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チョ・ヨンジュ氏の心情日誌(2018-06-10)

2018.06.10(日)

礼拝の進行を(協会)次長が来てした。今日は特に、教区、地区、協会までが総出動だった…。本当にすごい。
「この人達は何をそんなに懸命に防ごうとしているんだろう」と思った。あっちは間違っていなかったのに、こっちの方が非常識だ。私には逆効果に感じられ、後輩たちにとっては初めて「独生女と天苑団地」が強調された教会の現実と、「真の子女様の悪口を言う公職者」を直接見る瞬間が近づいた。

先週の礼拝の時(6月3日)も同じだった。突然、教区から訪問すると言いながら、青年部を集めた。青年部は(イム・ヒョウォン)部長から直接指導を受けた人達だった。部長は礼拝の時にH1の話なんかしたことはなかった。ところが教区の青年牧会者が突然訪ねて来て「このように何か起きてから訪問してごめんね〜」という軽い感じで始まり、それと同時に「何と呼んだらいいのかな。部長?その出て行った人」と言った時、本当に酷い人だと思った。私たちにとって部長はいつまでも部長だ。そんなマインドで私たちとコミュニケーションしに来たとは信じられない。皆に「今の心境」を聞いていた。誰もが「大丈夫」という言葉しか言えなかっただろう。実際にそうであり、その人が聞きたかったのは「部長の悪口」だったのかもしれないが、「どれほど愛の世界を知らなくて、そんな期待を持って訪ねてきたんだろう…?」って、思ってしまう。

「出て行った人は出て行った人でしょう」、「何の影響も受けません」、「私たちは何も知りません」と皆が答えた…。「私たちは何も知らない」という言葉は、本当に知らないわけではない。ただ、部長が今まで語ってきたことを告げ口したり、説明する必要がないという意味である。話したくないだけだ。「確かに行く前から変だったよ。部長が出て行く前に教会の問題を指摘してたよ」などと言う必要はないことを誰もが感じていた。摂理や部長の立場を100%理解して、あるいは部長を守るために支持しているわけではない。単に部長がどんな人なのか知っているので、約束なんかしなくても、皆、暗黙のうちに大丈夫のようなふりをしているようだった。被害があったわけでもなく、一緒に過ごしていた時には感謝すべきこともたくさんあった。いきなり外部からやって来て、部長のせいで来たようなことを言われて、誰がうれしいなどと思うだろうか。

その人(教区の青年牧会者)も、私たちが何も知らないということなんか信じていないだろうけど、これ以上、話すことがない。「そうかな、でも何らかの影響を受けたんじゃないTT。教区の教師団の子たちも何も知らないと言っていたけど、私が感じるのは暴風前夜!とでも言おうか。嵐の前の静けさって感じがするよ」「もしかしたら、あっちの人とすでに会った?どう?ヒョウォンは訪ねては来なかった?」と聞いた。うわー、これって本当に潜在的犯罪者扱いだ。笑いがこみ上げた。おそらく皆も心の中では笑っていたんじゃないかな。

その人は私と青年会長を残して部長のことをさらに尋ねた。私は、「私達はレベルが低くてそうなのか、心配なさらなくてもいいですし、影響も受けなかったし、部長は摂理に関してとても悩んでいましたが、青年たちとは祝福の話をたくさんしました。本当に、公職者対青年なんかではなく、兄弟のように過ごした間柄でした」と皆を代表して話した。青年会長も同様、そんなことは心配しなくても大丈夫だと言ったが、その人の表情は「絶対に信じていない。私たちが嘘を言っている」と思っているようだった。どんなに話したとしても信じてはくれないだろう。

私の言葉に偽りはない。部長は毎日のように摂理を論じ、誰かを訪ねては説得するような人ではない。相手に合わせて話すことのできる人というか。部長が青年たちを訪ねて行っては祝福の相談をして回っていることを知っていた。実際にマッチングもたくさん協助してくれた。どこかの公職者たちのように無責任に「好きな人を連れて来ればマッチングしてあげる」というレベルではなかった。部長のような人こそが「原理やみ言葉を実践する人ではないか」と思うほどである。口先だけで原理を語るのではなく。実践だ。実践。

だから、私たちも、もしも影響を受けたとするならば、顯進様に関する何かじゃなくて「公職者でなくても、そのように原理を実践しながら生きなければならない」という影響、「実践しなければ神様や真の父母様を証しすることができない」という影響、そんな影響を受けたんじゃないかな。ために生きることや真の愛を言葉じゃなくて相手に実感させるのだから、そんな歩みを見せてくれたので、そんな影響を受けたことだろう…。

その人(教区の青年牧会者)は何を言いたくて訪ねて来たんだろう…。本当に「部長がそうやって活動している時に教区の牧会者は何をしていたんですか」と聞きたい……。はぁ…。お願いだから…。自分の歩みを反省でもしてよ …。

(再び現在に戻って6月10日)そのようにして先週の日曜日に通じない会話をしたが、今週もそんな時間が私をまた訪ねてきた。(協会)次長から礼拝の前に会議をしようと言って朝早く教会に呼び出された。教区、地区、協会の人達が話すところに参加しなければならない私は本当にいらいらして、いらいらして!その場を立ち去りたかった。次長は「ヒョウォンが書いた内容を解説して、説明してあげなければいけないようだ。原理と真のお母様と独生女と天苑団地だけをまとめて教えなければならない」と言い、教区牧会者は「違う。ヒョウォンがいつ訪れてくるか分からないから、H1を強く否定しなければならない」と言った。

「どうして二人で朝から大きな声でもめたりして、どうしてこんなことにこうも話をしなければならないんだろう」と思った。皆は二人の主張に関心なんかないのに…、とは思ったけれど、口に出して言うことはできなかった。今の状況では、当然のことながら、上がしたいようにしなければ、少しも安心できないみたいだ…。私の立場では「現場のことを本当に知らないんだ」という思いが自然に湧いてきた。教会内にしっかりとした教育と文化が定着していたならば、そんな話をしても大丈夫だろう。皆も「そうだ」といいながら何の抵抗感もないだろう。皆がまず先に神様や真の父母様を真なる父母として実感し愛してこそ話も通じるはずだ。そこから点検しなければならない…。祝福家庭が家庭内で実践する雰囲気がなければならないのに、親の信仰が子供に相続されていないのが現状なのに…。幸いにも最近になって教会がおもしろくて、誰かに会いたくて出てくるようになった子達が、そんな話に興味があるだろうか。と思った。

とにかく、二人でそのように一生懸命に議論してから、礼拝が始まった途端に私は感じた。皆は私の顔色を見ていた。

私がそう感じた理由は、先週の礼拝の時(6月3日)、すでに皆の前で(イム・ヒョウォン)部長に関する私の考えを説明したからのようだった。「動機と目的が明確でこそ、その結果も明確だ」と説教をしながら、「私たちの知っている部長は、絶対的に神様と真の父母様を愛する人だった。今はどう思う?」、「一部の人々は簡単に『部長が中心を失った』、『出て行った』そんなこともいうけど、あれこれ言う前に、私たちにそんな基準が備わっているのだろうか」と質問を投げかけた。
「部長は、今後、おそらくこの場には来れないだろうけど『自分は神様や真の父母様をこのように愛しているけど。皆は?』って、そう聞くんじゃないかな」と言った。そう言いながら私も鳥肌がたった。本当にそう言いそうで…。私たちは果たしてどのような責任を果たさなければならないんだろうか…?
その礼拝の後、皆の思いは部長に対して「悪い人ではないんだ」と安心したようだった。教会の立場では、私がそのように教えてはいけなかったのかもしれないが…、私が感じた部長の態度は、神様や真の父母様を否定してはいなかった。今まで私たちをしっかりと教えてくれた人、そしてこれからも同じであろう部長を、一瞬のうちに否定することは私にはできないということだった。青年部は、礼拝の後、私が正しいと言って、できることを探そうと言い、皆は多分、単純に自分の判断で部長の悪口を言う人を理解することはないだろうと思った。

(6月10日)そして今週の礼拝が始まるやいなや、感じた。皆は(協会)次長の一言一言を注意深く聞いて判断していた。そして途中で部長を攻撃するようなことを言った時、皆が落ち着きを失うのを感じた。「もしも、自分の母親が、何か過ちを犯したとして、それをあちこちに噂してまわることが孝子なのか!最後まで侍るのが孝子だ!」と語られた時、「?部長が過ちを犯したの?真のお母様が過ちを犯したの?」という空気も感じたし、皆の心の中に「あの人嫌だな」という感じもした。「まあ、仕方ない。監視される数週間の間は、こんな内容を聞きながら、今、上では何を言うのかを聞いてみよう。それも私たちの責任だ」と思いながら聞いていた。「協会が関心を持たなくなったら、今の内容を分かり易く教えなくちゃ」と決心するだけだった。礼拝の結論は、真のお母様と独生女と天苑団地に関する内容だった。「真のお父様もこれを願っておられる」ということが強く強調された。
はぁ…そう言えば、終わりがない…、だから今、二世がすべきことは、天苑団地が完成するように献金をもっとするようにということなのだろうか。お母さんお父さんが摂理のために献金をたくさんして、家が貧しくなっても理解してあげなさいっていうことなんだろうか。今の私たちの苦労は数百年後に光を放つだろう。人々は皆ここにやって来て、聖地巡礼して、礼拝して、献金をたくさんするから。お前たちは凄い時代に生きているっていうことなのか…。何?何をしろと言うんだろう…。H1側の講義と比較してびっくりした。一方は実践を、一方は盲信を。

「協会がこんなふうに教えてはダメなんじゃない…」と思ってもどうしようもない。家庭連合全体が決意して真の父母をこのように証ししようと決心しているので、協会が悪いわけではない。どうしようもなくて可哀想になる。可哀想…、可哀想…。違うか…?何も知らずに学んでいる私たちがもっと可哀想なのかな。

私がそう考えていても、皆の反応は爪でも見ながら「いつ終わるんだろう…」だった。
とにかく説教がとても長いし皆の興味を引く内容ではない。ユース(Youth)修練が存在した理由もこんなことからである。皆が教会に来る動機が単に「おもしろいし友達に会うため」というところに留まっているからである。これは本当に冷静に考えても全国の教会がそうだろう。生活の中に神様がいないのに…、行事に何百人、何千人が参加したとか、それがどうしたってんだろう。スタッフをしてくれるカープの学生が多ければそれで満足なんだろうか。神学科に来る人だけが神様を中心に生きればそれでいいんだろうか。教会の後輩たち、そして先輩たちが神様を見失って生きているのに。神様のみ旨の前に主人となる人が増えることを願います。皆がそうならなければならない。深さやレベルが異なることもあるけど…、そんなことは協会が心配しなければならないことだ。お願いだ。

残念なことに、牛のいない牛舎を一生懸命に修理しているところだ。そしてもっと残念なことは、自分たちの中の問題を現場に来て現場のせいにすることである。現場を心配し一生懸命に牛舎を修理してはくれたものの、私から純粋な気持ちで「修理してくださりありがとう!」という言葉が出てこなくて申し訳ない。「これでいいのだろうか」と反対に質問することが多くなって感謝している。

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