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チョ・ヨンジュ氏の心情日誌(2018-06-17)

2018.06.17(日)

今日も(協会)次長の訪問だ。部長が出て行ってから継続する協会の関心と消極的な私の態度に学生達が疲れてきつつあるようだ。礼拝人員も減り、私も意欲が落ちる。苦悩し始めて、母とはこういう話を交わすことができるものの、今はまだ誰にも話せない苦悩だ。協会はいつも私に教育案を要求するが、それがニ世たちの為ではなく「部長が去ったが、安山は大丈夫だ」という確認の手続きが必要のようだ。自分なりの自己合理化ではないかと思う。作ってみよという教育案の名前が「未来人材養成教育計画案」だが、何回も「これをなぜしなければならないのか」と反対に問い訊ねてみるが、「ヨンジュは公職をするだろうし、本当に弟(妹)たちの為なら、これを通じて認めてもらったらいい」といったような答えだ。その通りだ。部長の選択によって希望がないと感じられている安山を活かせば当然注目されるだろう。ところで、これが、いつも私たちの教会の歴史が、そういったやり方でなされてきたようだ。前任者ができなかったことを次の人がやり遂げれば、前任者は忘れられて後の人が認められ、またその人もいつ追い出されるかも知れないということだ。真の愛を語る場であるなら…。部長を受け容れるか、何故出るようになったのかを説明すべきなのに、次のプログラムで部長をいなかった存在として消し去ってしまおうとしている。

神様を愛して真の父母様の仕事を少しでもお手伝いできることが「公職」と思った。私ができることをせよと言われたが、「私ができること」とは「弟(妹)たちに真実を明らかにすること」だ。もみ消して現実を円満にさせるのではなく、責任を私がまた負うことだ。大丈夫だ。実績と実力も重要なことは分かる。昔は「実績」という単語が嫌いだった。何か実績と言えば、思い当たるのは人員動員ぐらいだから。ところが教師をしながら感じられた。実績こそ本当に恐ろしいものであり、実力が必要なのだというのも。真なる実績と実力を味わったからか、私にとってその二つの単語が特別なものになった。しかし、こういうことで「実力」と「実績」と言いながら私をけしかけるなら、私には絶対できないだろう。

疲れる。学校生活と、協会への関心、そして私の元々の主な関心事である成和子女たちと学生の父兄たちの絶え間ない質問と確認。…精神的にも疲弊していく。協会は一週間に1~2回だけ来て、多くのことを一度に要求する。私の状況を考慮しない。ただの与太者と思われているらしい。…「助けてやる」という名目の下に多くの要求をして来る。「他の教会の現場にもこのような要求をするのだろうか、どうだろうか」…益々悔しくなる。そのように何日かにわたってユース(Youth)修練の要旨の最初から最後までの検査を引き受けた。教育内容については指摘を受けることはないと思った。真の父母を否定したこともなく、私たちは真の父母を愛したので弟(妹)たちに「教育」という名で近付くことができたからだ。「最近までもこういう話をヒョウォンがしてたって? ところで何故出ていった?」という話を次長がした時は、次長も認めた部分だと思った。

「私たちは安山の文化にだけ定着させようとしていたのではなく、教区に拡張させる為に教区修練も進めたし、そのスタッフたちに同じ目的と方向性で教えて下さったし、スタッフたちは実際に成長も沢山したし、教区の成和の弟(妹)たちは沢山愛されていきました。そして最終目標は全国のモデルになって全国の成和青年たちが天の前に基準を立てようという運動を起こしたかったのです。それができた理由は専ら真のお母様に喜びを捧げ、統一家の実質的モデルになってさし上げるためでした」と答えた。「あぁ、それを一緒にしたら良かったのに」という返事に対し「は…こんなに簡単に…本気だろうか?」という残念さだけがさらに大きくなっていった。

「ところで、この程度では真のお母様に報告もできないし…。コンテンツが必要なのだ、コンテンツが!」

「あぁ、これは報告しても希望がないのですか」と言うと、「この程度では何とも…」という表情で「真のお母様に報告するには、この程度ではだめで、これも教えなければならない」と言われて、追加すべき講義内容を知らせて下さったが、それは「独生女」と「HJ天苑団地」だった。共感できなかった。「子供達に理解できるか」、「真の父母を何故別々に分けて教えなければならないのか」、「私にもこういう質問が出るのに、学生達にはもっと出ないだろうか」、「私たちは何をしたい集団なのだろうか」…といった多くの考えをさせられる言葉だったが、首を縦に振るしかなかった。そしてその時「ユース(Youth)修練はあまりにも神様だけを強調しているが、これからは実体聖霊がおられるではないか。神様よりも真のお母様を強調しなくてはならない」と言われた。疑問符が生ずる言葉だ。神様が前提となっていない真の父母があり得るのか…。「これ以上言い返すのは止めよう」と思った。

真のお母様にご報告申し上げる時に「こんなものは満足しない」というのは誰の判断だろうか、考えてみた。真のお母様が喜ぶ内容が「生活の中で原理と真の愛を実践し神様に侍って生きる生き方」ではなく、「青年学生5,000人が集まって前進大会しました!!」として祝勝会を繰り返す生き方、または「独生女がこの地上に来られた」という内容だったとは。この方が今お母様について正しく代弁していると言えるのか。部長は真のお母様の集会映像を見ていつも「真のお母様は懇切に責任を果たしてくれることを願うのに、真のお母様の身近にいる公職者たちがあまりに容易に『はい!』と答えると言って、本当にやる気があるように見えるのか。私たちが真のお母様に本当に喜びを捧げよう」と言っていて、私も真のお母様に口先だけで「心配しないで下さい!」ではなく、本当に安心されるように「希望になりたい」と誓ってきた全てが崩れ落ちるような気持ちだった。真のお父様が生涯を通じて証明して下さったことは、生活の中で神様に侍る家庭になることであり、全人類が神様を忘れてしまい自分勝手に生きるのではなく、絶対的な神様が中心だと教えて下さったのに…。実践ではなく、理解できないことを疑い無しに信じてこそ可能な摂理になったとは…。

私が参加した前進大会は事実、参加した人なら誰もが皆、感じていたはずだ。純粋な人々は「ワァ、すごい!」、信仰ある人々は「うちのお母様すごい!」と言って参加したのであって、そういう少数の人々を除いた人々は、誰が出てきて特別報告をしようが、講義をしようが、映像を見せようが、関心がない。摂理に参加しているということも分からない。携帯電話だけ触っていたイベントだった。何も知らずについて行くだけの時代はもう過ぎ去ったと感じるが、未だにそういう習慣が残っているようだ。今や皆が主人になるべき時代が来たが、しかし現実は依然として「一応イベントだけ参加すればよい!」である。

そして、その度に私たちの学生達は行きたがらなかったが、これをもって現場を知らないと判断するのである。自分の位置でできることだけ眺めようということか。前進大会に対しても持っている考えを次長に申し上げたが「それは感じた人が直すべきことだ」と言った。ヨンジュが「意味がない」と思ったら、予め事前調査をして学生達を朝早く集めて「私たちはこういう所へ行って、こういうイベントだ」と説明してあげて意味を付与してあげることが教育だと言われた。一見、正しい言葉のようだが、単に責任を押し付けることではないかと思う。結局「協会は現実の中で実践することは教えないけれども、悔しければ君が教えろ」ということではないか。そして率直に私もそのイベントで意味を見出せないのに、学生達に何と繕って教えろというのか。

全ての対話の結論は、「独生女」を教育することが、今私がすべきことだということだった。実体聖霊の役事であることを強調することが重要だと言った。それが摂理であり、それが公職者の責任だと言われた。既に顯進様側のセミナーを聞いてユーチューブやカフェなどを通じて、独生女論の要旨が何なのか捜してみた。驚くべきことに独生女論は結局、お父様の血統を否定していた!のだ。その部分は隠したまま「お母様は独生女であり、天が準備した聖神(聖霊)」であることを強調するのが現在公職者たちの最善の姿勢なのだろう。今日は質問をしなければならないと思い「どうして独生女が重要ですか」と訊ねてみた。「独生女論に対する資料がユーチューブに沢山出ているが、独生女論自体がお父様を否定しているけれども、そんなことを教えてもよいのですか」と言うと、それはよく分からないが、調べて答えて下さると言った。しかし当然目つきに動揺が窺えた。「あなたが知らないわけがないだろう…」 どうせ答えられないことは分かっている。

そして、もう一つ質問した。「このごろ原理を勉強してみると、神様の創造目的は四位基台だから、真の家庭が立ち直るべきではないですか?」と訊いた。「四位基台も重要だが、これを見てみろ」と言って、神様を、そしてアダムとエバを描いた。そして「この三人!この三人が重要なのだ。これが先だ!三角形が一つになってこそ、その次に合成体が出てくるのだ。これは(子女)、その次だろう。今それはこの上に全て取り除いて、自分が重要だということだ。この四位基台が完成したので、自分が真の父母を経ずに神様と疎通することができるということだ。自分が結局メシヤをするということだ!」「そのように教えていなかったですよ」という言葉が喉までこみ上げた。「今この論理なら…何もできない。伝道もできず、食口も去っていく」と思った。「いや、この主張をよく聞いてみると、現実の中の家庭で子女たちが神様と連結されるということは父母を否定するということだ。本当の父母なら、子女が神様を愛して、神様のものを直接実体で作ってさし上げると熱心にすれば、父母は嬉しいだろうけれども…、次長の子女が公職をするとして、自分よりももっと神様の為の基準を立てて生きるなら父母として嬉しいのではないか」 これは神様の為に生きて来た真の父母に似ることが目標ではなく、ただ眺めて崇拝してしまうということではないか。

私の結論は「次長も辛そうだ」であった。今の公職者たちは「独生女論」を主張しようとすれば、既存の原理を排斥してまで宣布した内容どおり「真のお父様と真のお母様は既に一つになられたので」という言葉しか言えないのだ。独生女論の核心に真のお父様の原罪主張があるというのは、言葉にして言えないくせに、食口はまだしも、世間の前には一体どう進み出て、どう証明しようというのか、実に興味深い。

次長は私に会いに来る時間を物凄く「強調」された。「ヨンジュがまたどう考えるのか、どうするのかを確認するには、電話ではなく直接こうして訪ねてこなければならない」と言われ、疎通を強調された。私もそれで良い!話していれば答えを見つけることができるからだ。

例えば、「(イム・ヒョウォン)部長が何故声明書を書かれたのだろうか」と訊いてみると「忠誠盟誓のようなものだろう」と言われた。その心ない言葉が私には「はぁ、実話か?!…狂ったのか」と考えさせられる契機となる。本当に信じたくなかった話が公職者たちの口から次々と飛び出してくれば発狂しそうだ、本当に。

以前に部長と話し合った中で、顯進様が出て行かれた時に公職者たちが取った姿勢についての話をして下さったことがあった。「忠誠盟誓事件というのがあった…。顯進様を教会から追い出す時、全国の公職者たちに一人ずつカメラの前で『顯進様はサタンであり背倫児』と言わせ、教権(当時は亨進様)に忠誠を誓わさせた」この言葉を初めて聞いた時は「えっ、話にならない。教会でそんなことをするなんて」と否定した。部長は「本当にそうだった。その時に拒否した公職者たちは首になった。首になったり迫害されたりするのを見たら、大部分は仕方なく映像を撮ったことだろう」と言い、ユーチューブでこの忠誠盟誓事件について詳しく説明した内容を見て私が理解したことは、公職者たちを対象にした恐怖政治の始まりであり、大部分の公職者たちが良心を忘れた行動を取ったのであり、その後で皆が力を持った者の前に屈服する今のような悲惨な現実になったと理解した。

信じたくない現実に向い合った時、容易に「結局は全く同じだ」と放棄する人もいる。率直に言って、多くの二世青年がそうだ。後から悪口を言うだけで、向い合おうとはしない。主人になろうとはしない。混乱する教会状況の中でちゃんとした愛と教育を受けられなかったし、模範にしたいモデルがなかったという言い訳ならぬ言い訳をしながら、静かに後ろを向く。その原因が今では私の目に見え始めている。私は遅くに現実を知るようになったようだ。私は放棄したくない。見えない振りをしたくない。話にならないことが起きているのに「何も言ってはならず、上の言葉に従おう」と言いながら選択したその時のその方々のその結果が今につながっている。これは教会で常に言っていた「これはシステムの問題であって、食口たちが責任を果たせず、私たちの精誠が不足しているから」ということではない。本質とアイデンティティを喪失してしまった行動をしておいて、誰が誰に教育を論ずるのか。これは誰が責任を負って、誰が収拾するのだろうか。

私達はどうせ逃げることができない。二世という価値は初めから賦与されたものだ。しかしその責任を果たせなければ意味がないのだ。私たちの責任とは何だろうか。このように根本となる教えと根源が動揺しているのに、些細な問題で、あれやこれや言わずに、皆が現実に向い合い認められるように、関心を持つ態度を取らなければならない。神様を愛する姿勢で、原理を中心に互いに真正な姿勢で対さなければならない。偏見のない疎通をしなければならない。

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