事必帰正

第1章 雲の柱と火の柱に包まれて60年

お父様を追いかけてきたみ旨の道

第1章 序文

1936年陰暦1月1日に、私は生まれました。 旧正月に生まれた人は四柱推命で運命が強いと言いますが、間違った言葉ではないように思います。一生涯、真のお父様を間近で輔弼(輔佐)し、摂理の重責を担うことは、言葉で言うほど簡単なことではありませんでした。これまで私が、全世界を回って貯まった大韓航空のマイレージだけでも、400万マイル近くになるのですから。マイレージ制度ができる以前の記録と、他の航空会社を利用したものまで全て合わせると、その距離がどのくらいになるのか分かりません。

み旨の道の中で生きてきた日々を、しばらく振り返ってみます。

昼は雲の柱、夜は火の柱が導く通りに、疲れも知らないまま、引っ張られていくように駆けてきた人生でした。悲運の民族と国の貧しい農村で生まれて、真のお父様に出会い、これまで貫いてきた、神様の恵みのような人生でした。

運命的な出会い

慶尚北道達城郡玄風面大里

大邱から遠くない私の故郷の村の入口には、「忠孝世業、清白家声」と刻まれた自然石が大きく立っています。「忠と孝を子々孫々家業とし、清廉と潔白で家門の名声を受け継ぎなさい」という意味の宗訓でしょう。

村の入口には、また玄風郭氏十二旌閭閣があります。宣祖36年(1598)から英祖(1776)まで儒教倫理の核心である忠・孝・烈を模範的に実践した玄風郭氏門中12人を称えるために建てられた旌閣です。このように多数の旌閭閣は、唯一私たちの玄風郭氏門中だけが保有している、文化財資料29号に登録されている遺跡です。

私はこのようにこの上ない儒教家門で、父・郭柄銓(クァク・ビョンジョン)と母・成快喜(ソン・クェヒ)の2人息子の長男として生まれました。

私たちの村は、戴尼山東側の麓の端に位置しています。戴尼山の北東には琵瑟山が高くそびえ、大きな屏風のように囲まれていますが、頂上の岩がコムンゴ(琴の一種)を奏でる神仙に似ているというところから名付けられた山です。琵瑟に王の文字が4つも入っているからなのか、昔から神霊的な山とされてきました。

1945年解放となり、世の中全体が変わりましたが、生きていくのが困難なことには変わりがありませんでした。中学校を卒業する時になりましたが、民族全体が6.25韓国動乱で非常に大変な時でした。農業高校を卒業した後、果樹園をしながら自分なりに農村の発展のために働き、余裕ができたら、村の子供たちも教え、未来を育てたいと思いました。沈薫(シム・フン)の小説『常緑樹 (*1)』の主人公、蔡永信(チェ・ヨンシン)と朴東赫(パク・ドンヒョク)が繰り広げた農村啓蒙運動を内心夢見ていたのです。

しかし、私の意見を聞いた父からは、厳しく叱られました。

「世の中に慶北中学校を卒業して、農業高校に行く奴がどこにいるか」

高等考試(国家公務員上級試験)に合格して、裁判官になることが身分を上げる最高の近道だった時代でした。両親も、私が素晴らしい裁判官になることを望んでいました。田舎の面事務所(村役場)の職員だった父と暇あるごとに農作業をし、家の難しい生計を立ててこられた母。その時代の父母として十分持つことができる希望でした。

両親の言葉に背いたことがなかった私は、仕方なく考えを変えました。それで慶北高校に進学し、慶北大学校法学科に入学しました。

高試の準備の真っ最中だった大学校3年の時、偶然に身なりのみすぼらしい一人の手相家に会いました。その方がいきなり話してきたのです。

「あなたは宗教の道で大成する運命だ」

当時、高等考試の準備の真っ最中だった私にとっては、とんでもない言葉でした。そこで周りにいた親戚たちと一緒に笑ってしまいました。

それから6ヵ月後、運命が目の前に訪ねてきました。

はっと我に返るほどに驚くべき原理のみ言葉に触れ、偉大な真理の世界に目を開いて、高試生という自負心でいっぱいだった自分が余りにもみすぼらしくなるのを感じました。手相家に対して犯した無礼が今でも心残りです。天はその時から私を訪ねてくださり、身に余る賜物を予定しておかれたのです。


1.民族意識と日本に対する抵抗意識を持った沈薫が、1934年に執筆した小説のタイトルで、常に木が緑で激しい風雨にも屈しない青い節介、その如何なる逆境の中でも変わらない精神を象徴する。清貧、無所有、自由、平等を基本精神とし、無知と貧困で極度に疲弊した当時の農村を積極的な農村奉仕と文盲撲滅で、貧困打破のために命を捧げて献身的に犠牲となった主人公に関する物語である。韓国近代化と発展を導いた精神として知られている。

乾いた土地が水を吸い込む勢いで

22歳、大学3年生だった1958年10月23日に大邱世界基督教統一神霊協会(世の中では「統一教会」または統一運動と呼びます)に入教しました。

大邱市中区鳳山洞22番地の狭い路地の中に、30坪程度の日帝時代に作られた家屋を家賃で借りて教会として使っていた時です。残念ながら早くして他界しましたが、36家庭の一人である羅淳烈氏が私をみ旨の道に導きました。驚くべき精誠と情熱を持って、私の模範になった人です。

当時、私は霊界と死後の世界に興味が多かったのですが、既存の宗教理論や説教や説法では満足のいく答えを得ることはできませんでした。そんな中で、原理に触れてどれほど嬉しかったか解りません。「神様と霊界は存在するだけでなく、条件だけ備われば誰とでも行き来することができる」という教えに触れてからは、自分で体験してみたいという気持ちが起こりました。

形式も内容もきちんと整っていない祈祷でしたが、熱い火の役事を体験しました。生きて働かれる神様を「なぜ疑うのか」と責めるように、また存在する霊力を味わってみろというように、突然、胸に押し寄せる熱い火の玉を抱いて、途方に暮れた記憶が今でも鮮やかです。理論や理性の枠を超えた、もう一つの領域である本体世界に対する確信は、私の人生観を完全に変えてしまいました。

そのようにして、教会での献身生活が始まりました。それが何であったか具体的に説明できませんが、本心から湧き起こる生きがいを覚え、毎日がただ楽しいだけでした。

ある日、イエス様を中心にかすかな一群の人たちが十字架を掲げて、みすぼらしい黄土色の装いをして泣きながら通り過ぎる夢の啓示を見て奇異に思い、再び眠りに落ちました。その後、輝かしい白色の十字架を前面に立てて、はっきりとした容姿の人物を中心に、白い衣と明るい顔で栄光をお返ししながら後に続く群れが登場する夢の啓示を続けて見ました。

当時は解釈もできませんでしたが、神様が日の浅い私に全摂理路程を要約して見せてくださったのでした。特に夢の啓示を通して、文鮮明先生に初めてお会いするようにしてくださったのです。

先生に初めて会ったのは、入教してから約1ヵ月後でした。

予定された復興会が始まる1日前の午後に教会を訪ねました。10数人の青年の中のある人が、白い布を床に広げて、筆で「原理大講演会」という文字を書いているところでした。復興会の横断幕を直接作っているところでした。近くに行って見ると、筆跡がとても独特で、格好良かったのです。それで私も思わず、「おお、名筆だね! 」とつぶやいてしまいました。すると、そこにいた人たちが一斉に振り返って、私を見つめるではありませんか。筆を持っておられた方が、まさに先生であられ、その周りの青年たちは慶尚北道地域の伝道師でした。

その日から、先生のみ言葉を直接聞くことになりました。簡単ではない内容でしたし、平安道のなまりで聞き慣れませんでしたが、宇宙と歴史、神様の摂理と恨(ハン)、世界と人間に対する深い洞察力を中心に、縦横無尽に続いていくみ言葉を聞いていくと、数時間があっという間に過ぎていきました。すでに何回も読んだ『原理解説』のおかげで、その偉大な摂理的精神世界を少しずつ理解することができました。全生涯を尽くして進むべき道、灯台のように明るく照らす真理の光に、そのように出会ったのでした。

普段から猜疑心が強いほうではありませんでしたが、何か新しいものに触れた時は、何事にも一つひとつ細かく問いただして確認する性格なのです。学校の授業を受ける時も、誰よりもたくさん質問をし、一人で勉強する時も、癖のようにあれこれ疑問をもつほうでした。

しかし、その方のみ言葉に接する時は、ただの一度も疑う気持ちが起きなかったのです。否定的な疑心や懐疑のようなものが一度も、不思議なくらいに生じたことがありませんでした。理論や論理の前に、何か強烈な力に導かれたとでも言いましょうか。その方が話される言葉であれば、初めから良く、当たり前のように、信頼を持って聞こえたのです。まるで乾いた土地が水を吸い込むように、光輝く希望と力と喜びを味わうことができたのです。

先生は復興会の期間中、大邱で過ごされ、朝夕何時間も説教されました。み言葉に臨まれる、その方の炯々(けいけい)たる眼差しと表情は、大変強烈で切実なものでした。「人間堕落後の神様の恨を解怨して差し上げなければならない」という主題のみ言葉でした。

聖書に対する知識があまりなかった私でしたが、既存の牧師やお坊さんなど、他の宗教指導者の説教や教えとは、最初から最後まで次元が違うという印象を受けました。絶対者に何かを願い、頼り、恩恵を祈願するのではなく、神様の願いを叶えて差し上げ、恨を解いて差し上げるという内容でした。私の心の中で戦慄が走っていました。何とも説明できない感動が私の中であふれていました。

情熱的に語られる間、たびたびお父様は、私を特にじっと見詰めておられるようでした。密かに格別な期待を混ぜて、何か暗示を与えているようでもあり、実際に私を別に呼んで話されたりもしました。これがその方と私の、運命的な出会いとなりました。

偉大な悟りが与える喜悦

それから1ヵ月後の12月20日、ソウルから電報が届きました。電話はとても高価で、急ぎの便りは電報を利用していた時代でした。「第1回協会40日伝道師修練会が開かれるので、参加したければ参加してもよい」という内容でした。全国各地に出ている、伝道師だけが参加する修練会でした。ところが、先生は私を覚えていて下さり、自ら電報を打って意思を確認されたのでした。

とても恐縮なことでした。もはや迷ったりする状況ではありませんでした。それこそ、天が私に下さった天命でした。

その日の夜、心を鬼にして、誰にも気づかれないように荷物をまとめました。

私にはただ真理に対する熱望があるだけでした。大学も、卒業証書も、高試も、裁判官や検事の夢も全てつまらないものに感じられました。

ただ一つ、私の行く手を阻んだのは、両親でした。生涯、家族だけを見て生きて来た真面目で原則的で、質素な父。真冬の夜にも、冷たい水で髪を洗い、かめ置き場の前で、子供の為に精誠を捧げてきた母。私に対する2人の期待と愛にしばし背くと考えると、気持ちがひどく重くなりました。

天情に従うか、人情に従うか。

悩んだ末、天のみ旨に従うと決意しました。簡単な道を行こう、楽に生きよう、私一人だけ成功しようと選んだのではありませんでした。そうせざるを得ない運命が訪ねてきたことを、私自身余りにもよく解っていたからでした。

「お父さん、お母さん。3年間だけ私を忘れて下さい。その時まで、この親不孝息子がこの世にいないと思って下さい。そしてどうか信じて下さい。この世の道理を、はっきりと知ろうと思います。あの向こうにある真理と原理から背を向けることはできません。どうぞ信じて下さい。3年後には、私の決定が正しかったと理解してくださるでしょう。尊い目的を成して、再び誇らしい息子として帰って来ます。その時には、喜んで私を迎えてください」

涙で手紙を残し、かばん一つに衣類をまとめて逃げるように家を出ました。

漠然と3年と書きましたが、そのぐらい過ぎれば、素晴らしい真理を自分のものにして、他の人に伝えることができるくらい成長できるだろうと期待していました。社会に一方的に蔓延する「異端を追い詰める」雰囲気も少しは変わっているだろうと信じました。韓国動乱の傷がいまだ癒えない、未来への希望など探すことも困難な大韓民国の希望を考えました。先生が教えられた新しい真理が世界に広まれば、祖国の未来もまた、とてつもない位置に立つだろうと確信していました。

20数年の短い人生を後にして、このように根本原理を探しに、完全に新しい人生を始めることになったのでした。毎日毎日が胸が高鳴り、幸せな日々でした。当時、「統一教会 (*2)」と呼ばれた私たちに対する世間の偏見や誤解は、言葉では言い表せない程でしたが、偉大な悟りからくる喜悦の前に、その程度の苦痛は何でもありませんでした。そのように恵みの手の下で酔って生きていました。


2.「統一家」は、お父様の教えに従う全ての組織と個人を指して普遍的な意味で使用している。草創期に「世界基督教統一神霊協会」を外部の人は「統一教会」という名称で使用したが、内部的には「統一運動」は「統一家」と同じ意味である。

自分の進路と役職に自らの「観」を持たないようにと

入教2ヵ月で、予想外の召命を受けて参加した第1回伝道師修練会。

原理講義の骨格が初めて作られた、それこそ初期統一教会の指導者全体の歴史的な修練会でした。劉孝元会長と安昌成先生2人が講義をされ、文先生は40日間まるまる同参されて、原理の内容と信仰指導を一つひとつされました。

原理の本を既に読んでいたため4回の試験には合格しましたが、教会指導者に任命されるとは想像もできませんでした。それで修練会を終える頃に、各自の希望を書いて出せという指示を受けたので、「開拓伝道に行く方の補助役として出てお手伝いします」と書きました。それでも先生は、私を平沢教会の指導者に発令されたのでした。

平沢教会には10人前後の食口がいましたが、年齢はともかく、皆、私より先に入教した教会の先輩たちでした。その人たちの前でどうして、よく知ったかぶりをして説教し、教えることができるでしょうか。

それでも先生のみ言葉と原理講義、この2つは私が食口を指導し、伝道するのにこの上ない元手でした。どこに行っても、手に『原理解説』の本を持ち歩きながら読み、また読みました。

不足極まりない私に、霊界からはいつも特別な配慮をしてくださいました。ほぼ毎日のように夢の啓示で教示され、また使徒パウロとペテロが1ヵ月程度の間隔を置いて、それぞれ3度も現れて「お前はパウロだ」「おまえはペテロだ」と励ましてくれたりしました。

断食をよくしていた時でしたが、特に21日断食期間には、多くの霊的な体恤がありました。幻想で私が宇宙万象を主管する境地を体験しましたが、私の手の下に野球ボールほどの大きさの地球があり、これを私が思い通りに管掌する体験でした。その中にいる人間たちは小さい芽で、先生が水を与える主人として現れましたが、幼芽の一つひとつがニコニコと笑い、感謝する場面も幻想的に見ました。

平沢にいた15ヵ月間、先生が7回も来られて指導してくださいました。そこに任命されてからも、心配になられたのだと思います。訪ねてくださるのが恐れ多いながらも、うれしくて、どうしていいか分からず、ある時は、聖殿を建てる土レンガを作るために全身土まみれになり、あたふたしながら先生をお迎えしたこともありました。

第1回修練会の時、先生に対する自分自身の心情的な姿勢が余りにも足りなかったことが思い出されて、第3回修練会には、自ら願い出て聴講生として参加しました。

そして1959年の終わり、先生が来られて、このように尋ねられました。

「錠煥は外国に行って活動したくはないか」

私は答えました。

「先生、既成教会がこのように反対しており、また私たちの基盤もこのように小さいので、とりあえずは韓国で活動することがもっと重要ではありませんか」

すると、それ以上のみ言葉はありませんでした。期待された基準とは余りにもかけ離れた答えをしているので、当然そうされたのでしょう。

後で考えてみると、確かにとんでもない返事でした。摂理の主人が国内のあらゆる事情を全て分かった上で、必要なみ旨に関して質問されているのに、その方を前にして、私が何を知っているからと、既成教会がどうで、国内の基盤がどうだと言えるでしょうか! 「私に特別な意見があるでしょうか。命じられれば、どこにでもいきます」と答えるのが当然ではなかったか!

その時、先生が私をどの国に送ろうとされていたのか、長い間、疑問だったのですが、今までお伺いすることができませんでした。その時のことが恥ずかしかったからです。

自分なりにはみ旨のためと思って語る言動が、実際には天が要求される方向とは合わない誤ちを犯すことになること。私たちが、しばしば犯す誤ちではないかと考えます。

その後、再びそのような過ちを繰り返さないと誓う一方、「自分自身の進路と役職に対して自分の観を持たないように」しようと努力してきました。私の希望ではなく、天の必要に順応して受けるその立場がはるかに貴いからです。私を愛しておられる神様と先生が、私を余りにもよく知っておられるために、こうした決断は、さらに疑う余地のない結論です。

その後、長い長いみ旨の道で、私が自願して役職を引き受けたことはありません。ただ「私をどこで使いたいと思っておられるのか」という意図を察しようと努めてきました。

本部原理講師、そして生活原理

本部原理講師、そして生活原理

平沢教会から馬山教会の引導者として発令を受けて、先生にご挨拶するために本部を訪問しました。ちょうど水曜日でしたが、「お前、今夜の礼拝を担当して原理講義をしてみなさい」と言われるではありませんか。震える心で復活論を講義しました。先生の前で行った最初の講義でした。

礼拝が終わり、先生が劉協会長に指示されました。

「錠煥は馬山に送らず、本部原理講師として勤めるようにしなさい」

そして、私はもう一度持ち上げられて、先生に間近で侍り学び、体恤する驚くべき恩恵に与ったのでした。

私は熱心に研究し講義しました。中央会館での講義、指導者修練会での講義、特別講義、伝道講義、大復興集会での講義などと駆け巡りながら、大きな生きがいを感じました。劉協会長の特別な原理講義指導は、今でも忘れられません。特に標準的な講義をする講師になれと賞賛され、刺激を与えてくださりながら、私を育ててくださった、またとない貴い師匠であられました。

真の父母様の聖婚式後しばらくして、本部原理講師として40日指導者修練会の講義をする時、お父様の指示で、お母様も私の講義を毎時間、傾聴されました。私は前後編の原理講義をお母様に詳しく講義して差し上げた喜びを大切にしている講師です。その時も、『原理解説』のほかには他の教材がなかったのですが、「原理講義案」が必要だと言われるので、私は私の講義案を精誠を込めて筆写し、お母様の原理の勉強を助けました。今でも忘れられない光栄だと思っています。

1960年、真の父母様の聖婚式場で、私は未来を代表する3人のトローリーの一人に選ばれ、この聖なる式典に出席しました。この聖婚式は単なる結婚式ではなく、真のお父様が天宙史を蕩減され、新天地を開く聖なる式典でした。この日、お父様が選び立てたお母様は満17歳、清純で美しいながらも、その厳粛な式典を立派なお姿で迎えられる様子はとても印象的でした。

その後、私はお父様がお母様を教育しながら、何を強調し、また期待されているのか聞いて、そのような内容を、私の一生の原理講義と摂理認識の重要な指針としてきました。

この世の中でお父様の教えである「神様」と「天道」、そして「摂理の基本原理」と「み言葉」を教育する原理講師以上に生きがいのある職責が、またどこにあるでしょうか。

生命のみ言葉を伝え、また死んだ生命の上に生気を吹き込む生きがいも貴いですが、原理を勉強して瞑想し、これを講義することにより、原理の主人公と心情的にさらに近づくことができました。また、私は『原理講論』の中でも最も貴重な部分がどこかについて、新たな理解と発展を重ねることができました。

そのたびに感じる喜びは、私の生活全体を新たにしてくれました。原理に対する継続する悟りを通した歓喜は、私を内的に肉付けし、み旨に従う私の道に常に希望を吹き込んでくれました。

原理の本の内容だけでなく、お父様のみ言葉を通しても、原理をより深く理解しようと努めました。原理について理解すればするほど、判断と洞察力も一層発展することを実感することができたのです。

原理講師になっていなければ、はるかに多くのサタンの試練を受けたことでしょう。しかし、原理を考え、原理を語る生活の連続だった訳ですから、どこにサタンが容易につけ込むことができたでしょうか。

これまで、様々な役職を務めましたが、この世の果てまで共にしたい役職の一つがまさに原理講師という役職です。原理講師の経験、私の生涯で本当に幸運をもたらした履歴です。

神様に対する観念は、個人の世界観に甚大な影響を与えます。原理とお父様が教える神様は偏狭であったり、制限的なものではありません。神様は権能と主管、審判の神様ではありません。父母の心情、真の愛を中心とした無形の真の父母様です。

神様は、極めて高いところで自足し、超越者としておられる方ではありません。私たちの近くでいつも情を分かち合いたく、私たちの悪行と無知に対して審判の心ではなく、憐憫の痛みを感じておられる真の父です。受けるより何でも与えたい方です。

このように神様を理解し、これを生活の中で実践する時、「原理」は講義室の外に出て、私たちの「生活原理」になるのです。

本部でお父様に侍り、成長した土台の上で、私は慶北地区長の発令を受け、7年を務めました。お父様が地区長を自ら陣頭指揮されていた時のことです。

ある日、お父様が全国の地区長たちに指示されました。

「原理的な観点に立脚した勝共理論を熟知して、全国民を啓蒙するようにしなさい」

その後、勝共講義の必要性を悟らせ、教育する機会を与えてくれるように政府機関を訪ね回りました。最初は反応が良くありませんでしたが、従来の感情的な反共と次元が違う、私たちの勝共理論の教育によって、その基盤は急速に拡大していきました。

勝共連合慶尚北道団は間もなく、誰も否定することができない愛国の実績で、官民全てから歓待される団体となりました。初めて公式認定を受け、警察局長から勝共講師委嘱状25枚(地域長を含む)を受け取って戻って来るミニバスの中で、これまでの無理解を克服し、国を挙げた勝共教育の公認を受けた感慨に、湧き上がる涙を抑えることができませんでした。他の乗客が見ていようがいまいが関係なく、涙があふれ出た記憶は今でも鮮明です。

その委嘱状で、地域長が町々を訪ねて講義をすることができました。各級学校と公共機関、軍部隊、警察学校、郡単位の勝共要員修練教育などは、私が直接行い、地域長たちも邑・面・洞単位で、私たちでなければできない勝共講演と思想講演を大々的に実施しました。

その後、教会と勝共連合慶尚北道団の愛国的な活動実績が公認されて、私は政府支援機関の「学生農漁村開発奉仕団慶北支部長」に委嘱されました。全国の地区長のうち、私だけが政府から委嘱されたので、お父様も非常に喜ばれました。そのおかげで地区長の生活を終えるまで、2年半の間、自動車と各種物資、医療スタッフ(軍医官)の支援を受けながら、慶尚北道の町々を回り、実質的で効果的な奉仕と啓蒙運動をすることができたのです。

1971年6月1日付で、私は全国巡回師室長の職務に就き協会本部に赴任して、京畿道と江原道一帯を隅々まで巡回しました。また、短い期間ではありましたが、ソウル教区長として機動隊を率いて市内の各教会を回り、復興集会を主導しました。

1972年からは協会本部大学生部長職を務め、大学原理研究会(CARP)運動を展開し、大学生の信仰指導と学内活動に注力しました。また世界平和教授アカデミー(PWPA)を結成して、事務局長を務めながら、国際的な活動を始めました。

36家庭の一員として選ばれた恩恵

真の愛は、神様の根本属性で、真の愛自体が本然の秩序と体系を持っています。神様は被造物の中で唯一人間だけが原理の自律性に加えて、自ら責任分担を果たすことにより、神様の前に真の愛の相対となり、真の愛の相続者であり、主人となるように創造されました。

原理に酔い、お父様の教えに酔い、職責上出会う、宗教、教育、政治、文化系など、多方面の世界指導者たちと交流して対話する中で、私は原理の真価をより大きく悟ることができました。そして、これに一生感謝しながら生きることができました。

私が受けた多くの恩恵の中でも、特に36家庭の一員として選ばれたことを、最大の祝福として挙げないわけにはいきません。

36家庭の第2家庭(12家庭)の約婚が決定した後にも、私がやがて第3家庭の一員として選ばれるだろうとは想像もできませんでした。入教も遅く、また入教した後、牧会者の下で生活訓練を受けられないまま伝道師修練会だけ受けて、すぐに牧会者の道を歩んだからです。牧会初期に試行錯誤もあり、心情的に大きな間違いを犯しそうになった峠もありました。

こうした事情を全て赦してくださり、大きな恵みとして選んで祝福してくださいました。

天の深いみ旨も、祝福の相対に対する原理的概念もまだ、きちんと推し量ることができない状態でしたが、お父様はそのような私に「開拓と闘争は瞬間の過程であり、家庭理想は永遠の生活的調和」と悟らせてくださりながら、尹貞恩氏を伴侶として選んでくださいました。

開拓期の困難の中で、私たち家庭が越えなければならなかった曲折がどうして1つや2つでしょうか。

周辺の無理解からくる苦痛もあり、経済的な困難のために苦しまなければならなかった事情は、言葉で語り尽くすことはできません。私一人であれば、食べるものがなければ断食し、服もあるがままに着ればよかったのです。心の中にあふれる志と情熱さえあれば、体一つでいくらでも超えることができました。しかし、家庭をやりくりするということは、そうではありませんでした。家庭の事情がどうであれ、第1の対象目的を神様に置くための努力は、胸がつぶれる痛みを克服してこそ、実を結ぶことができるものでした。

それでも一つ明らかなことは、天が私たちの家庭をとても愛され、大切にしてくださったという事実です。そのおかげで、私たち夫婦は、大きな苦難もなく、あらゆる事情の前にも恩賜をより大きく感じながら、生きてくることができました。

奇蹟の賜物

お父様の召命を受けて韓国に残された家族と離れ、米国で5年間一度も帰国できずに、仕事をしていた時でした。私のビザの問題がなんとか解決して、初めて世界巡回をしました。1979年9月19日、ペルーでその地域の宣教師たちと会議をしていた時、韓国から思いもよらない便りが飛び込んできました。

妻が突然倒れ、意識不明の状態だというのです。

瞬間、頭が真っ白になりました。急いで帰国の途に付きました。航空便も多くなく、飛行距離も長く、ロサンゼルス空港では乗換えを待つなど、むごたらしくも長く感じる帰国の途でした。事故の後、約36時間が過ぎた21日の朝になって、ようやく妻が入院している病院に辿り着きました。

妻は聖パウロ病院(今の三育ソウル病院)の集中治療室にいました。意識を失い、昏睡状態で横になっている妻を、病床の傍で見守るとは、想像もできない苦痛でした。医師は深刻な表情で、「心の準備をしてください」とだけ言いました。胸が張り裂けてしまいそうでした。

事故が起きた日、妻は末っ子を背負い、すぐ上の子の手を握って、家に帰るところでした。その日に限って、バスはぎゅうぎゅう詰めの満員でした。人々の間に入り込んで、中谷洞の停留所でようやく降りたのですが、付いて来なければならない子供が見当たりません。バスはすでに出発していました。叫ぶこともできず、地団太を踏んだ妻は、一端近くの通りにある家に走って行き、末っ子を降ろして、出発したバスを追いかけるためにタクシーに乗りました。

「どこまで行かれますか」

タクシー運転手が振り返った瞬間、妻は意識を失い倒れたというのです。普段から高血圧があり、その上に、一人で子供たちを育て、生活をやりくりしていく過労とストレスと共に、「子供を失くしたのではないか」という恐怖心が重なり、ショックを受けたのでした。

驚いたタクシー運転手は、近くの交番まで走り、警察官一人を横に乗せて、病院まで疾走しました。患者の状態を診た医師は、薄情にも「望みがないので、患者は受け入れられない」と言ったそうです。一緒に乗っていた警察官が強く抗議した末、やっと集中治療室に移され、緊急処置を受けたのでした。後でタクシー運転手の話によると、驚いたことにその日、中谷洞から聖パウロ病院まで走っている間、信号に一つも引っかからなかったそうです。

帰国して3日後、患者を移送する時に予想される危険も顧みずに、妻をもっと大きい明洞聖母病院に移しました。しかし、そこの医師からも、まったく同じ答えを聞かなければなりませんでした。

「1%の可能性も期待できない状態です。残念ですが、心の準備をされた方がよいかと思います」

口と鼻に、そして首に穴を開けてホースを入れて眠っている妻。呼びかけることもできず、黒くなった肌、まるで木片が倒れているかのような姿でした。惨めでした。その横で、ただ辛くて不憫なだけで、私ができることは何一つありませんでした。そんな現実が、私を重ねて惨めにさせました。

できることはただ一つ、祈りしかありませんでした。祈りとは、生きておられる神様の前に報告し、会話をすることです。しかし、今私の事情を、世の中の誰よりもよくご存知な神様に、私が何と祈りを捧げることができるでしょうか。

事故の便りを聞いて、あたふたと韓国行きの飛行機に乗りながら、とてつもない自責の念に苦しまなければなりませんでした。妻は余りにも純粋で善良な人でした。誰かに対して間違いをする人では絶対にありませんでした。そうだとしたら、私に何か間違いがあって、このようなことが起こったのではないだろうか。

「父なる神様が、何の理由もなく、私にこのような試練を与えられるはずがないと信じています。はっきりとした理由は分かりませんが、私は本当にたくさんの過ちを犯しました。しかし、願わくばこの人を生かしてください。私の残りの生涯を全て捧げます。今までより、何倍ももっと切実に、世界のために投入していきます…」

必死な祈祷が2週間近く続きました。そして、奇蹟が起こったのです。昏睡状態の妻が、12日ぶりに目を覚ましたのでした。

集中治療室の面会が始まる午前5時まで、病院の廊下で毎日してきたように、徹夜祈祷を終えた後、連日そうしたように、手をしっかりと握り、低い声で妻を呼んだのですが、驚くことにそっと目を開けたのでした。集中治療室のベットの上で横になっていた妻が、私と目を合わせた1979年10月1日、その明け方の感激と歓喜を、私は永遠に忘れることができません。

神様は、私の必死な祈祷に答えて下さいました。そして私はもう一度、神様に涙で感謝の祈祷を捧げました。担当医までもが、「神様が生かされた」と話しました。

電話で急な報告を受けられたお父様も、大きく喜ばれて言われました。

「錠煥が可哀想で、神様が貞恩を生かされたね! 」

それから40年が過ぎた今まで、神様は妻と私が一緒に生きていくことができる恵みを施してくださいました。

このように一つの峠を越えた数日後、お父様はアメリカから電話をくださり、私の意見を聞かれました。

「韓国で仕事をするのはどうか」

まだ家内の体は良くないのに、外国に行けば、心も落ち着かないので、傍で支えてあげなさいという配慮だったのでしょう。感謝の気持ちでしたが、そうすることはできないと思いました。それで、私の心境を率直に申し上げました。

「家内が生死の境を彷徨う間、ずっと祈りを捧げました。生かしてさえ下されば、世界と人類の為にもっと惜しみなく献身しますと。私ができることは、これしかありませんでした。それなのに家内のことを思って、韓国に居座ることは、神様の前に道理ではないと思います」

そうお話しすると、文総裁も理解してくださいました。

「本人の気持ちがそうであるのならば、そうしなさい」

私たち夫婦に起こった事故により、私は自らもっと謙虚になりました。

普通、私たちは人間的な観点で、私たちの人生を経験し、見て、感じ、判断します。これは非常に狭く短く限定的なものに過ぎません。したがって、私たちはいつでも、大きく広い神様の経綸を信じ、従う必要があると思うのです。

人の人生で、どのような配偶者に出会い、どのような結婚生活をするのかということは、とても重大な出来事です。この点で私は神様の祝福を実感する人生を生きています。困難な環境の中でも、家内は私に対する気持ちを、最初から最後まで変わりなく守ってくれた同伴者でした。そして6人の息子娘を、愛と真心で育ててくれた素晴らしい母でした。

今ではその息子娘たちが神様の祝福の下で家庭を築き、公的な生活をしており、私に孫・孫娘をたくさん抱かせてくれました。その中で長女・新淑家庭の外孫、長男・珍滿家庭の長孫と2人の孫娘、次男・珍孝家庭の長孫、末娘の美淑家庭の外孫まで、全部で6人が米陸軍士官学校(ウェストポイント)に入学しました。4人はすでに卒業して服務中であり、2人は今年入学しました。

ますます殊勝で誇らしく育つ孫・孫娘に加えて、いつのまにか長女と長男の家庭を通して、曾孫も3人生まれました。彼らを眺める喜びを可能にしてくれた妻にいつも感謝し、何よりも許諾してくださった祝福結婚の理想が観念上の祝福ではなく、実際に結実を見るようにしてくださった神様と真の父母様に感謝しながら生きています。

2番目の娘・聖淑の聖和

韓国で妻の事故がありましたが、私たちの家庭は、米国でも胸が痛むことをもう一つ経験しました。

2番目の娘・聖淑が1995年1月31日、交通事故で聖和したことです。

当時、聖淑は妊娠しており、産婦か子供のどちらか一方だけを生かすことができる状況でした。その切迫した状況で聖淑は子供を選択したのです。妊婦の体で仕事をし、子供2人を育てながら、どんなに疲れて忙しくてもお父様に侍り、行われる全ての集会には、一度も抜けることがなかった娘でした。ベルベディア教会の奉仕活動にも率先して参加するほど、信仰的に模範生でした。

聖和式が終わり、娘の荷物を整理している時に、1つのメモを発見しました。

「私の誓い」

読んでみると「親である私よりも優れた信仰と生活の態度だ! 」と思いたくなる文でした。母親は早く聖和しましたが、このような母の精誠の土台の上でよく成長してくれた聖淑の子供たちに、いつも感謝しています。霊界と地上が一つに通じるという事実を私に悟らせてくれる、私としてはとても感謝なことです。今でもたまに、そのメモを取り出して読むことがありますが、非常に貴い内容なので、ここに紹介したいと思います。

<私の誓い>

  1. 二世の中で、お父様のみ言葉を一番熱心に読んで勉強する人になる。
  2. お父様のみ言葉を自分のものにして、最善を尽くす。み言葉の実体化をなし、み言葉の化身体として、夫と子供たち、そして全家庭の食口を天の側に善化させる。
  3. お父様が語られる時は、どんなに疲れていても、絶対に居眠りしない。
  4. 日曜の敬拝式、月初めの敬拝式の時間と伝統を遵守することを絶対視する。(心と体を尽くし、精誠を尽くす)
  5. 子供たちを天の前に恥ずかしくないように育てる。
  6. 私はお父様のみ言葉を受ける器、沃土となることに魂血を捧げ、天の皇族を生み育てる。
  7. 氏族的メシヤの重要性を忘れず、真の家庭、私たちの家族の他にも、李氏、郭氏の親戚たちと門中(父系親族)のために祈り、物心両面で精誠を捧げる。
  8. 決して讒訴される恥ずかしい先祖とならない。
  9. 真の父母様が誇ることができる外的実績・実力を備える。
  10. 夫と子供の前に天の伝統の通りに生きることにより、見本となる、謙遜で、終始一貫した妻と母となる。
  11. 私の家庭と一族を天の前に貴く献呈するために、喜んで生畜の祭物となる。
  12. 絶対に天を失望させない。
  13. 言葉と情を大切にし、節制しながら内的に堅固にする。(表に出ず、自分を立てず)
  14. 真の父母様(天)のお食事を毎食、祭壇に捧げ、侍る生活をする。

世界摂理の中心で

世界摂理の中心で

米国で初めての公式活動として、在米韓国人宣教会を務めながらお父様のみ言葉にしたがって、世界の食口たちの教育伝道のための原理講義案などの資料を作成し、原理修練会と原理試験制度の体系を作り、教育に努めました。

天が私を立てて使いたくても、私の拙い英語では言葉に限界があるため、いつも私の心は重かったのです。通訳を使っていましたが、勇気を出して、足りなかったとしても直接話さなければと決心しました。絵を描いたり、身振り手振りしながら信仰指導をしたことが、英語説教の始まりでした。

そして全世界的に日増しに増えていく宣教師基盤との円滑なコミュニケーションのために立てられた世界宣教本部の本部長の責任を、1977年7月5日に任されました。

私たちの初期の宣教は、一つの国に、原則的に日本、米国、ドイツ出身の宣教師が共同生活をしながら活動するのが特徴でした。貴く美しい伝統でしょう。どんな宗教団体でも、このような宣教歴史はありません。

過去に互いに敵対関係にあった国の人たちが、任地で初めて会って寝食を共にし、開拓伝道をしながら、原理が教える理想実体となるための訓練の過程を経ました。特定の国では、宣教師たちが追放されたり、投獄されたり、殉教したりしました。一部のイスラム圏と共産圏の国では長い期間、生命をかけて地下宣教をしてきました。そのように苦労する宣教師を慰め、励ますことが私の重要な任務でした。

次第に、より多くの国際機関を統括しながら、毎年、地球を10周以上回って忙しく往来しました。訪問国は150以上に上りました。それぞれの国の大統領をはじめとする各界指導者たちに会い、神様のみ旨を証しました。一日の間に昼と夜が変わり、季節が変わる巡回日程の中でも、現地食口と一緒にどんな食べ物も選り好みせずよく食べ、どんな場所でもよく眠り、健康に過ごすことができるように守ってくださった神様に感謝しました。

神様と創造理想に徹して生きてきた理想主義者であり現実主義者

慶北地区長を経て本部に来て、大学生部長として活動していた時のことです。

ある日、お父様が尋ねられました。

「そうだ、お前、大学を卒業できなかっただろう」

「お父様、大学の卒業証書が何の意味がありますか」

「いや、大学に復学しろ」「復学ですか」

「そうだ。大学生を指導し大学教授などを相手にするなら、卒業証書が必要だ。人々はその人の実力よりも看板を先に見るものだよ」

お父様は是が非でもと言われましたが、現実的に困難でした。当時は大学入学競争率が相当なもので、復学自体が不可能な大学が多かったのです。

「お父様、復学も簡単ではなくて…」

「それではどこか夜間大学にでも編入するようにしなさい。ソウル近郊の」

言われた通りに調べて、新設大学に編入しました。

お父様は天道に精通した方ですが、一方でその天道をこの地に実現するために「具体的な計画と、それを実現する人間の責任分担」が不可欠であることを強調し、また手本を見せる実践家でもありました。

「私は世の中を信じて働いて来たのか。神様を信じて働いてきたのだ」

「先生は天国に行くことができる教本の生活をしてきた。あなたたちも天国に行くことができる教本の生活をしなさい」

「入教年月日を考えるな、自分の庭(心霊)に何が育ち、どんな実を結ぶかをもって語れ」

「先生の前に、全ての人は責任を果たす時だけ、子女の因縁が決定される。先生の実の子供であっても責任を果たすべきであり、それができなければひっかかる」

お父様は、神様と創造理想に徹して生きられる理想主義者でした。一方、信じただけで行くことができる天国ではなく、人間が地上で天国をまず成すべきであると教えられながら、徹底して実践される現実主義者でもありました。祈りで生きられる方であり、同時に人と世界を変えるのに極めて論理的であり、また率先される方でした。

私たちが30年前に大韓民国の首都ソウルで、どのようにして日刊紙「世界日報」を刊行することができたのでしょうか。

キリスト教の長老が文教部長官をしていた時代に、どのようにして神学大学を含む総合大学校の認可を受けることができたのでしょうか。

全て、現実に基づいたお父様の綿密な計画と戦略によって得られた、驚くべき奇蹟のような勝利でした。

大学教授招請原理公聴会を開催している私に、お父様は神様の摂理に寄与することができる教授団体を結成するようにと言われました。世界巡回に出発する直前に「平和」と「教授」の2つの単語を名称に入れなければならないと言われました。その当時、自由陣営では「平和」という言葉をほとんど使いませんでした。共産圏でのみ好んで使っていました。

「お父様、平和という言葉をなぜ使いますか」

「今後ロシア、中国など共産圏の教授たちまで参加させるには、平和という単語が必ず入らなければならない」

やはりお父様は、優れた戦略家でした。私自身も6、7年後になって、その摂理的慧眼に感嘆することになりました。

世界平和教授アカデミー(PWPA)を創設した1973年は、私たちに対する社会的偏見が余りにもひどい時で、教授たちを公聴会に招請することも容易ではありませんでした。私たちと連携した組織の会員になること自体を敬遠する雰囲気でした。

難しい中で準備委員会を設けて、数ヵ月間走り回りましたが、最後の段階で目の前が真っ暗になる出来事が起こりました。組織事務局長に欲を出した準備委員が「教授組織なので、事務局長は必ず教授がならなければならない」という主張をしてきたのです。その仕事を引き受けるだけの食口教授がいなかったため、実に厄介な状況でした。

この教授組織が世界的に拡大し、神様の摂理と人類平和の具現に大きな役割を担わなければなりませんでしたから、お父様のみ旨を正しく理解していない外部の教授が事務局長になったとすれば、調整者の役割をどうしてこなすことができるでしょうか。

明知大学校との驚くべき縁

奇蹟のようなことが、まさにその時起こりました。兪尚根(ユ・サングン)明知大総長が突然、目の前に現れたのです。兪総長は教授招請原理公聴会で私の講義を聞いた方ですが、3日間にわたって前から3列目中央に座り、傾聴するその姿がとても印象深かったのです。

公聴会が終わる最終日、7、8人が丸く座る午餐テーブルで、その方が私に言うのです。

「郭先生、一つお願いがあります」

「はい、お話しください」

「私たちの大学で講義をちょっとしてください。このように良い講義は、教授だけでなく若い大学生たちが聞けばもっと良いだろうと思います」

「総長のご好意は本当にありがたいですが、私にはそのような資格がありません」

「何をおっしゃいますか。私は講義を聞いて本当に感動しました」

「それでもそれは…」

「よろしければ明日の朝10時、私たちの大学総長室に来てください。待っております」

翌日、兪総長を訪ねて率直に話しました。

「実は私は、慶北大学校3年生の時に文鮮明先生の原理を知り、原理に心酔して大学を中退しました。今まで14年間、文先生の下で公職を務めて働いています。大学の卒業証書もないのにどうして講壇に立つことができますか」

兪総長が手を振りました。

「それが何の関係がありますか。私が郭先生の講義を直接聞いて直接招聘しているのです」

そうして、申相楚(シン・サンチョ)教授の例を挙げながら、卒業証書自体が重要ではないと励ましてくれました。申相楚教授は東京大学に在学中、日本の学徒兵として徴兵され、満州戦闘に動員されましたが、そこの日本兵営から脱営して独立軍に入った方です。大学の卒業証書はありませんが、後日、ソウル大学校、成均館大学校、慶熙大学校で名教授として活躍しました。

兪総長こそ「天が役事した方」という気がしました。既成教会の長老である彼が、統一教会の講師である私を、自分の大学の教壇に立てるとは。当時としては、なおさら奇蹟のようなことでした。

明知大学で思いがけず国民倫理担当教授となり、昼夜合わせて1週間に15時間前後、3年間教えました。私はPWPA創立以前に、これらの条件が整えられて自然に初代事務局長となり、無事に世界平和教授アカデミーが出発することができたのです。

振り返ってみると、かつて私に「復学して大学を卒業しなければならない」と言われた時から、お父様は人が考えもしない大きな理想を持っていらっしゃいました。また、その理想を実現するために私に現実的に何が必要なのかも知っておられました。これらの経験は、私に内外共に大きな学びと悟りの機会を与えました。

「志を同じくする私たち教授は、知性と良心を持って真理と善に至る道を探求し、あわせて人類の福祉と新しい文化の発展に寄与することを目的としPWPA(世界平和教授アカデミー)を設立するものである」

以上の創立趣旨文と共に、世界平和教授アカデミーが歴史的な出発をしました。1973年5月6日のことでした。168名の教授が参加して、ソウルニューコリアホテルで開かれたこの日の創立総会では、前弘益大学総長、李恒寧(イ・ハンニョン)博士が初代会長に選出されました。

宗教と洋の東西と人種を一つに調和させる宇宙的革命

世界平和教授アカデミーは、翌1974年に日本と台湾でも創立されました。

その後、国際文化財団(International Culture Foundation、ICF、米国)の支援を受けながら、さらに世界的な組織に拡大していくことができました。ひいては米国とカナダ、ドイツ、スウェーデン、フランス、イギリスなど西ヨーロッパ諸国をはじめ、トルコ、バーレーンなど中東諸国、東ヨーロッパ諸国、そしてロシアでも創設されるなど、全世界120ヵ国に大きく拡大しました。分野を超えた学者たちの共同研究活動を通して、「現代文明の危機克服に効果的に寄与」していくという趣旨に、世界の知識人たちが幅広く共感したおかげでした。

世界平和教授アカデミーは国内外をあわせて、各種学術セミナー、月例教養講座、地方学術講演会、出版活動、アカデミー賞授賞など、国と地域別に活発な活動を展開しました。特に2年周期で開催された「PWPA世界大会」では、当時の世界情勢の中で実に驚くべき成果を数多く収めたのでした。

1983年12月、大韓民国ソウルで開かれた第1回PWPA世界大会では、「多元化された複合的な世界的危機状況の中で、良心的な学者たちが自ら厳重な責任と使命を誓う」として、その火ぶたが切られたのでした。

1985年8月、スイス・ジュネーブで開かれた第2回世界大会では、「ソ連帝国の崩壊とその後の共産圏世界」を予見して、大きな論争と話題を呼び起こしました。後で詳しく紹介しますが、私としても実に忘れられない思い出です。

1987年8月、フィリピン・マニラでの第3回世界大会の時は、「新時代における中国」「中国の未来と役割を省察」する研究討論の時間を持ちました。今日、米国と共にG2の隊列に上り、まさに世界的な影響力を行使する中国の姿を見る時、30年以上前の当時としては本当に素晴らしい先見の明が作用したテーマの選択でした。

1989年8月、英国ロンドンで開かれた第4回世界大会では、「自由民主社会、その現況と未来」を展望しました。これもやはり今日の世界を見た時、実に時にかなったものであり、意義が大きいテーマでした。

お父様は、歴史上どの経世家や聖人もできなかった、とてつもないことを計画し、当代で成しとげられました。東西の碩学たちに専攻と国境を越えた研究の場を設けてくださり、彼らが人類の平和と神様の理想を実現するための研究の方向を持って、公的に奉仕するように悟らせてこられました。人類文化史の新しい転機を準備された、歴史に足跡を残す業績です。

また、ユダヤ教、キリスト教、カトリック、イスラーム、ヒンズー教、仏教、儒教などの最高指導者が一堂に集まったことが、歴史上一度でもあったでしょうか。

地球上の全ての宗教の碩学たちが集まり、心の扉を開いて建設的な討論をする場面が、過去にただの一度でもあったでしょうか。

各宗教団体の未来のリーダーとなる青年たちを集めて、「一つの神様の下の一つの世界」理想に目覚めさせる一方、これに対して確信するようにしたことが、世界の歴史に一度でもあったでしょうか。

これこそ人類精神史における革命ともいえる出来事でした。

お父様は神様の真の愛を中心として、宗教と洋の東西と人種を一つに調和させる、宇宙的で荘厳な革命を主導なさることによって、将来予想される宗教戦争、人種戦争を予防してこられました。

お父様の大命を頂き、生きがいの中で走りながら、私は「一つの父母、神様の下の人類一兄弟」の理想が実現されるひと日に対する確信を伝播しながら生きてきました。

それぞれの教義と信条に確信を持っている宗教団体の長と、最高位聖職者たちが、宗教団体間の高くて硬い壁を越えて、「神様に関する会議」「世界経典編纂」「世界宗教青年奉仕団活動」「世界平和超宗教超国家連合運動」を一緒にするということは、当代の誰も考えなかったことでした。

お父様の優れた慧眼は、特定分野を問わずいつも新しいものでした。これは、世界的に権威のある国際会議でも、いつも新鮮に受け止められました。

お父様は2005年6月には、米国で、全世界を一日生活圏で結び、人種、文化、宗教、国家の壁を壊して5大洋6大州を連結する高速道路とベーリング海峡「トンネル」プロジェクトを発表されました。すでに1981年にソウルで開催された科学者大会で、国際平和高速道路時代の到来を宣布して、韓日海底トンネル計画が相次いで発表され、研究所を作り、日本ではトンネル試錐、掘削調査も行いました。

また、大規模な財政的支援をして、世界文化体育大典(World Culture and Sports Festival-WCSF)を定期的に開催し、神様の理想である「一つの心情文化世界」を成していくように指導されました。このようにお父様の教えと実践は、一つの教派や宗教の次元ではありませんでした。

1996年6月10日、イスタンブールで154ヵ国の代表が参加した国連ハビタット会議に招請された時のことです。当時、国連は「人類の住居問題」を大々的に扱っていましたが、国連に登録された3,000のNGO団体の中から選ばれた講演者17人のうちの一人に私が選ばれました。

各国代表と発表者は、大同小異に「都市化」を既成事実化して、都市環境、貧民、教育など日増しに深刻化する問題点に対して、あらゆる対策を打ち出しました。しかし、根本的な解決策を提示することはできませんでした。

この時、私は「未来IT新技術の発展により在宅勤務が拡大される」という予測を前提に、「脱都市化」を主張しました。

「このような社会構造の変化が、公害問題など都市化によって発生する多くの問題を解決することでしょう。ところが、家族が一緒に過ごす時間が多くなればなるほど、家族間のつながりを強固にすることは何よりも重要となります」

それによって、大きな関心と共感を得ることができ、後にウォーリー・エンダウ大会事務総長が大きく称賛しました。

もちろん、このような内容は全て、お父様のみ言葉から得たものでした。お父様は「家族が湖畔の自然の中に住みながらも、そこでコンピュータを利用して、大学まで卒業することができる時代が来るだろう」と語られたのでした。

「イエス様平和の王戴冠式」を奉呈

振り返って見た時、節目ごとに私の人生を支えてくれた力は、無形の神様はもちろん、お父様と共にあることで感じる、感激と喜びでした。

神様が追求する価値のために全世界を開拓して行きながら、険しい苦痛の瞬間がどうしてなかったでしょうか。しかし、瞬間瞬間の試練と危機を、私はいつも神様のみ旨と考えました。感激として、喜びとして理解しました。そうだったからか、国際会議のような場で学者や宗教指導者たちに会えば、しばしばこのような言葉を聞きました。

「いつも笑顔ですね」

「いつも晴れやかで、明るい姿が本当に素敵です」

ある方からは、このような話を聞きました。

「文鮮明総裁の近くで侍っているので、そのように幸せでいらっしゃるのですか」

どうでしょうか。それは合っているとも言えますが、そうではないとも言える言葉です。あれほど高く貴い目上の方のそばにいることが、実はそれ自体でいつも幸せだとばかりは言えませんでした。精神的にも肉体的にも大変なことがどうしてないでしょうか。

例えば、お父様の一日の睡眠時間は3時間にしかなりません。おかげで私も、他の人たちよりも、とんでもなく少ない睡眠時間で生きていく訓練をずいぶん受けなければなりませんでした。米国や漢南洞時代には、それでも近くに家があり大丈夫なほうでした。ところが清平にいらっしゃる時には、毎日午前3~4時にソウルの家を出なければなりませんでした。高速道路が開通する前でした。ある時は、ソウルから清平まで1日2回、往復する日もありました。

肉体的な困難もそうですが、もっときつかったのは精神的な圧迫でした。

私にたびたび指示を出しては成果を望まれるのですが、その方の持つビジョンがとても高く膨大であるため、私の能力の限界を超えることが多かったのです。「心配しないで早く処理しろ」と催促が続いた日には、本当に大変でした。もちろん、その方自ら「この仕事を早く成しとげなければならない」という切実さに徹しておられたがゆえであることを、私もよく知っていました。いつだったか、あるプロジェクトを急いで催促しながら、このように語られたことを思い出します。

「人類の中のどれほど多くの人が毎日、神様の真なるみ旨を知らずに地獄に行くか知っているか。その霊たちがどれほど苦労するだろうか。私たちが彼らを早く生かすべきではないか。そうじゃないか」

ところが、本当に不可能に見えるとてつもないミッションが私に与えられた後、ある瞬間にいろいろな事が奇蹟のように解決したりしました。そんなことは1度や2度ではありませんでした。

2000年末のある日、お父様がいきなり言われました。

「国連に行って祝福行事をしなければならない。さあ準備をして」

国連がどのような機構でしょうか。そこで私たちの聖婚祝福行事をするというのですから、目の前が真っ暗になりました。

瞬間的に「お父様が今、無理強いをしているのではないか」とまで思いました。

さまざまな曲折がありましたが、実際に2001年1月、UN会議場で130ヵ国から210組の善男善女がそれぞれ、固有の民族衣装で真の父母様の祝祷を受ける「国際平和祝福行事」が奇蹟のように実現しました。本当に幸いであり驚くべきことでした。

また別の例として、2003年12月22日と23日の両日、世界平和超宗教超国家連合(IIFWP)主催で、エルサレムでユダヤ教、キリスト教、イスラームはもちろん、ヒンズー教、仏教、儒教など約3,000人の指導者と信徒が、超宗教会議と超宗教平和行進をした時のエピソードを挙げることができるでしょう。行事の最後の式順で、約2万人が集まった独立公園で、「イエス様平和の王戴冠式」を奉呈して差し上げる奇蹟のようなことがありました。

大会を主管するためにそこにいる時、お父様から国際電話を受けました。

「神様の平和理想実現の夢を成すために来られた罪のないイエス様を、十字架でなくなるようにしたことに対して悔い改め、イエス様を人類平和の王に推戴する儀式を挙行するように」

瞬間、目の前が真っ暗になりました。それで、泣くような心情で訴えました。

「お父様、このように様々な宗教指導者たちが一堂に集まって、平和大会を開催すること自体、奇蹟です。それなのに、イエス様に対する見方が明確に違うユダヤ教、イスラーム、キリスト教の代表がいる場で、イエス様の戴冠式を行うことは難しいと思います」

もちろんお父様は、ご自分の意志を曲げられません。言い争いになる電話がなんと1時間40分も続きました。その長い通話時間から、お父様の切実さを知ることができたのです。最終的には「私がやってみましょう」と答えてしまいました。結論として、この行事も紆余曲折はありましたが、神様の特別な恩賜の下で成功裏に終わり、お父様はとても喜ばれました。

しかし、不可能が可能に転換される恵みの奇蹟が毎回、私を危機から救ってくれた訳ではありませんでした。指示された事に粉骨砕身しましたが、残念ながら面目なく失敗に帰してしまった事がらも少なくありませんでした。ありがたかったのは、お父様はそんな時でさえ、私を許し励ましてくださったということでした。

お父様は理想が大きく、あきらめる事を知らない方でした。その一方で、現実的に準備がもっと必要であることも、誰よりもよく知っている方でした。

お父様、そして侍る者としての悔い改め

お父様、そして侍る者としての悔い改め

前にも少し述べましたが、私自らが要望して役職を求めたことは今までありませんでした。ただ私に与えられた責任に最善を尽くして精進しただけです。

米国に到着するやいなや、お父様は特に私に牧師の称号を下さると同時に、間近に置いて仕事をさせました。海外出張に出かけないかぎり、毎日お父様に侍り、朝食を共にすることのできる特別な恩恵を受けました。おかげで毎日報告をし、指示を受けることによって、数多くの責務を推進することができました。

その方の間近で侍り、生活することができたこと。

み旨で50年間、公職を離れることがなかったこと。

私はいつも、この2つを神様に特別に感謝しています。特にほぼ毎日、至聖所に出入りしながら、真の家庭の事情を深く悟り、直接的または間接的に教育を受けた米国での生活は、私には驚くべき恵みでした。

神様のみ旨を成すことに狂われた方

お父様は「神様のみ旨を成すことに狂われた方」です。

そのみ旨のために、全人類と世界を愛そうと生涯を捧げられた方です。世界中の困難を全てご自分の責任だと感じ、解決するために忙しく生きられた方です。

お父様はいつも人に対して「歴史的な眼目」をもって対されました。

全ての人を愛され、祈りをもって配慮されるだけでなく、宿命的に行くべき復帰の道があることを悟らせようとされました。神様が人類の父母であり、真の愛の本体であられることをいつも知らしめようとされました。天国は信じて行く所ではないこと、地上でまず平和理想天国を成さなければならず、地上で自ら天国人の生活をすることが人の道理であることを教えられました。わずかな時間だけ対する人にさえ本人が望む以上に応えられ、またご自身ができる最上の基準で与えられました。

お父様は雪が舞い、雨風が吹いても、熟睡されることはありませんでした。苦労する世界の食口たちを考えているからでした。肉身の疲れが極に達しても、心地よい場所を探すことなく辛抱されました。そのように疲れと戦われました。心情の借りを負わず、常に第一線に立たれるためでした。

お父様の日課は、いつもみ言葉で始まり、み言葉で終わりました。毎日会う人たちにも、いつも初めて会った人のように関心を集中されました。周りの人たちに等しくみ言葉を下さり、心霊指導をして下さいました。

真の父母様から私が受けた愛は、ご自身の実の子女に注がれた愛以上のものでした。同じテーブルで食事をした回数や、教えを受けた量や、生活の中で侍り、旅行して回り、報告し、歓談し、共に過ごした時間においても、実の子女様に対される以上、何倍もの恩恵に与りました。このような点で、私は真の子女様たちに多くの負債を負った者です。

「信仰の子女は、実子を育てる3倍以上の精誠を投入して育てなければならない」

いつかご自身が語られたみ言葉を、お父様は自ら実践されました。

まさに私がその証人です。

「メシヤも人」という原理

お父様のみ言葉と原理は、2000年の歴史を持つキリスト教神学の多くの根本的な間違いを、正確に指摘しています。イエス様は神様の息子であって、神様そのものではありません。にもかかわらず、イエス様の弟子たちと神学とがイエス様を神格化し、信者たちはそれをそのまま漠然と信じてきました。これは「イエス様を余りにも尊敬して絶対的に信じた」からと言って、看過してもいい些細な間違いではありません。イエス様は十字架の道に関して、3度も顔を地に伏せて祈祷されました。

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」

神様の息子として父の理想を地上に成そうという一念に徹して生き、最後を終えられたイエス様の生涯を、私たちは正しく理解する必要があります。十字架の死は当時、責任を果たせなかったユダヤ教と社会的指導者の反対、そして未熟な弟子たちの活動や行動など、与えられた状況の中で選択するしかない道ではなかったでしょうか。

これを知っているにも関わらず、間近でお父様に侍りながら、その心情と日常におりおり接してみると、ある瞬間から、私は神様とお父様を同一視するようになりました。祈る時も瞑想する時も、お父様をすなわち神様と感じたりしました。

1980年代初め、米国で、キリスト教の牧師を同伴して韓国に来て、統一原理公聴会をする時でした。個人的に付き合いがなかったある方が、私に伝える言葉があると言うことで、少し会ったことがありました。「神様が必ず伝えるようにと言われたメッセージ」があるという前提でした。いつでも霊媒に接する時にそうしたように、尊重する心で彼に対しました。

「神様は郭会長をとても愛していらっしゃいます。ところが近ごろ、郭会長が神様とお父様を一緒にし、ある時はお父様を前に立てて対しておられるようで、神様が寂しいと言っておられます」

はっと我に返りました。これまで私の心境を誰の前にも言ったことはありませんでした。ところが神様は、韓国にいる霊媒を通して、私の心の姿勢を悟らせてくださるのだと思いました。その後、米国に戻ってお父様にこのことを報告しました。ただにっこり笑われながら「神様も面白いだろう」と言われました。

私たちはメシヤも「人」であるという原理を学びながら、いざ実生活では、しばしばメシヤを神格化し、またこの誤った信仰をそれとなく誇示する間違いを犯したりします。その一方で、真の父母様が犠牲と至誠で成しとげた摂理的成就を、「全知全能なる絶対者の位相によって、自然に成しとげられた結果」として片付けてしまうこともあるのです。

悔い改めることが本当に多いです

正しい原理の人であれば、どのような姿勢を持たなければならないでしょうか。

その結果をただ称賛する次元ではなく、お父様が神様の息子として、準備されていないこの世の中で苦労し、一つひとつ達成するために精誠と努力を投入してこられたことを範とし、似ていかなければならないでしょう。

率直に言って私自身も、頭の中ではどのようにしなければならないということを、よく解っていましたが、実際の生活では、その通りにうまくできなかったことを告白します。

お父様も与えられた環境条件に応じて試行錯誤されることもあり、失敗に終わる結果もあり得ることを理解しながら、侍らなければなりませんでした。

私たちは、お父様の肉身も時間と空間の制約の下にあり、80歳以降のお父様が、精神的にも肉体的にも以前とは違うかもしれないという点を、前もって理解しながら侍るべきでした。

しかし、私はそのようにできませんでした。

全くもって私の不覚でした。

そのため、み言葉と重要な決定が、明確な説明なく変わる時にも、その理由を深く知ろうとすることより「絶対的に従う姿勢」を美徳としました。

何のための絶対信仰、絶対愛、絶対服従でしょうか。

私は顯進様を通してこの質問に悩み始め、また答えを見つけることができました。

具体的な内容は、この本の7章で再び説明したいと思います。

お父様は、地上天国と天上天国、すなわち神様の夢をご自身の責任で完成しようと、犠牲的な生涯を送られました。

お父様の成就に同参するために、祝福家庭はお父様の手本に従って責任を果たすべきです。お父様が成しとげた成就が、そのまま祝福家庭の成就になることは決してありません。

また、漠然とした絶対信仰は、ややもすると、摂理とは無関係なことを神様のみ旨と思い、盲目的に服従する誤った結果を生んでしまいます。

真の父母様を神格化することは、み言葉や原理の教えと一致しません。真のお父様は至誠を捧げて献身しながら、責任を果たす生涯を送られました。私たちの真の信仰とは、生活を通した実践により自分の家庭で結実し、世の中に現れるものです。

「祝福中心家庭とは、神様の前に孝子・忠臣・聖人・聖子の道理を尽くすものである」

「お父様について回ろうと考えるのではなく、一族一国を率いてお父様のところに来ることを考えなさい」

「神様の真理を墓のような自分の中に埋めておく者は、泥棒である」

このようなお父様のみ言葉を振り返る時、私たちは日常で手本を残され、私たち各自の生活の中で実践しなさいと言われたお父様の教えの深い意味を知ることができます。

お父様は4ヵ国で6度の悔しい獄中生活を送られるなど、祭物的な生活を通して、蕩減時代を全て清算され、初めて成約時代を開いてくださいました。そして父子協助時代、二世時代が来たと重ねて言われました。私をはじめとする一世指導者たちは、摂理の進展に対する自覚が余りにも足りませんでした。無事安逸に暮らしてきた無知と怠惰を深く悔い改めます。

また驚くべき摂理の進展に感激しながら、天道に合った生活ができなかったことを深く悔い改めます。

-事必帰正