地上権登記抹消請求訴訟での敗訴を控訴審で覆すための手段として、無理に告訴を試みたのです。
ヨイド地上権訴訟に勝つために私に対し刑事告訴を続ける
財団は、「告訴告発で私を苦しめようとでもしているかのように」、絶えず、私に対する訴訟を起こし続けました。
上で説明した背任と偽証に対する3件の告発の判決が出る前に、信対委はまた別の訴訟を起こしました。私とY22のポール・M・ロジャース氏と理事たち、文顯進会長をはじめとするUCI理事陣全員を、大同小異の背任と横領の嫌疑で、ソウル中央地検に告発(2012年1月19日と6月15日)したのです。財団と信徒を総動員して私と顯進様を非難し、控訴審の判決を財団に有利になるように総力を傾ける様相でした。
信対委側は弁護士を選任し、膨大な資料と意見書を提出しました。彼らは財団から支援を受けている代理人としか見られませんでした。膨大な訴訟関連資料と高額な弁護士費用を独自に調逹することは不可能だったからです。信対委の構成員は極めて少数の人数でしたが、全食口の合法的な代表性を持って構成されているかのように振る舞いました。彼らの途方もない主張に多くの食口たちが影響を受け、偽りを事実として信じてきたのですから、実に残念で嘆かわしいばかりです。
この告発事件は、年を越して2013年4月5日に、ソウル中央地検で嫌疑なしとして不起訴処分になりました。しかし、財団が地上権登記抹消請求訴訟を最高裁に上告したため、ここで有利な立場に立つために信対委は再び、この事件を高等検察庁に抗告しました。
信対委側は、高等検察庁で、クァンジャンなどの大手法務法人の弁護士たちを選任してまで、私の有罪を立証するために、あらゆる手段と方法を動員しました。しかし、ありもしない罪を作り上げることはできなかったのでしょう。結局、高等検察庁でも、2013年9月11日に抗告棄却となりました。信対委側はあくまでもあきらめず、ついに最高検察庁に再抗告をし、最高検察庁でも2013年12月20日に再抗告棄却の決定が下りました。
裁判制度の3審制と同様、検察の事件調査も、告訴告発人が結果に不服であれば、高等検察庁と最高検察庁まで3次の調査を受けることができます。信対委はこの制度を悪用し、繰り返し敗訴しても最後まで私を苦しめました。その至難の過程で私が受けた苦痛は、到底言葉にできるものではありませんでした。何より告発者たちが家庭連合と食口たちだったということ、彼らから(検察の調査結果とは無関係に)想像もできない侮辱を受け、罪人扱いを受ける背信の苦痛は、当事者でなければ想像もできないものでした。
法を利用して最後まで苦しめようとする態度
ヨイド地上権関連訴訟の第1審で敗訴となった維持財団は、控訴審では何としても勝つために、私を背任と偽証の嫌疑で別件告訴し、財団の支援を受けた信対委も、私を偽証と背任、横領の嫌疑などで告発しましたが、その志を果たすことはできませんでした。控訴審でも敗訴となって不起訴処分が下されたからです。最高裁の上告審で有利な証拠として活用するためには、信対委が告発した横領と背任の告発の件がどうしても起訴されなければなりませんでしたが、長期間の捜査にも関わらず、これさえも最高検察庁で再抗告棄却され、嫌疑なしとして不起訴処分が確定されました。
すると今度は、世界平和統一家庭連合(協会長:柳慶錫(ユ・ギョンソク))が出てきました。
最高検察庁の再抗告棄却(2013年12月20日)の10日後、協会がソウル地方検察庁ではなく、ソウル東部地方検察庁に完全に同じ内容を、告訴人だけを変え、一部内容を脚色して再告訴したのです。事件代理人も信対委の時と同じ法務法人クァンジャンであり、一言で言うと「同じ法律代理人で同じ内容を再告訴」するという告訴の乱発でした。
家庭連合がこの事件の告訴を提起した時点は、財団がY22を相手に提起した地上権抹消訴訟が最高裁で最終宣告を控えていた時点であり、当時進行中の民事訴訟をどうしても延長させて勝つために、荒唐無稽な再告訴を断行したようでした。
検察側は、この事件に対して、告訴人がそれまで抗告と再抗告まで何度も棄却された事件を、同じ資料を持って再び告訴したものと判断し、不起訴決定(却下)しました。
新しい内容もない告訴を再告訴したのは、国家行政力の浪費であり、被告人に対する深刻な人権蹂躙であり、誣告(虚偽告訴)と言えるでしょう。それにもかかわらず、常識と合理的判断を逸脱した非理性的な告訴と告発は果てしなく続きました。この告訴の件も地検で却下されましたが、協会は高等検察庁に抗告し、高等検察庁からやはり嫌疑なしとして不起訴決定されると、また最高検察庁ではなく高等裁判所に裁定申請したのです。ヨイド地上権関連訴訟は、既に最高裁で2014年7月10日、上告棄却決定が出たのにもかかわらず、そうしたのです。法を利用して、可能な限り、最後まで苦しめてやろうという態度でした。
結局、協会の裁定申請も、ソウル高等裁判所で再び棄却決定(2016年5月13日)が下されました。
「告訴」に関するお父様の基準
12件もの告訴と告発
今まで財団と信対委と協会が、私に対して提起した告訴と告発はおよそ12件に達し、一つも例外なく嫌疑なし、または不起訴処分とされました。13番目の告訴はまだ進行中です。
それほどに無罪であることが明らかになったのであれば、これ以上の告訴は放棄して、それまでの無理強いと虚偽告発に対して謝罪するのが当然の道理に違いありませんが、彼らはただの一度も謝罪してはきませんでした。
数多くの告訴と告発を受けて無罪が証明されましたが、私は彼らをただの一度も、誣告や名誉毀損の嫌疑で告訴しませんでした。
私は神様を信じる人だからです。
私が真のお父様として侍った文鮮明総裁の教えに従い、こんな人たちさえも、神様の真理と真の愛をもって正しい道に導くべき責任が私にあるということを知っているからです。
今も私は、彼らを呪ったり恨んだりしていません。
ただ、彼らと彼らの家庭、その子孫たちのために祈るだけです。
可能性が全くないと判明した訴訟に、家庭連合がなぜ飛び込んだのか、私は到底理解できません。それはお父様の伝統を破壊する行為です。家庭連合は真の愛を実践する摂理の核心機関として、維持財団や食口による私的組織とは違い、品格を備えるべきでした。そのような訴訟行為を通して、家庭連合は摂理的な使命を遂行する機関としての資格を放棄してしまったのです。
お父様がどういう基準を守ってこられたのか、私には一つ特別な記憶があります。
1975年6月7日に、ソウルのヨイド広場で「救国世界大会」を開催する時でした。
私は渡米する直前であり、インドシナ半島が共産化され、クメールとベトナムの赤化による緊迫した情勢において、お父様は60ヵ国から1,000人余りの代表を動員し、全国各地から120万人が参加する大規模集会を指示されました。当時としてはものすごく大規模な大会でした。その上、既成教団の反対と迫害の中にあって、実に骨のおれる行事準備を進めていました。
大会を10日余り後に控えた頃、ソウル市上道洞の某牧師を中心としたクリスチャンたちが、口に出すこともできないような内容のチラシを作り、ソウル市内に大量に撒いたのです。そのニュースを聞き、大会組織委員会の役員たちは惨たんたる心情で集まりました。「ただでさえ難しい状況なのに、そんなチラシを見て、誰がヨイド大会に来るのか」と落胆した雰囲気でした。対策会議の末に結論が出ました。
「私たちがこれほど長年にわたり謀略や迫害を受けながらも、一度も法的対応をしないから、彼らはあのようなことをするのです。私たちも一度ぐらいは痛い目に遭わせて、度肝を抜かせてやるべきではないでしょうか」
「その通りです。もうこれ以上譲歩することはできません。この大会のためにもそうだし、将来のためにもそうです。法的な結論が出なくても、弁護士を雇って告訴文を作って告訴しましょう。それを新聞に載せて広告しましょう」
満場一致で決定し、弁護士に会って告訴状を作成しました。重要な過程が一つ残っていたのは、お父様の裁可を受けることでした。困ったことに、私がその重要な役割を引き受けることになりました。
お父様はその時、清平に行って祈祷をしておられました。危機的状況に置かれた韓国を救うために、全世界を動員して大会を準備し、金日成の野望を止め、国を活かそうと死力を尽くして祈祷されている方を訪ねて、この難しい話を申し上げなければならなかったのです。屠殺場に引かれて行く気分でした。
当時は清平に行く道が今のように整備されていなかった時でした。清平ダムの渡し場でボートに乗り、臨時仮設修練所に入りました。
「お父様、参りました」
すると、お父様は怪訝な顔をされました。
「忙しいのに、どうして来たのか」
私は消え入るような声で、それまでの事情を申し上げました。
「組織委員会で、今回だけはもう我慢ならないとして決定しました。お父様、承諾してください。私たちも一度は、白黒をつけなければならないのではないでしょうか。既に弁護士を通して告訴文まで全て作成してあります。決定だけしてくだされば、すぐに手続きをして新聞に広告しようと思います」
いかなる状況であっても、法的闘争をしてはならないと言われたお父様
目をじっと閉じたまま、私の話を聞いておられたお父様が、しばらくして口を開かれました。
「だめだ。私が今回の大会の壇上で語らなければならない話の核心が何だと思うか。統一だ。私たちの心を束ね、また北朝鮮の人々の心を束ねて、この摂理的な祖国を輝かそうというのだ。それなのに、同じ地の兄弟を告訴して、どうして壇上で統一を語れるというのか。その人たちのチラシのせいで人が本当に集まらないなら、集まらないなりに神様の思いに適うようにすればよい。そうすれば成功する大会になるのだ。しかし、たとえ百万人でなく、千万人が集まったとしても、神様がそっぽを向いてしまえば何にもならない。そんな大会はしてもしなくても同じだ」
「お父様、おっしゃりたいことが分かりました」
「私が行って、直接語ってやらなければならない。行こう」
清平からお父様と共に出発したのですが、ボートの中でも車の中でも、罪人ならぬ罪人となった心情でした。お父様はいつも、「神様の心情を基準として判断しておられるのだ! 」と再度、思わされました。こういうお父様の前に大会を任せられ、責任を負っている「私たちの考えがせいぜいこの程度しかなっていないのか」と実感させられました。
こうした曲折の中で行われた大会当時の写真を見れば、その広いヨイド広場がものすごい人だかりを成していたことを知ることができるでしょう。
何らかの問題にぶつかった時、私たちはいつも「お父様ならどうされるのか」を考えなければなりません。
今日統一家に起っている諸問題も、お父様の視点から見れば答えが出てくるでしょう。お父様は「どんなに困難な境遇でも法的闘争をしてはならない」という原則を固守されました。そのような歴史的な事実を私たちは知らなければなりません。
お父様は最後まで許し、神様の愛の中で一つになることを祈祷され、真の愛で抱こうとされた方です。今日、私たちの指導者と祝福家庭は、お父様の精神と伝統をそのまま継承できているのか、胸深く省みて点検しなければならないでしょう。
今まで、私のみならず、真の家庭の顯進様に対しても、はるかに多くの告訴や告発がありました。これは財団や協会長の単独の決定ではないでしょう。最終的にお母様の指示や裁可があってこそ可能だったはずです。
真の愛の象徴であり、代表にならなければならない真のお母様が、ご子息に対する刑事告発を承諾したことをどう受け取るべきか、私自身、筆舌に尽くしがたいほど混乱しています。
今ここではっきり言えることは、今のお母様は、私が長年にわたって侍り、お仕えしてきた真のお母様ではありません。常に慈しみ深く、お父様のそばを守り、子女たちを導いてくださったお母様の姿ではありません。
巧妙で邪悪な論理で、理性と信仰を麻痺させる声に、お母様がいつまで耳を傾けられるのか分かりません。どうか早く本心の目を開き、本来の姿で、真のお父様の完全な対象位、本然の姿に戻られることを願い、お祈り申し上げます。
國進様はお父様に従ってきた一世たちに対し、測り知れない不信感を持っていました。中でも、私に対する不信は、私が本当のことを言っても信じてもらえないほど深いものでした。なぜそれほど私を憎んだのかは分かりません。長年にわたり、最側近としてお父様の信任と寵愛を独占してきたことに対する羨望の思いだったのかも知れません。
2006年5月8日に、國進様は維持財団理事長に正式就任しました。就任以前からも、一般の財団業務を管掌できるように取り計らってきましたが、さらに真の子女という立場を用いて、強力な権限を行使してきました。財団機関、企業体の幹部たちは、人事と財政の分野に絶対的な権限を持った國進様を称賛することに余念がありませんでした。
國進様は、「統一家の指導者たちは全て失敗者であり、一世は責任を果たせなかった者たちである」という烙印を押し、その全ての責任を私に被せ、余りにも安易に私を罪に問い、糾弾を始めました。統一グループの正常化を試みるという名分の下、私の不正を暴いて明らかにすることにひどく執着していました。
ある日のこと、世界日報の最高幹部から電話がかかってきました。
「郭会長、今日、國進様が新聞社に初巡回で来られたのですが、とんでもないことを言われました。普通の問題ではありません」
「いったいどういう話だったのですか」
「口にするのもきまり悪くて……」
「言ってみてください。どんなことでも聞く準備はありますから」
「それが……『家庭連合の財産を盗んでいった泥棒、郭会長の株式、裏金、金銭取引、不正を見つけて必ず暴いてやる』と言われたのです」
他の会社の最高幹部からも似た言葉を聞きました。
私に対する宣戦布告でした。そうしてその後3年間、法律や会計の専門家たちを財団に迎え入れて億の単位の年俸を与えながら、私の背後を隅々まで調べ上げたのです。しかし、明らかになったものは何もありませんでした。暴露するに値する不正など何もなかったからです。
統一家全体が天の長子を殺そうと
奇蹟のようだったヨイド敷地の保存と関連して、私はいつも自らを現わさず、ただ神様の恩恵とお父様の精誠の込められた指導に感謝してきました。私の一貫した姿勢を貴く見られたお父様は、私を何度か称えてくださいました。ところが、そのお父様のご子息である國進様と亨進様が導く統一教は、それと正反対に、私を天下の悪盗賊として追い立ててきました。
一体その理由は何でしょうか。
ある時、私の前で國進様に「郭会長に間違いを謝れ」と指示されたお母様も、私を罪人にしようとしておられます。
一体その理由は何でしょうか。
2005年までだけを見ても、顯進様に対するお父様の信任は絶対的でした。しかしいつからか、國進様と亨進様をはじめとするお父様周辺の機会主義者たちが反顯進様陣営を形成し、お父様周辺を徹底的に遮断しました。そして、お父様に顯進様と私についての歪曲された報告を続けてきたようです。ついには2009年3月8日、いわゆる束草霊界メッセージ捏造事件まで起こして、顯進様を追い出す事件が起こりました。その背後には正にお母様の後援があったことを後で知りました。
それ以後、彼らは顯進様側を相手に、韓国や米国、南米などで、数十件の訴訟を起こしてきました。彼らはこの訴訟を公的資産をめぐる紛争として偽装しましたが、その本質は別のところにありました。どうして実の兄弟と高位指導者が、そこまで怨讐に対するように、一方的な攻撃と誹謗を加えることができるのでしょうか。そこには、顯進様に対して悪い印象を多角度から植え付け、その品格と位相をおとしめようとする意図があったのだろうと考えています。それに加えて、その後に進められた文亨進様の二代王の主張、お母様の独生女の主張、弟子たちの法統に関連した主張などを調べてみると、実際には全て、顯進様への後継構図を崩そうとする隠れた意図があったものと理解できます。
「顯進様の成しとげた成果は、全て統一運動の助けによって可能だったのだから、顯進様が統一家から追い出されれば何もできなくなるだろう」と彼らは考えたようです。
「家庭連合の組織を掌握してその座に上がれば、自分たちも同じ成果を収めることができる」と信じたのかもしれません。
「常に自信にあふれ意欲に満ちた顯進様だが、訴訟を続け財政的に難しくすれば、最後には、無一文になった顯進様がひざまずいて、お母様と弟たち、家庭連合の権力の前に屈するだろう」と判断したのでしょう。そのために、訴訟の当為性を主張し続けてきたのです。
さらに彼らは「心強い後援者の役割をしている郭錠煥を監獄に押し込めば、顯進様は何の力も使えなくなるだろう」と判断したようです。
これこそ、彼らのとんでもない判断ミスです。私が後方から顯進様に何らかの影響を及ぼし、さらには操縦していると考えているとすれば、それは、反駁する価値もないほどの錯覚であることを知らなければなりません。顯進様に近くで侍った経験のある人なら、これがどれほど話にもならない考えであるか、理解することでしょう。
それが自分たちの誤った判断だったことを悟った後も、彼らは意図的に統一家全体にそのようなイメージが固定されるように行動しました。そうしたことから「郭グル-プ」という単語が作られたのです。
彼らは私に対して、12回以上もの告訴告発を繰り返しました。実際にはその攻撃目標は私ではなく、顯進様でした。特に彼らは、ヨイド敷地地上権登記抹消訴訟に私を利用し始めました。國進様は「Y22を相手に地上権登記を無効にすることができたら、ヨイドパークワン開発権を奪って直接開発できるだろうし、さらに無効の原因が郭錠煥の背任にあれば、郭錠煥を家庭連合から追い出して兄に致命打を加えることによって、はるかに有利で安定した基盤を確保できる」と思ったようです。
結局、私を刑事処罰すれば、その目的を達成することができるだろうということでした。そのため、国内最高のローファームを雇用し、維持財団の名で、信対委の名で、また協会の名で、同一の内容の告訴と告発を続けたのです。顯進様はもちろん、私の家族までも告発しました。
しかしこれまで明らかにしたように、彼らの目的は成しとげられませんでした。
彼らは最高裁まで敗訴を繰り返しました。それによってむしろ、私と顯進様に罪がないことが司法当局によって白昼の下に明らかになったのです。
顯進様が家庭連合の助けなしに活動を展開し、世界的な基盤を築いて成功すれば、彼ら自身の主張が完全に過ちだったという事実が全天下に現われるようになります。
天が立てた正統性を備えた息子が正に顯進様だという事実が証明された時、その位置を強奪した彼ら自身の違法的な実相が、全天下に明かされるようになるでしょう。
彼らが恐れる状況が、次第に現実になりつつあります。
ある時は、國進様によって訴訟が進められたので、「兄弟間の権力争い」だと主張する人たちがいました。そうであれば、國進様と亨進様がお母様と決別した後には訴訟が減るか、中断されるべきでしょう。しかしお母様が全ての権限を掌握してから5年余り、むしろ訴訟はさらに先鋭化し激化しています。
これが意味するところは何でしょうか。
かなり前から背後で訴訟を手助けし、さらにはコントロールしてこられた方が正にお母様ではなかったかという疑惑が深まらざるを得ないのではないでしょうか。
天宙史的葛藤はまだ終わっていません。
最も信仰的であるべき、いわゆる「教会」が、教会内での葛藤を解消できず、不信と反目を繰り返した挙句、世の中の司法機関に問題を解決してもらおうと要求しているのです。
実に恥ずかしいことです。
罪のない人を罪人にしようとし、自分たちの正当性を確保して教権を掌握し、統一家を私物化しようとしています。
一人の人を、一つの家庭を、一人の血肉を破滅させるために、数千億を使う組織。
世の中の一般企業がそうしたとしても、大きく指弾されることです。であるとすれば、このような宗教団体が正常だと言えるでしょうか。
統一家全体が、天の長子を殺そうとした連帯罪にかかっています。
一握りの教権を掌握しようと、統一家の中に虚偽と誹謗と謀略が幅を利かせている、それが現実であれば、神様は離れていくしかないでしょう。
家庭連合が早く本然の姿に戻り、さらにはお父様が願われる通り、教会の次元を越えて、真の愛の家庭理想を定着させ、神様の創造理想である「一なる神様の下の人類一家族の夢」を叶えて差し上げる真の愛の実践者、神様の息子娘の位置に立ち返ることを心から祈ります。